翳
『また、近いうちにゆっくり話そう』と言って、ショッピングモールで別れたことを私は思い出す。今日も彼女は、白い長袖のTシャツに濃紺のデニムパンツというシンプル極まる格好をしている。メイクや髪の仕上がり具合は、言うまでもない。
「今日、たまたま講義が早く終わったんだ。小瀬さん、もし予定がなかったら一緒にドライブでもどう?」
歩道に立つ樋渡綾の後ろには、馬鹿でかい大きさの黒い車が停まっていた。ボンネットに貼り付けられた初心者マークがあんまり浮いていて、とても女子大生が乗る車とは思えないけれど、この人にかかればなんでもありなような気がする。
「いいですね」
なんだかもう、虚勢を張ったり取り繕うことがどうでもよくなって、私はそう答えた。どうせ、こちらは弱みを握られている身だ。樋渡綾の気の済むまで付き合ってやろう。
私が助手席に乗ろうとすると「あ、これ左ハンドルなんだ」と言われた。どうやら外車らしい。本来なら運転席側である右側に回り、ひどく重たいドアを開けて助手席に乗り込む。内装を見る限り、最近の車じゃないようで、初めて乗る車特有の排他的な匂いの中にも宿命的な古さが紛れていた。樋渡綾は運転席へ座り、キーを差し込んで回してエンジンをつけてから、ダッシュボードに置いていたサングラスを装着する。その淀みない一連の仕草すら、私のため息を呼び起こす。
「免許、持ってたんですね」
「うん。実は在学中にこっそり通ってたの、教習所に。学校にバレたら大変なことになってたな」
「へえ」
ふふ、と樋渡綾は無邪気なふうに笑ったけれど、もちろん私はちっとも面白くなかった。
「小瀬さんも、時間があるうちに免許は取っておいた方がいいよ」
「はい」
なんとなく外に顔を向けたくなくて、樋渡綾が運転するハンドルの中央にある黄色い十字のエンブレムを見つめながら、私は生返事をする。
この車が父親のものであること、古くて武骨で取り回しも燃費も悪いけれど意外と愛着が湧いていることを樋渡綾は話し、私は相槌を打つ。オーディオからはなんの音楽も流れず、必然的に訪れる沈黙を走行音とエンジン音が間断なく埋めていく。
リラックスした姿勢でハンドルを握る樋渡綾を、私は横目で盗み見る。サングラスをかけた横顔は嫌味なほど決まっている。丁寧に降ろされた肩下までの髪も、小さく口角が上がったまま結ばれているさらりとした唇も、この人が抱えている底知れない余裕の象徴のようで、気がつくと私はその神秘的なまでに整えられた佇まいを見つめてしまっていた。
「もうすぐだよ」
不意に樋渡綾が口を開く。
「はい?」
「もうすぐ、おいしいコーヒーが飲める喫茶店に着くの。駐車場、空いてるといいんだけど」
信号を左折して県道を抜けて、それまでより狭くなった路地をゆっくりと走ると、数分後にはその喫茶店に着いた。残念ながら駐車場は空いていた。
白壁のあまり目立たない建物の。すりガラスが嵌められた木製の扉を押し開くと、かすかなウィンドチャイムの音がした。いらっしゃいませ、と私たちとそう歳の変わらなそうな男の子が出迎えてくれた。二人です、と樋渡綾が言うと、奥のテーブル席に通された。店内は明かりが絞られていたけれど、数組の客がいることはわかった。控えめに流れるピアノソロに、密かな話し声が混じっていた。
「私はアイスコーヒーのブレンドにするけど、小瀬さんはどうする?」
「同じのでいいです」
冷水の入ったグラスを持ってきた男の子に、樋渡綾がブレンドを二つ注文する。二人は顔見知りらしいこと、そして男の子の方は樋渡綾に対して薄らと好意を抱いているらしいことがわかった。樋渡綾の目的がわからないのに、そんなくだらない関係性は感じ取ってしまったことが馬鹿らしくて、不意に、私は自分がとんでもない茶番に巻き込まれているかのような気分になった。
「そろそろ本題に入ってもらっていいですか」
努めて穏やかに、私は切り出す。
「本題?」
彼女は、心から意外そうにそう言った。まるで言葉の意味そのものを問うかのような純然たる疑問形が、私の神経を逆撫でする。
「聡一郎のことで、話をしにきたんじゃないんですか」
すべてが馬鹿馬鹿しくて、なにもかもがどうでもよくて、だからこそ私は捨て鉢な気分で自ら首を差し出すような真似ができたんだと思う。
「聡一郎のこと」
それもまた、樋渡綾の中では想定外の質問だったのだと思う。けれど、今度は語尾を上げずにまるで独り言のように私の言葉を繰り返すだけだった。それが私に対する彼女なりの配慮であることがわかってしまって、平静を保とうとする意志に揺さぶりをかけてくる。
「ああ」
私が黙っていると、樋渡綾はたった今合点がいったと言わんばかりの声をあげて、それから表情ひとつ変えずに「いいんだよ、別に」と言った。
「は?」
それが先輩に対して不遜な態度であることはわかっているのに、私ははっきりと眉を顰めてしまう。対して樋渡綾は、テーブルの上で両手の指を組み、親指同士を合わせて私をまっすぐに見つめてくる。平坦な、彼女にとってはごく標準的な笑みを浮かべて。
「小瀬さんがあのときの男の人と二股をかけていようと、私には関係のないことだから」
ぞっとするほどの素っ気なさで、そう言い切った。この人から糾弾されることはないのだと安心するべきなのに、まるでお前の存在など最初から無価値だと、そう宣告されたかのような心地だった。
「でも、あなたは聡一郎のことが好きなんじゃないんですか」
どう考えても、そんなことを口にする必要はなかった。愚かな発言の底には、もしかしたら怖いもの見たさのような感情があったのかもしれない。あるいは、想定外の質問に狼狽える樋渡綾の姿を見てみたかったのかもしれない。なんだそれ、最低だな、と自分でも思う。
「きっと、小瀬さんが言いたいのは、私が聡一郎に異性として好意を抱いているんじゃないかってことなんだと思うんだけど」
わかっているならいちいちそんなことを口にするな、と心の中でそんな幼稚な悪態をついてしまう。今の私は、かつてないほど余裕がない。自分でもそのことに気づいている。誇張抜きで、誰かと関わる中でここまで息が詰まるような心地になるのは初めてのことだった。
「それはないかな、うん」
「そうですか」
そう言って私は強引に話を打ち切ろうとした。
けれど、樋渡綾の目が私を捉えていた。かつて折に触れて浴びていた、あの射るように細められた視線が。
「多分、恋心ではなくて、執着だと思うの」
思うの、という言葉をチョイスしておきながら、樋渡綾の言葉はあくまでも断定的な響きに満ちていた。
お待たせしました、と男の子がブレンドコーヒーを二つ持ってくる。コースターが置かれ、その上に持ち手のない丸いグラスが載せられる。樋渡綾が「ありがとう」と礼を言うと、彼の職業的な笑みの中に個人的な喜びが小さく混じったのがわかった。大きな氷がいくつか浮いたブレンドのグラスに口をつけてから、樋渡綾は続ける。
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