『23時の終電―私だけが知る都市伝説―』~忘れられない初恋の君と、最後の約束~
ソコニ
第1話 終電の闇
プロローグ
二十三時の駅には、時刻表にない電車が来ると噂がある。
深い闇の中を走るその電車には、忘れられた人々が乗っているという。
失われた記憶。
伝えられなかった言葉。
永遠の別れ。
けれど、その電車に乗れるのは、誰かの記憶の中で生き続けている人だけ。
そして、その記憶を持つ人だけが、切符を手にすることができる。
あなたの記憶の中にも、乗せたい人はいますか?
第1章:終電の闇
モニターの光が、深夜のオフィスに青白く揺らめいていた。霧島美咲は目を細め、画面に映る広告企画書の最後の行に目を走らせる。二十三時を回ろうとする時計の針が、視界の隅でちらついた。
「これで、終わり……」
溜息とともに背もたれに深く身を沈める。企画書を保存する音が静寂を破り、それは深夜のオフィスに響く最後の音となった。
美咲は立ち上がり、机上の書類を整理する。終電の時刻まであと十分。急げば間に合うはずだった。しかし、その時、デスクの引き出しから目に入ったものが彼女の動きを止めた。
十年前の高校の卒業アルバム。どうしてこんなものが職場に? 考える間もなく、スマートフォンのアラームが鳴った。
「あっ」
慌てて駅に向かう足取りは重く、階段を駆け下りる度に、ヒールの音が虚しく響いた。改札を抜けた時、電光掲示板の文字が美咲の希望を打ち砕く。
終電、五分前に出発済み。
「うそ……」
無人となった駅のホームに、美咲の溜息だけが響く。タクシー乗り場まで歩こうとした時、不意に背筋が凍るような風が吹き抜けた。
時計は二十三時ちょうど。
ホームに停まっているはずのない電車が、音もなく滑り込んでくる。車体は古びた銀色で、窓ガラスは曇っていた。どこかノスタルジックな雰囲気を漂わせる車両。しかし、時刻表にそんな電車は載っていないはずだ。
車内は薄暗く、蛍光灯が時折チカチカと明滅している。乗客は疎らで、皆が無言で座っていた。美咲は躊躇したが、タクシー代を考えると、この不思議な終電に乗るしかない。
ドアが閉まる直前、彼女は車内に足を踏み入れた。
座席に腰を下ろした瞬間、車内の温度が急激に下がったような気がした。向かいの席に座っていた年配の女性が、美咲に微かに目を向ける。その目が、どこか悲しげだった。
電車が動き出す。車窓の外は、見慣れた街並みのはずなのに、どこか違和感があった。建物の輪郭がぼやけ、街灯の明かりが不自然に揺らめいている。
最初の駅に停車した時、異変は起きた。
向かいに座っていた年配の女性が、まるで霧が消えるように、静かに姿を消した。残されたのは、半分編みかけの手編みのマフラーだけ。
「え……?」
美咲は目を疑った。他の乗客は誰も反応を示さない。まるでそれが当たり前のことのように。
車内の蛍光灯が再び明滅する。美咲は慌てて腕時計を確認した。
針は二十三時で止まったままだった。
電車は次の駅に向けてゆっくりと走り出す。車輪の音が、まるで誰かの泣き声のように聞こえた。美咲の隣に座っていたサラリーマン風の男性が、ため息をつく。彼もまた、次の駅で消えてしまうのだろうか。
そして、美咲の目に映ったのは、最後尾の車両。そこには、どこか見覚えのある後ろ姿が——。
「れん……?」
思わず声に出してしまった名前。十年前、交通事故で命を落とした初恋の人。
あり得ないはずなのに、確かにそこにいる。
電車は暗闇の中を走り続け、次の駅へと近づいていく。車内の温度は、さらに下がっていった。
美咲は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の中まで凍らせる。車内の光が再び明滅し、今度は長く暗闇が続いた。
「次は、霧綾駅、霧綾駅です」
車内アナウンスが響く。しかし、その声は人の声とは思えなかった。まるで古いレコードを逆再生したような、歪んだ音色。美咲は思わず身震いした。
隣のサラリーマンが立ち上がる。
「あの、待って下さい」
美咲は声をかけていた。男性は振り向いた。四十代半ばといったところか。目の下にクマを作り、疲れた表情を浮かべている。
「消えないで」
男性は微かに笑った。それは諦めたような、解放されたような、不思議な笑みだった。
「私はもう、誰にも覚えられていない人間です」
そう言って、男性は電車のドアに向かって歩き出す。その背中が、駅のホームの光に溶けるように消えていった。座席には古びた名刺が一枚、残されていた。
手に取ると、インクはほとんど剥げかけていた。かろうじて社名と名前が読める。「株式会社未来企画 営業部 影山誠一」。会社名を検索しようとスマートフォンを取り出すが、画面は二十三時を指したまま、一切の反応を示さない。
