第26話:春の目覚め ~花と共に深まる愛~

 三月上旬の朝は、まだ冷気を帯びながらも、確かな春の気配が漂っていた。植物園「花風」の星の温室では、葉月が早朝から作業に没頭している。蘭の新芽が、まるで春を待ちわびるように、次々と顔を覗かせていた。


「おはよう、みんな元気?」


 葉月は一鉢一鉢に優しく語りかけながら、水やりを行う。冬から春への移行期は、最も繊細な水管理が必要な時期だ。根の状態を確認しながら、適切な水分量を見極めていく。


 ふと、温室の片隅で異変に気付いた。寒蘭の一株が、予想外の場所から花芽を出していたのだ。


「まあ! こんなところからも……」


 思わず声が上ずる。その瞬間、背後から優しい腕が伸びてきた。


「また、植物たちと密談ですか?」


 蓮華の声には、からかうような暖かさが混ざっている。


「もう、蓮華ったら! でも見て、この子」


 葉月は蓮華の手を取り、花芽へと導いた。


「驚きましたね。データ上では、ここからの発芽確率は0.1%以下なのに」


「ふふ、植物たちは時々、科学者の予想を裏切るのよね」


 蓮華は葉月の手を握ったまま、微笑んだ。


「そうですね。だからこそ、毎日が新しい発見に満ちているんです」



 午前中、二人はメインガーデンの手入れに取り掛かっていた。梅の花が満開を迎え、その香りが園内に漂う。白から薄紅色まで、様々な品種の花が春の訪れを告げている。


「この枝振り、理想的ですね」


 蓮華は専門家の目で、樹形を確認していく。


「でも、ここの剪定、もう少し控えめにした方がいいかも」


 葉月は直感的に枝の状態を判断する。


「なるほど。確かに、蕾の付き方を見ると……」


 言葉の途中で、蓮華は不意に葉月を抱きしめた。


「どうしたの? 急に」


「梅の香りに誘われて。葉月さんの髪に、花びらが舞い落ちたから」


 その言葉に、葉月は頬を染めた。



 昼下がり、せせらぎの小径では早春の草花が次々と顔を覗かせていた。スプリング・エフェメラルと呼ばれる春の妖精たちが、短い命を懸命に輝かせている。


「ほら、見て! カタクリが咲き始めたわ」


 葉月は小川の縁に膝をつき、淡い紫の花を指さした。


「今年は例年より一週間早いですね」


「さすが蓮華。そこまで把握してるなんて」


「当然です。この園の全ての花が、私たちの大切な家族なんですから」


 その言葉に、葉月は思わず目を潤ませた。


「泣かないでください。この後もまだ、たくさんの花が待っているんですよ」


 蓮華は葉月の頬に触れ、その涙をそっと拭った。



 午後、風の広場では春の準備が進められていた。これから咲く花々のための土作りだ。


「この土壌、理想的な状態になってきましたね」


 蓮華は pH 測定器で確認を行う。


「ええ。冬の間の腐葉土が、良い具合に混ざってるわ」


 葉月は手のひらに土を取り、その感触を確かめる。


「葉月さんって、本当に植物の気持ちが分かるんですね」


「そんなことないわ。ただ……」


「ただ?」


「植物たちが教えてくれるの。どうすれば喜んでくれるかって」


 蓮華は葉月の手を取り、その土の感触を共有した。



 夕暮れ時、月見亭からは夕陽に染まる梅林が一望できた。


「ねえ、蓮華」


「はい?」


「私たちって、植物と一緒に成長してるのかな」


 蓮華は葉月の肩を抱き、優しく頷いた。


「ええ。季節の移ろいと共に、私たちの愛も深まっていると思います」


「でも、植物は毎年同じように咲くのに」


「いいえ、同じに見えて、少しずつ変化してるんです。私たちみたいに」


 その言葉に、葉月は蓮華の胸に顔を埋めた。



 その夜、星の温室では不思議な出来事が起きていた。


 月の光を受けて, 朝見つけた寒蘭の花芽が、かすかな光を放ち始めたのだ。


「見事ね……」


 葉月は蓮華の腕の中で、幻想的な光景を見つめていた。


「科学では説明できない不思議がまだまだありますね」


「それでいいと思うの」


 蓮華は葉月の髪を優しく撫でた。


「ええ。分からないことがあるから、二人で発見できる喜びがあるんです」


 花芽からの光は、二人の愛を祝福するように輝き続けている。



 翌朝、葉月は蓮華の腕の中で目を覚ました。


「おはよう。今朝は寒くない?」


「ううん、蓮華が隣にいてくれるから」


 窓の外では、梅の花びらが朝風に舞っていた。その光景は、まるで春の精たちの舞踏会のよう。


「ねえ、蓮華」


「はい?」


「これからも、一緒に植物たちを育てていこうね」


「ええ。この園で、植物たちと、そして葉月さんと共に、永遠に」


 朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしていた。温室の花々も、二人の新たな一日を見守るように、静かに芽吹いていく。


 三月の朝の光が、そんな二人の姿を優しく包み込んでいった。それは、まるで永遠に続く愛の物語の一ページのように、美しく、そして儚い瞬間だった。


 花と共に深まる愛。それは、この植物園でしか味わえない、特別な幸せの形なのかもしれない。春の訪れと共に、二人の心はより一層近づいていく。それは、まるで花々が少しずつ開いていくように、確実に、そして美しく。

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