第4話:薔薇の時間

 五月も終わりに近づき、植物園「花風」にバラの季節が訪れていた。朝露に濡れた花びらが、まるで宝石のように輝いている。葉月は早朝のローズガーデンを歩きながら、一輪一輪の状態を確認していく。


「おはよう、可愛い子たち」


 葉月は優しく微笑みながら、咲き始めたばかりのピエール・ド・ロンサールに触れる。淡いピンクの花弁が、指先に柔らかな感触を残す。


「今日も素敵な朝ですね」


 蓮華が、剪定バサミを手に現れた。


「ええ。バラたちが最高の姿を見せてくれる時期になったわ」


 葉月は蓮華の頬にそっとキスをする。まだ冷たい朝の空気の中で、二人の頬が僅かに紅潮する。



 午前中、二人はバラの手入れに没頭した。花がらを摘み、新芽の誘引を行い、時には害虫を探して葉裏を丁寧に確認する。


「このグラハム・トーマス、今年は特に見事ね」


 葉月は黄色い大輪の花を見上げながら言った。


「ええ。冬の剪定が効果的だったんでしょう」


 蓮華は専門家らしい視点で答える。その手つきは的確で、無駄のない動きで作業を進めていく。


 バラの香りが風に乗って漂う中、二人は時折見つめ合い、小さな笑みを交わす。汗で髪が少し濡れた蓮華の姿に、葉月は胸が高鳴るのを感じていた。



 昼下がり、せせらぎの小径では新たな発見があった。


「葉月さん、こちらです!」


 蓮華の声に、葉月は足を向けた。小川のほとりで、ヤマボウシの花が咲き始めていたのだ。


「まあ、もうこんな時期なのね」


 白い苞が風に揺れる様子は、まるで蝶が舞っているよう。その下では、ギボウシの新芽が勢いよく伸びていた。


「自然の営みって、本当に素晴らしいわね」


 葉月の言葉に、蓮華は静かに頷く。


「ええ。一つ一つの命が、確実に季節を紡いでいきますからね」


 小川では、ヤゴが水面に顔を出していた。もうすぐ、トンボになる時期だ。



 午後、風の広場では特別な準備が始まっていた。週末に予定されている「バラフェスティバル」のための設営だ。


「アーチはここでいいかしら?」


 葉月が図面を確認する傍らで、蓮華はツルバラの誘引を行っていた。


「ええ。ニュードーンの花が、ちょうどアーチの頂点で咲くはずです」


 二人で会場のレイアウトを確認しながら、次々と準備を進めていく。時折、初夏の風が二人の間を通り抜け、バラの香りを運んでいく。


「蓮華」


「はい?」


「ずっとこうしていられたらいいのに」


 葉月の言葉に、蓮華は作業の手を止めた。


「私もそう思います。でも……」


 蓮華は葉月の手を取り、その手の平にキスをした。


「毎日が特別な時間ですよ。葉月さんと一緒なら」



 夕暮れ時、月見亭からはバラ園が夕陽に染まる様子が見えた。


「明日は満月ね」


 葉月は蓮華の肩に寄り掛かりながら、東の空を見上げる。


「ええ。バラと満月。素敵な取り合わせになりそうです」


 蓮華は葉月の髪を優しく撫でながら答えた。


「まるで物語みたいね」


「私たちの物語です」


 その言葉とともに、二人の唇が重なる。夕暮れの光が、その瞬間を赤く染めていた。



 その夜、星の温室では不思議な出来事が起きていた。


 月の光を受けて、夜香木の一種であるゲッカビジンが突然、花を開き始めたのだ。強い芳香が温室いっぱいに広がり、まるで真夜中の香りの宴のよう。


「こんな香り、初めてかも」


 葉月は蓮華の腕の中で、その神秘的な光景を見つめていた。


「ええ。月の魔法みたいですね」


 白い花が次々と開いていく様子は、まるで星が降り注ぐかのよう。その周りを、夜の蛾たちが優雅に舞っている。


 二人は静かに寄り添いながら、この特別な夜の営みを見守っていた。



 翌朝、葉月は早くに目を覚ました。窓の外では、もう鳥たちが賑やかに鳴いている。


「もう起きてたんですね」


 蓮華が後ろから抱きしめてきた。


「ええ。今朝は特別な朝だから」


 葉月は振り返り、蓮華の唇に軽くキスをした。


 窓の外では、バラの花が朝露に輝いている。昨夜の満月は西の空に沈もうとしていて、その光が新緑の葉を銀色に染めていた。


「今日も素敵な一日になりそうね」


「ええ、きっと」


 二人は寄り添いながら、新しい一日の始まりを見つめていた。バラの香りが、朝の空気の中に漂っている。それは、永遠の愛を誓うような、甘くも凛とした香りだった。


 春から初夏へ。移ろう季節の中で、二人の愛はより一層深まっていくのだった。

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