第26話:春の目覚め ~花と共に深まる愛~
三月上旬の朝は、まだ冷気を帯びながらも、確かな春の気配が漂っていた。植物園「花風」の星の温室では、葉月が早朝から作業に没頭している。蘭の新芽が、まるで春を待ちわびるように、次々と顔を覗かせていた。
「おはよう、みんな元気?」
葉月は一鉢一鉢に優しく語りかけながら、水やりを行う。冬から春への移行期は、最も繊細な水管理が必要な時期だ。根の状態を確認しながら、適切な水分量を見極めていく。
ふと、温室の片隅で異変に気付いた。寒蘭の一株が、予想外の場所から花芽を出していたのだ。
「まあ! こんなところからも……」
思わず声が上ずる。その瞬間、背後から優しい腕が伸びてきた。
「また、植物たちと密談ですか?」
蓮華の声には、からかうような暖かさが混ざっている。
「もう、蓮華ったら! でも見て、この子」
葉月は蓮華の手を取り、花芽へと導いた。
「驚きましたね。データ上では、ここからの発芽確率は0.1%以下なのに」
「ふふ、植物たちは時々、科学者の予想を裏切るのよね」
蓮華は葉月の手を握ったまま、微笑んだ。
「そうですね。だからこそ、毎日が新しい発見に満ちているんです」
*
午前中、二人はメインガーデンの手入れに取り掛かっていた。梅の花が満開を迎え、その香りが園内に漂う。白から薄紅色まで、様々な品種の花が春の訪れを告げている。
「この枝振り、理想的ですね」
蓮華は専門家の目で、樹形を確認していく。
「でも、ここの剪定、もう少し控えめにした方がいいかも」
葉月は直感的に枝の状態を判断する。
「なるほど。確かに、蕾の付き方を見ると……」
言葉の途中で、蓮華は不意に葉月を抱きしめた。
「どうしたの? 急に」
「梅の香りに誘われて。葉月さんの髪に、花びらが舞い落ちたから」
その言葉に、葉月は頬を染めた。
*
昼下がり、せせらぎの小径では早春の草花が次々と顔を覗かせていた。スプリング・エフェメラルと呼ばれる春の妖精たちが、短い命を懸命に輝かせている。
「ほら、見て! カタクリが咲き始めたわ」
葉月は小川の縁に膝をつき、淡い紫の花を指さした。
「今年は例年より一週間早いですね」
「さすが蓮華。そこまで把握してるなんて」
「当然です。この園の全ての花が、私たちの大切な家族なんですから」
その言葉に、葉月は思わず目を潤ませた。
「泣かないでください。この後もまだ、たくさんの花が待っているんですよ」
蓮華は葉月の頬に触れ、その涙をそっと拭った。
*
午後、風の広場では春の準備が進められていた。これから咲く花々のための土作りだ。
「この土壌、理想的な状態になってきましたね」
蓮華は pH 測定器で確認を行う。
「ええ。冬の間の腐葉土が、良い具合に混ざってるわ」
葉月は手のひらに土を取り、その感触を確かめる。
「葉月さんって、本当に植物の気持ちが分かるんですね」
「そんなことないわ。ただ……」
「ただ?」
「植物たちが教えてくれるの。どうすれば喜んでくれるかって」
蓮華は葉月の手を取り、その土の感触を共有した。
*
夕暮れ時、月見亭からは夕陽に染まる梅林が一望できた。
「ねえ、蓮華」
「はい?」
「私たちって、植物と一緒に成長してるのかな」
蓮華は葉月の肩を抱き、優しく頷いた。
「ええ。季節の移ろいと共に、私たちの愛も深まっていると思います」
「でも、植物は毎年同じように咲くのに」
「いいえ、同じに見えて、少しずつ変化してるんです。私たちみたいに」
その言葉に、葉月は蓮華の胸に顔を埋めた。
*
その夜、星の温室では不思議な出来事が起きていた。
月の光を受けて, 朝見つけた寒蘭の花芽が、かすかな光を放ち始めたのだ。
「見事ね……」
葉月は蓮華の腕の中で、幻想的な光景を見つめていた。
「科学では説明できない不思議がまだまだありますね」
「それでいいと思うの」
蓮華は葉月の髪を優しく撫でた。
「ええ。分からないことがあるから、二人で発見できる喜びがあるんです」
花芽からの光は、二人の愛を祝福するように輝き続けている。
*
翌朝、葉月は蓮華の腕の中で目を覚ました。
「おはよう。今朝は寒くない?」
「ううん、蓮華が隣にいてくれるから」
窓の外では、梅の花びらが朝風に舞っていた。その光景は、まるで春の精たちの舞踏会のよう。
「ねえ、蓮華」
「はい?」
「これからも、一緒に植物たちを育てていこうね」
「ええ。この園で、植物たちと、そして葉月さんと共に、永遠に」
朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしていた。温室の花々も、二人の新たな一日を見守るように、静かに芽吹いていく。
三月の朝の光が、そんな二人の姿を優しく包み込んでいった。それは、まるで永遠に続く愛の物語の一ページのように、美しく、そして儚い瞬間だった。
花と共に深まる愛。それは、この植物園でしか味わえない、特別な幸せの形なのかもしれない。春の訪れと共に、二人の心はより一層近づいていく。それは、まるで花々が少しずつ開いていくように、確実に、そして美しく。
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