決壊

 了の部屋は、学校から徒歩で二十分ほどの距離にある。すっかり夏のものとなった攻撃的な日差しを浴びながら、私は帰り道とは反対方向の国道を歩く。今朝のうちに届いていた聡一郎からのメッセージ――日曜、映画を見に行かないかという誘い――にも、オーケーと返事をしておく。

 けっきょく私は、了のことも聡一郎のことも真剣に考えていない。逃避のための道具としか、捉えられない。そんな自虐をかましてみても、私の決意も、生き方も、これっぽっちも揺らぐことはないのだろう。こうやって、どうしようもないことばかりつらつらと考えてしまうときの自分は、あまり精神衛生がすぐれていないときだ。その自覚はあった。

 だから、もっと気を引き締めておくべきだった。それなのに、私はやらかしてしまう。

 鍵のかかっていないドアを開けて勝手に上がると、了はコレクションらしいTシャツを部屋干ししていた。これから雨が降るらしい。革張りのソファに、学校指定のナイロンバッグを放り投げると、その様子を見ていた彼が失笑する。

「今日はどうしたよ? なんか機嫌悪くね」

「そんなことない」

 ただ否定するだけなのに、憂鬱さと苛立ちが言葉に乗ってしまわないように意識する必要があった。私は冷蔵庫からスミノフの瓶を取り出して、半分ほど残っていたそれを一息に飲み干す。

「豪快だな」

 と後ろで笑う声がする。

「うるさい」

 私が口許を拭おうとしたその前に、了が口づける。唇をこじ開けてくるのに抵抗する気も起きず、マルボロの味のする舌を受け入れる。髪の毛を、首筋を、胸元を撫で回す掌に、申し訳程度の義務的な拒否を示しながらも、私は自分の体が少しずつ寝室へと誘導されていることを悟っていた。

 もう、なにもかもがどうでもいい。全然そういうことをするつもりはなかったけれど、ここまでされたら受け入れてやればいいや、と思った。生ぬるい眠気の奥に感じる火照りを瞼の裏で整えてから、私は意識のスイッチを一段階落とした。

 

 目覚めたとき、部屋は真っ暗だった。剥き出しの肩がエアコンの冷気に晒されていて、私はタオルケットを被る。馬鹿みたいな飲み方をしたせいで頭が痛み、目を閉じても眠気は戻ってきそうになく、仕方なく身体を起こしてベッドサイドのランプをつけた。スマホは見当たらない。ベッドの下には私の下着と、了が着ていたシュプリームのTシャツが散乱していたので、適当にそれらを着込む。

 了の姿が、ベッドにないことに気がつく。正確な時間はわからないけれど、窓の外の様子からして七時は回っているだろうし、もしかしたらリビングで注文したピザでも食べているのかもしれない。頭は痛むけれど、微妙に食欲はあった。シーフードを頼んでたら分けてもらおうかな、とかそんなことを考えながら寝室を出た。

 予想に反して、了は夕食なんて食べていなかった。上半身裸のまま、ソファに座っていた。後ろ姿からして、どうやらスマホを触っているようだ。

 隣に座って、夕食、なんか頼む? と声をかけようとして、ぎょっとした。

 了は、私のスマホを操作していた。

「ちょっと、なに勝手に触ってんの!」

 私は声を裏返して叫びながら、了からスマホをひったくった。暗証番号か指紋認証でしかロックは解除できないはずなのに、と思ったけれど、アルコールと現実逃避で意識に蓋をしていた私の指をとってスマホに触れさせるくらい、造作もないことだと気づく。

 でも、なんで了が私のスマホを? なにをしていた?

 ディスプレイには、聡一郎とのLINEの画面が表示されていた。

「おかしいと思ったんだよな」

 と、笑いの滲んだ声で了は言った。

「突然会いたいっつって来たけど、絶対なにか隠してらって思ったんだよ。そしたらお前、なんだよこれ」

 聡一郎とのLINEには、今度映画を観に行こう、と約束をした内容がばっちり記されている。

「なあ、黙ってないでなんか言えよ」

 軽薄な声に、徐々に苛立ちがにじみ始めている。そのことには気づいていた。一方で、彼がなぜそこまで不快そうにしているのかが腑に落ちなかった。それでも、できるだけ感情を逆なでするような態度をとらない方がいい、と直感的に感じてもいた。

 なのに、私はあまりに唐突なこの状況に沿った言葉を準備できないまま、俯いたまま黙ってしまう。

 なにも言わない私に、了は激怒した。私の胸ぐらを掴んで、思い切り唾を飛ばしながら、「なんでだよ!」だとか「どういうことだよ!」だとか、私に説明を求める類のことを怒鳴っているのに、それでも私の喉は動かない。

 このとき、私は生まれて初めて男性に対する本能的な恐怖というものを知った。そしてその恐怖感と同時に、彼がここまで感情をむき出していることへの戸惑いも湧き上がっていた。どうして彼が、怒りの中に裏切られた側の人間が醸し出す悲壮感を滲ませているのかが理解できなかったのだ。

 私たちは、お互いに暗黙の了解のうちに関係を持っていたと思っていた。だから私は了の個人的な人間関係に干渉などしようとも思わなかったし、彼の方もまた同様だと考えていた。

 けれど、そうでなかったとしたら?

それまで想像すらしていなかった一つの可能性が、ふっと頭に浮かぶ。

了が、私だけを見ていたのだとしたら? 私だけが、了を見ていなかったのだとしたら?

「スマホ、貸せ」

 やっと襟ぐりから離れた手を勢いよくこちらに差し出しながらそう言われて、私はなすすべなくそれに従った。乱暴に奪い取った私のスマホと自分のスマホを、彼はなにやら交互に操作している。

「これでお前らは終わりだな」

 悪意に満ちた――言い換えれば、どこまでも余裕のない――表情で、了はそう宣告した。私の元へと放り投げられたスマホにはさっきと同じように聡一郎とのLINEのトーク画面が開かれていたけれど、私のアカウントから、なにか写真が送信されている。開いてみると、それは裸のまま眠っている私と、その横で中指を立てている了がこちらを睨んでいる写真だった。

 わざわざこんな写真を撮った了のこと、そして写真をこのときまで潜ませていた彼の滑稽なしたたかさを思うと、恐怖が薄れて、うまく言い表せない居た堪れなさに胸がぎゅっと締め付けられた。

「出てけよ」

 と了は呻いた。私は襟ぐりがすっかり伸びたTシャツとショーツという情けない姿のまま、私は吐き気を我慢しながらどうにか頷いた。

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