電車は再び動き出す。今度は更に深い闇の中へと進んでいく。窓の外には、もう建物の影すら見えない。ただ漆黒の闇が広がっているだけ。その暗闇の中で、小さな光が漂っているのが見えた。蛍のようにも、人魂のようにも見える光の粒が、電車と同じ速度で浮遊している。
美咲は荷物を強く抱きしめた。手の中の体温が、唯一の確かな感触だった。
前方の車両では、若い女性が座っている。スーツ姿ではなく、白いワンピース。長い黒髪が、車両の薄暗い照明に揺れている。その姿が、どこか懐かしい。
女性が振り返った。二十代前半といったところ。面影は、美咲が高校時代に知っていた誰かに似ていた。
「あなたは、まだ覚えていてくれたんですね」
女性は穏やかな声で話しかけてきた。
「私のこと、分かりますか?」
美咲は記憶を手繰り寄せる。確かに見覚えがある。でも、それは——。
「七瀬さん? 私の一個上の先輩?」
女性は嬉しそうに頷いた。しかし、その表情にはどこか寂しさが混じっていた。
「でも、それは違います」
七瀬は首を横に振る。
「私は、七瀬美月の妹。七瀬陽子です」
美咲の脳裏に、十年前の新聞記事が蘇った。七瀬美月先輩の妹さんは、高校一年生の時に——。
「そうでした。あなたは……」
「はい。交通事故で死んでしまいました。姉と同じ高校に入学して、まだ一学期も終わらないうちに」
陽子の姿が、少しずつ透明になっていく。
「姉は今でも、私の遺影に話しかけてくれます。だから、私はまだここにいられる」
次の駅が近づいてきた。ブレーキの音が、深い闇を切り裂く。
「でも、あなたが会いたがっている人は、もっと先の車両にいますよ」
陽子の声が遠くなっていく。
「きっと、まだ覚えていてくれる人がいるから」
陽子の姿が完全に消えた後も、白いワンピースの残像が、美咲の網膜に焼き付いていた。座席には一輪の白い百合が置かれている。高校の制服の胸ポケットに、いつも挿していた花だった。
電車は再び深い闇の中を進んでいく。今や車内には美咲以外の乗客の姿はなく、ただ蛍光灯のチカチカという明滅音だけが、静寂を刻んでいた。
「この電車は、いったいどこへ——」
問いかけるように呟いた時、車内に新しい人影が現れた。黒い制服に身を包んだ車掌だった。しかし、その姿は人というには不自然で、まるで影絵のように平面的だった。
「影堂と申します」
車掌は深々と頭を下げた。その仕草には古風な気品が漂っていた。
「これは『二十三時の終着駅』行きの列車です」
「終着駅……?」
「はい。忘れられた人々が降り立つ、最後の駅です」
美咲は息を呑んだ。影堂は黒い手袋をした手で、切符を差し出した。それは真っ黒な紙片で、何も印刷されていない。
「これは……」
「あなたの切符です。ですが——」
影堂は言葉を切った。その表情は読み取れなかったが、声音には警告めいたものが含まれていた。
「降りる駅を間違えると、二度と戻れなくなります」
美咲が答える前に、影堂は闇の中へと溶けるように消えていった。手の中の黒い切符だけが、この出来事が現実だったことを証明していた。
窓の外を見ると、かすかな明かりが見えてきた。しかし、それは街灯の光ではない。無数の提灯が、闇の中で揺らめいているような光景。それぞれの提灯には人の名前が書かれているようだが、近づくと文字が消えていく。
気がつくと、車内の温度が更に下がっていた。吐く息が白く凍り、窓ガラスには霜の結晶が広がっていく。美咲は身を縮めながら、最後尾の車両に目を向けた。
そこには確かに人影があった。高校の制服を着た少年の後ろ姿。美咲の心臓が高鳴る。
十年前、あの交通事故の日。約束の場所で待っていたはずの夜月蓮の姿。
「蓮、本当に、あなた?」
声に出そうとした瞬間、車内アナウンスが響いた。今度は少女の声のような、清らかな音色。
「まもなく、宵闇駅、宵闇駅です。お忘れ物のないように、ご注意ください」
最後尾の車両へ続くドアに手をかけた時、美咲の携帯電話が突然、大きな音を立てて振動した。画面には「母」からの着信。しかし、電話に出ようとすると、画面は歪んで消えてしまう。
そこに、また影堂の声が響いた。
「選択の時間です」
美咲は深く息を吸い、ドアを開けた。向こう側には、すべての答えがあるような気がした。そして、すべての答えを知ることは、もしかしたら——。
車両と車両をつなぐ通路に足を踏み入れた時、電車が大きく揺れた。美咲は手すりを掴んで体勢を整える。
暗闇の中、最後尾の車両から、懐かしい声が聞こえてきた。
「みさき——」
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