狼人の青年に弓を貸したら、許婚を殺され、さらわれた
藤井透弥
第1話 狼人の青年に弓を貸したら、許婚を殺され、さらわれた
矢を構える。かつては自分の弓だったはずなのに、震えで狙いが定まらない。
だが、この距離であればどこに当たるにしろ、一生の傷を残す。
いいや、殺さなくては。確実に。
目の前の、彼を。この男を。
この男は許婚を、私の父を、一族の者を。
殺した男なのだから。
この状況において男は、笑っていた。
とても、優しく。
なぜ。なんで。
あなたを恨み憎しむ醜い私を、なぜ、そんな顔で見つめるの。
【狼人の青年に弓を貸したら、許婚を殺され、さらわれた】
広大な草原の広がるこの地には、かつていくつもの国、そして部族があった。それは狼の牙を、あるいは鷹の目を、またあるいは虎の爪を持つ者達。彼らは時に争い、時に手を取り、この地に生きていた。
ここにナルクルという狼人の青年がいた。
彼は名のある豪族の子息である。褐色の肌に映える赤毛に、緋色の瞳。獣の耳も同様に赤く、中の柔らかな毛だけは白かった。通常この一族に生まれる子供は皆黒髪で、肌の色も含め彼の容姿は異質だった。
狼人の特徴である耳や尻尾以外、その端正な顔立ちも含めて母譲りのものであった。母は人族の娼婦であり、彼を産むとすぐに亡くなった。
異なる種族での交わりは、決して珍しい事ではなかったが、子が産まれる事は稀だった。そうして産まれ出た子供は、蔑みの対象になる事が多かった。ナルクルも例外ではなく。腹違いの兄達に虐まれ育った。
その日も、そうだった。王族主催の、他種族の交流を兼ねた狩猟大会。表向きは平和な祭典であったが、その実、取った獣の数で順位が決まるので、各々の一族の力を示そうと躍起になっていた。
その最中ナルクルはしゃがみ、折られた愛用の弓を見つめながら、途方に暮れていた。きっと兄達が折ったのだろう。耳の奥でせせら笑う声が響いて、形の良い眉をひそめる。数え年で15になるその顔には、青年と少年の狭間にあり。赤き瞳にかかる長いまつ毛が、独特な耽美さを称えていた。
予備の弓など持っていなかった。もし1匹も仕留める事が出来なければ、父からは一族の面汚しだと折檻を受けるだろう。強く目をつぶる。状況など変わりようがないが、この現実から、少しでも逃れたかった。
耳鳴りがする。手足が冷たくなっていく。兄や父や継母や、自分の境遇以前に、この世に生まれてきたことさえも、恨みたくなる。自然と手が腰の短剣の柄を掴んだ。何もかも、嫌になっていた。
するとふいに蹄の音が響いた。
「いかがされました?」
頭上から可憐な声がした。振り返ると、草原の中に漆黒の馬に跨った少女がいた。ナルクルが耳を微かに動かしただけで、呆気に取られていた。彼女は馬から颯爽と降り立った。
歳は少し下だろうか。白く丸み帯びた耳に、黒い斑点のある尻尾を見るに、白豹族のようだ。銀色の長い髪は結えられており、着物は黒かった。白磁のような肌と、すみれ色の瞳が眩しい。
「あ、その……」
「大変、弓が折れてしまったのですか?」
彼女はすぐに状況を察して、目を見開いた。ナルクルはその瞳に見つめられると、何故だかまともに声を出す事ができないでいた。耳をぴんと立てて、やや目を逸らし頷く。
「代わりの弓は?」
「こ、これしか、持っていなくて」
言っていて、ひどく情けなかった。
「そう。では、これをお使いください」
「え?あ、でも」
「私は予備を持っているから」
すると彼女は腰に下げていた弓を差し出してきた。戸惑っていると、手を取られた。瞬間、ぞわりと鳥肌が立つ。そうして弓を握らせられた。
「私、女にしては重いのを引いているの。お使いください」
その手も、その声も、柔和なその笑みも。彼女のすべてが温かかった。
泣きそうに、なっていた。
「ありがとう。……必ず、返す」
「ううん、もうこれは貴方に差し上げた物になるので。ただ、この弓で獲物を捕まえて頂ければ、私は満足です。……それでは!」
彼女は長い尻尾をしならせ再び馬に跨ると、手綱を握った。
「待って!アバルの子のナルクルです!名前を!」
「ヤパスの娘の、アリマです!ご健闘を祈ります!では!」
「うん、君も!」
ナルクルは遠ざかるアリマの背を、見つめていた。姿が見えなくなった後も、先ほどの彼女の姿を思い返す。手元の弓に視線を落とせば、緊張して立っていた尻尾が、自然と振れる。笑みが溢れた。
まるで地獄のようなこの世で、生きていく唯一の意味を、彼は見つけた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます