第28話:桜の花びらに寄せる永遠の誓い ~四月の陽光の中で~
四月下旬の朝は、まだ朝露が植物園「花風」を優しく包み込んでいた。メインガーデンでは、八重桜が満開を迎え、その枝々から無数の花びらが春風に舞い上がっては、静かに地上へと降り注いでいく。葉月は早朝から、その桜の木々の下で作業に没頭していた。
「おはよう、今日も綺麗ね」
葉月は桜の幹に手を添えながら、優しく語りかける。樹皮の感触から、木の健康状態を確かめるように。今年は特に見事な開花で、花の色も形も申し分ない。白からほんのりと薄紅色に染まる花びらは、まるで春の空そのものを切り取ったかのよう。
枝の間を縫うように、ヒヨドリが飛び交っている。早朝の餌探りに余念がない。その黒と白のコントラストが、桜の花との間に絶妙な調和を作り出していた。
「葉月さん、やっぱりここにいましたか」
背後から聞こえた蓮華の声に、葉月はゆっくりと振り返る。
「ええ。今朝は特に、桜の声が聞こえたの」
「また植物たちと密談ですか?」
蓮華は葉月の背後から近づき、その細い腰に腕を回した。朝の冷気の中、二人の体温が心地よく混ざり合う。
「でも、今年の開花は本当に素晴らしいですね」
蓮華は専門家の目で桜の様子を観察する。
「ええ。土壌改良と、蓮華の適切な剪定のおかげよ」
「いいえ、葉月さんの愛情深い管理があってこそです」
二人の頭上で、桜の枝が優しく揺れる。まるで二人の会話を聞いているかのように。
その時、一陣の風が吹き抜け、無数の花びらが舞い上がった。まるで桜色の雪のように、その花びらは二人を包み込む。葉月の黒髪に、蓮華の肩に、そっと寄り添うように降り積もっていく。
「ほら、葉月さんの髪に……」
蓮華は葉月の髪に降り積もった花びらを、そっと指で払おうとした。しかし、その手は途中で止まる。
「どうしたの?」
「いいえ……ただ、あまりにも美しくて」
蓮華は思わず息を呑んでいた。朝日に照らされた葉月の横顔と、その黒髪に散りばめられた桜の花びらの取り合わせが、この上なく美しかったから。
「蓮華ったら、また見とれて……」
「だって……」
言葉の続きを待たずに、葉月は蓮華の唇を塞いだ。柔らかな春の陽射しの中、二人の唇が重なる。桜の木の下で交わされる朝いちばんのキスは、春の甘い香りを含んでいた。
キスの後、蓮華は葉月の耳元で囁いた。
「大好きです」
「私も……大好き」
春風が再び二人を包み、今度は更に多くの花びらが舞い上がる。その光景は、まるで祝福の雨のよう。
しかし、作業の時間は待ってはくれない。二人は名残惜しそうに離れ、それぞれの持ち場へと向かう。今日は貴重な山野草の株分けが予定されていた。
葉月は「星の温室」へ、蓮華は「せせらぎの小径」へと足を向ける。しかし、その背中越しにも、二人の間には見えない糸が張られているかのよう。時折、互いの気配を感じては微笑む。それは長年連れ添った二人だけが持つ、特別な感覚だった。
温室では、ラン科の希少種の株分けを慎重に進めていく必要がある。葉月は一つ一つの株を丁寧に観察しながら、最適な分け方を見極めていく。根の状態、新芽の向き、過去の生育履歴……全てを総合的に判断しながら、作業を進めていく。
「こっちの子は、もう少し様子を見た方がいいかしら」
葉月は特に小さな株に、優しく語りかける。弱々しく見える芽だが、その中に秘められた生命力は確かなものがある。それは、植物を愛する者にしか分からない、微かな兆しのようなものだった。
一方、せせらぎの小径では、蓮華が山野草の移植作業に取り組んでいた。ここには、里山特有の繊細な植物たちが集まっている。その一つ一つが、この地域の生態系を支える貴重な存在だ。
「このミズバショウの群落、今年は特に充実していますね」
