第10話:月下の誓い ~夏の温室で交わした永遠の言葉~

 七月も下旬に差し掛かり、植物園「花風」には濃密な夏の空気が漂っていた。朝露が乾ききらない早朝、葉月は温室での水やり作業に没頭していた。サギソウの新芽が、まるで白鷺の舞うような優美な姿を見せ始めている。


「おはよう、みんな元気にしてた?」


 葉月は一鉢一鉢に優しく語りかけながら、水の量を調整していく。特に、開花直前のナツエビネには細心の注意を払う。この時期、蒸れによる腐敗を防ぐため、朝一番の水やりが重要になってくるのだ。


 朝もやの向こうから、蓮華の姿が浮かび上がってきた。


「葉月さん、今朝も早いんですね」


「ええ。ナツエビネの子たちが、もうすぐ咲きそうなの」


 蓮華は葉月の背後から優しく腕を回し、その肩に顎を乗せた。


「葉月さんの勘は相変わらず確かですね。あと二、三日でしょうか」


「もう、からかわないで」


 葉月は照れくさそうに微笑んだが、蓮華の腕の中でより深く身を寄せる。


「でも本当に、葉月さんの植物を見る目には感服します。私は科学的なデータで判断するのに、葉月さんは感覚で分かってしまう」


「それは蓮華が褒めすぎよ。私だって、蓮華の知識には及びもしないわ」


 二人の吐息が温室の湿った空気に溶けていく。サギソウの新芽が、まるで二人を祝福するかのように、かすかに揺れていた。



 午前中、二人はキバナカンゾウの株分けに取り掛かっていた。真夏の強い日差しを浴びて、黄金色の花が一層鮮やかに輝いている。


「この根株、かなり大きくなってるわね」


 葉月は慎重にスコップを入れながら、根の張り具合を確認する。


「ええ。もう四、五株には分けられそうです」


 蓮華は専門家らしい正確な目測で答える。その横顔に汗が滴り、葉月は思わず見とれてしまう。


「あら、葉月さん? 何か気になることでも?」


「ううん……ただ、蓮華の真剣な顔が素敵だなって」


 蓮華は思わず手を止め、照れくさそうに目を伏せた。


「もう、作業中にそんなこと言われたら、集中できなくなってしまいます」


 それでも、蓮華の口元には幸せそうな笑みが浮かんでいる。


「でも、嬉しいんでしょう?」


「……ええ、とても」


 二人の周りでは、夏のチョウたちが華麗な舞を披露していた。モンキチョウの黄色い翅が、キバナカンゾウの花と呼応するように、陽光に輝いている。



 昼下がり、せせらぎの小径では思いがけない発見があった。


「葉月さん、こちらです!」


 蓮華の声に、葉月は足を向けた。小川のほとりで、ヒメボタルの幼虫を見つけたのだ。


「まあ、こんなところに」


 葉月は慎重に地面に膝をつき、幼虫を観察する。


「おそらく、もうすぐ蛹になる時期です」


 蓮華は専門的な知識で解説を加える。


「蛹化までの期間は約二週間。その後、成虫になって光を放つようになるんですよ」


「ねえ、蓮華」


「はい?」


「私たちが出会った夜も、ホタルが光っていたわよね」


 蓮華は優しく微笑んだ。


「ええ。あの夜の光が、今でも私の心に住んでいます」


 小川では、小さなカワニナが岩に張り付いている。ホタルの幼虫の大切な餌だ。生命の繋がりを目の当たりにして、二人は黙って手を握り合った。



 午後、星の温室では夜咲き植物の植え替え作業が行われていた。


「この月下美人、今年は特に調子がいいわね」


 葉月は大きく育った茎を支柱に固定しながら言った。


「ええ。先日の植え替えが効果的だったんでしょう」


 蓮華は新しい用土を丁寧に配合する。有機物と無機物のバランスが、夜咲き植物の生育には重要になる。


 作業の合間、蓮華は葉月の横顔を盗み見ていた。汗で髪が少し濡れ、首筋が艶めかしく光っている。


「蓮華? どうかした?」


「いえ、ただ……葉月さんが綺麗だなって」


 思わず口にした言葉に、今度は蓮華の方が赤面する。


「こんな汗まみれの私が?」


「ええ。どんな時でも、葉月さんは美しい」


 葉月は作業の手を止め、蓮華に近づいた。


「なら、もっと近くで見てもいい?」


 二人の唇が重なる。温室の湿った空気が、その密やかな愛の表現を包み込む。



 夕暮れ時、月見亭からは夕陽に染まる里山が一望できた。


「今夜は満月ね」


 葉月は蓮華の肩に寄り掛かりながら、東の空を見上げる。


「ええ。月下美人が咲く夜になりそうです」


 蓮華は葉月の髪を優しく撫でながら答えた。


「一年前の今頃も、こうして二人で月を待ったわね」


「ええ。あの夜、葉月さんに告白したんです」


 二人は懐かしそうに微笑み合う。夕陽が山の端に沈もうとする中、小さなキスを交わした。



 その夜、星の温室では思いがけない光景が広がっていた。


 月の光を受けて、月下美人が次々と花を開き始めたのだ。甘い香りが温室いっぱいに広がり、まるで真夜中の宴のよう。


「見事ね……」


 葉月は蓮華の腕の中で、感動的な光景を見つめていた。


「ええ。まるで、私たちの愛を祝福してくれているみたい」


 大輪の白い花が、月の光を反射して神秘的に輝いている。その中心では、スズメガが花蜜を求めて舞う姿も見えた。



 翌朝、葉月は蓮華の腕の中で目を覚ました。


「おはよう。今日も早いのね」


 蓮華が葉月の髪を優しく撫でる。


「ええ。だって、今日も素敵な一日になる予感がするんです」


 葉月は振り返り、蓮華の唇に軽くキスをした。


 窓の外では、朝露に濡れた花々が新しい一日の始まりを告げている。ナツエビネの蕾が、まさに開こうとしていた。二人の愛も、この夏の陽射しの中で、より一層深く、確かなものへと育っていくのだろう。


 新しい一日が、また始まろうとしていた。セミの鳴き声が響き始める中、二人は手を取り合って温室へと向かう。今日も植物たちは、二人の愛を見守りながら、静かに、しかし確実に成長を続けていくのだった。

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