第2話:新緑の囁き

 春の深まりとともに、植物園「花風」の景色が日に日に変化していく。八重桜が満開を迎え、若葉が光を受けて輝く季節。朝もやの中、葉月は園内を巡回していた。


「おはよう、可愛い子たち」


 葉月は露に濡れた芝生の上を歩きながら、次々と開花していくヤマブキの花に語りかける。黄金色の花びらが朝日に輝き、まるで小さな太陽のように見える。


 風の広場では、タンポポの綿毛が春風に乗って舞い上がっていた。その様子を見つめながら、葉月は幼い頃の記憶を思い出していた。願い事をして綿毛を吹き飛ばした、あの懐かしい日々。


「葉月さん、こちらですか」


 蓮華の声が、葉月の思考を現在へと引き戻す。


「ええ。ヤマブキの様子を見ていたの」


「そうですね。今年は特に見事に咲いていますよ」


 蓮華は葉月の隣に立ち、その手を取った。朝の冷気で冷たくなった指が、互いの温もりで温まっていく。


「今日は、八重桜の剪定をしないといけませんね」


 蓮華の言葉に、葉月は小さく頷いた。


「そうね。でも、その前に……」


 葉月は蓮華の手を引いて、せせらぎの小径へと向かった。



 小径では、ニリンソウが可憐な白い花を咲かせていた。清流のせせらぎに寄り添うように咲く姿は、まるで春の妖精のよう。


「この子たち、今が一番きれいな時期なのよ」


 葉月は地面に膝をつき、花を覗き込む。蓮華もその横に座り、二人で静かに花を見つめた。


「ええ。でも、この後もスズランが咲き始めますよ」


「そうね。春から初夏への、大切な橋渡しをしてくれる子たちよ」


 葉月は優しく微笑んだ。植物たちの命のリレーは、いつも彼女の心を温かな気持ちで満たす。


 近くの木立で、ウグイスが鳴き始めた。その清らかな声が、朝もやの中に溶けていく。



 午前中、二人は八重桜の剪定作業に取り掛かった。老木となった枝を丁寧に切り落とし、来年の開花に向けて樹形を整えていく。


「この枝は、ここで切りましょうか」


 蓮華が指さす場所を、葉月は慎重に確認する。


「ええ、その角度で大丈夫よ」


 剪定ばさみが、乾いた音を立てて枝を切断する。切り口には、すぐに癒合剤が塗られた。


「まるで手術みたいね」


 葉月の言葉に、蓮華は微笑んだ。


「本当にそうですね。私たちは、木の主治医みたいなものかもしれません」


 作業の合間、二人は時折見つめ合い、小さな笑みを交わす。汗で髪が少し乱れた蓮華の姿に、葉月は胸が高鳴るのを感じていた。



 昼下がり、星の温室で水やりをしていると、珍しい来園者が訪れた。


「すみません、こちらで写真を撮らせていただけますか?」


 声の主は、カメラを持った年配の女性だった。その後ろには、白無垢姿の若い女性が立っている。


「結婚式の前撮りなんです」


 花嫁が恥ずかしそうに説明する。


「まあ、素敵」


 葉月は温室の中で最も美しい場所へと二人を案内した。蘭が咲き誇る一角で、花嫁は凛とした表情を見せる。


 撮影を見守りながら、葉月は蓮華の手をそっと握った。二人の永遠の愛を誓う場所として、この園が選ばれたことが嬉しかった。



 夕暮れ時、月見亭で二人は休息を取っていた。夕陽に照らされた新緑が、まるで翡翠のように輝いている。


「今日は素敵なお客様が来てくれたわね」


 葉月は蓮華の肩に寄り掛かりながら言った。


「ええ。あの白無垢姿、とても美しかったです」


 蓮華は葉月の髪を優しく撫でながら答える。


「私たちも、いつか……」


 言葉の続きは、夕暮れの空気の中に溶けていった。しかし、二人の心の中では、その願いがしっかりと共鳴していた。



 その夜、二人は風の広場で星空観察をすることにした。春の星座が、透明な夜空に輝いている。


「見て、春の大曲線」


 蓮華が指さす方向に、アークトゥルスからスピカへと続く星々が、優美な弧を描いていた。


「本当に。まるで、私たちを祝福してくれているみたい」


 葉月は蓮華の腕の中で身を寄せる。春の夜風が、二人の髪を優しく撫でていく。


 遠くで、ヨタカの鳴き声が聞こえ始めた。その不思議な声は、夜の静けさにゆっくりと溶けていく。


「葉月さん」


「ん?」


「いつか、本当に……」


 言葉の続きは、優しいキスによって封じられた。春の夜空の下、二人の愛は静かに深まっていく。



 新緑の季節は、確実に近づいていた。メインガーデンでは、チューリップが次々と花を開き、色とりどりの花壇を作り出している。


 翌朝、葉月は早くに目覚めた。窓の外では、山スズメが賑やかに鳴いている。隣で眠る蓮華の寝顔を見つめながら、葉月は昨夜の星空を思い出していた。


 そっと布団を抜け出し、窓辺に立つ。朝もやの向こうで、里山の稜線が徐々に姿を現す。新緑の葉が朝日に輝き、まるで緑の宝石をちりばめたような景色が広がっていた。


「また早起きですね」


 背後から蓮華の声がして、温かな腕が葉月の腰に回される。


「ええ。今朝は特別に美しいから」


 葉月は蓮華の腕の中で振り返り、その唇に軽くキスをした。


 窓の外では、八重桜の花びらが舞い、新緑の中へと消えていく。春から初夏への移ろいは、二人の愛をより一層深めていくように思えた。


 新しい季節の始まりを、二人は静かに見守っていた。若葉の匂いが、朝の空気に満ちている。それは、明日への希望を優しく包み込むような、爽やかな香りだった。

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