蓮華は観察ノートに、詳細なデータを書き留めていく。株の大きさ、花の数、葉の色合い……全てが来年の管理に活かされる大切な情報となる。
午前中の作業が一段落したころ、二人は再び顔を合わせる。今度は「風の広場」での待ち合わせだ。ここでは、これから咲く夏の花々の準備が始まっていた。
「蓮華、この土の状態見てくれる?」
葉月は手のひらに土を載せ、その感触を確かめている。
「ええ、理想的な状態ですね。有機物の分解も進んでいます」
蓮華は科学的な視点で土壌を分析する。pHも、微生物の活性度も、全て最適な範囲に収まっている。
「でも、この場所はもう少し……」
言葉の途中で、蓮華は思わず声を詰まらせた。葉月が突然、後ろから抱きついてきたからだ。
「どうしたの?」
「だって……蓮華の真剣な横顔が、とても素敵だったから」
思わぬ告白に、蓮華は頬を染める。
「もう、こんな時に……」
「だめ?」
「いいえ、大歓迎です」
蓮華は振り返り、今度は自分から葉月にキスをした。二人の周りでは、春の草花たちが風に揺れている。レンゲソウの紫色や、タンポポの黄色が、まるで祝福の色となって二人を彩る。
昼過ぎ、二人は月見亭で休憩を取ることにした。ここからは植物園全体が一望でき、特に桜並木の眺めが素晴らしい。
「お弁当、作ってきたの」
葉月は籐かごから、手作りのお弁当を取り出した。
「まあ! 私の好きな玉子焼きまで」
「ええ。蓮華の笑顔が見たくて」
二人は寄り添いながら、春の午後のひとときを過ごす。時折、風に乗って桜の花びらが舞い込んでくる。その一つ一つが、まるで二人への贈り物のよう。
午後の作業は、今度は二人で一緒に行うことにした。新しく開拓した「秘密の花園」での作業だ。ここは、里山の奥まった場所にある、二人だけの特別な空間。珍しい山野草や、希少な花々を集めて育てている。
「この原種シクラメン、芽が出始めましたね」
蓮華は小さな新芽を、慎重に観察する。
「ええ。去年の秋に蒔いた種が、やっと……」
葉月の目に、小さな涙が光る。植物を育てる喜びは、時としてこんな風に心を震わせる。
蓮華は葉月の涙を、そっと指で拭った。
「泣かないで。まだまだ、たくさんの花が私たちを待っているんですよ」
「うん……でも、これは嬉し泣きだから」
二人は見つめ合い、優しく微笑む。その瞬間、「秘密の花園」に不思議な光が差し込んだ。
夕陽に照らされた桜の花びらが、まるでダイヤモンドのように輝きを放つ。その光は、二人の姿を優しく包み込む。
「ねえ、蓮華」
「はい?」
「私ね、この場所で、蓮華と永遠に……」
言葉の続きは必要なかった。蓮華は葉月を強く抱きしめ、その思いを全身で受け止める。
「ええ、私も同じです。この植物園で、葉月さんと共に、永遠に……」
夕暮れの光の中、二人の影が一つに溶け合う。周りでは、夕風に乗って桜の花びらが舞い続けている。その一つ一つが、二人の永遠の誓いを見守るように、静かに、そして確かに。
やがて日が沈み、星々が瞬き始める頃。二人は「星の温室」で、一日の締めくくりの作業に取り掛かっていた。
「今夜は、月下美人が咲くかもしれませんね」
蓮華は蕾の状態を確認しながら言う。
「ええ。私たちの誓いを、祝福してくれるみたい」
葉月は蓮華の腕の中で、幸せそうに目を閉じる。
温室の中で、確かに新しい命が息づいている。それは、二人の愛がより深く、より確かなものになっていく証。桜の季節は、そんな二人に最高の贈り物をくれた。
春の夜風が、優しく二人を包み込んでいく。明日もまた、新しい一日が始まる。それは、この植物園でしか味わえない、特別な愛の物語。
桜の花びらは、これからも二人の永遠の愛を見守り続けることだろう。
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