懐かしい匂い
「急に連絡きたからびっくりしたわ」
ゆったりとした黒いTシャツを着た了は、笑いながらそう言った。そして「入れよ」と私を部屋に招き入れてくれる。ルームフレグランスかなにかの甘い香りの中に、かすかな生活の匂いが混じっている。短い廊下の先に広がるリビングは、照明の光量が絞られているせいかまだ日があるというのに薄暗い。真ん中に黒い皮張りのソファが置かれていて、私はそこに腰を下ろす。
「あの新歓の日以来だっけ? そっちから連絡もらえて嬉しいよ」
「暇だったから」
私がそう素っ気なく返しても、了は機嫌よく頷くだけだった。
「喉乾いてたら、冷蔵庫から好きなのとれよ」
ちょっとやることあっから、と言い、了は別の部屋へと消える。私はしばらくソファにもたれて、少しだけ弾んでいる心臓を落ち着ける。初めて誰かの部屋に入るとき特有の緊張が、今日はいつもよりも増幅されているような気がする。
冷蔵庫もやはり黒色で(全体的に黒色で統一しているみたいだ)、開けると飲み物はペットボトルのコーラといくつかの酒のボトルしかなかった。キッチンを見渡すと、隅の方にはシックな佇まいの浄水器がある。バレンシアガのスニーカーを履いていたり、レクサスに乗っていたりする時点でわかりきったことではあったけれど、どうやら彼はそれなりに裕福な暮らしをしているらしい。
「やっべ、ラッパ飲みでスミノフいってんじゃん。」
戻ってきた了は、ソファでスマホをいじりながら瓶に口をつけている私を見て心底愉快そうに笑った。
「コップの場所とかわかんなかったし」
「そういう問題じゃねーだろ、ミセーネン」
やべーいかつすぎ、と引き笑い混じりに言って、私からスミノフを奪い、口をつける。心臓はやっぱり落ち着かないけれど、それはもうアルコールが回ったせいだった。
「晩飯食った?」
「まだ」
「ピザでも食う?」
「食う」
どんなピザがいい? トッピングは? 生地の厚さは? まるでアンケートに答えるように、了の問いかけに淡々と返事をする。そんなわけで、デリバリーされたLサイズのピザは私の好きなシーフードとチョリソーが見事に鏤められていて、それまで食欲なんてまるで感じていなかったのに、鼻を揺さぶるような強烈な匂いに負けて手を伸ばしてしまう。
「なんか今日、雰囲気違うよなって思ったら、あれだ、制服着てるからだ」
一緒についてきたポテトをつまみながら、ソファの隣に座った了は私の全身をまじまじと見つめる。
「出来たら脱ぎたいんだけど、Tシャツとスウェットでも貸してもらえない?」
「しゃーなしな」
と面倒くさそうに言って、了はリビングを出て上下のセットを持ってきてくれる。私は礼を言って、その場でブレザーとカッターシャツを脱いで、彼が持ってきた白い半袖のTシャツを頭から被る。シュプリームのロゴが胸元に入っていた。下は黒色に紫のラインが入ったニードルズのトラックパンツ。こういう男はこういうブランドが好きなんだろうな、と腑に落ちる組み合わせだ。
「普段着も、女に着せたらエモくなるな」
「そう?」
よくわからないけど、そういうものらしい。私は脱いだ制服を丁寧に畳んでから、再びピザを食べる。私たちはLサイズのピザを綺麗に平らげてから、そのままソファでセックスをした。こういうとき、薄暗い部屋で良かったと思える。
それから一緒にお風呂に入った。浴槽の大きさはうちと変わらないものの、浴室の壁は黒色で、おまけにテレビが映るモニターまでついていた。
「もしかして、今日泊まってくつもり?」
後ろから首に腕を回されて、左手で胸をまさぐられる。こそばゆいけれど、手持ち無沙汰を紛らわすような緩慢な手つきだったから、そのまま放っておく。
「駄目だったら帰る」
「可愛くねえ言い方だな」
別にいいけど、親とか大丈夫? と了が訊く。
「うち、放任主義だから」
誇張でもなんでもなく、両親は私が夜遊びをしようがどこかに泊まってこようが、事前に連絡を一本入れればうるさいことはなにも言わない。
五つ歳の離れた姉が過保護に育てられ、学業にしろ私生活にしろことあるごとに干渉され続けた結果、高校生の頃に家出をして警察沙汰になってしまったことがある。そのことを反省してか、どうやら私に対しては同じ轍を踏むまいと気をつけているらしい。姉のタバコを吸っている現場を目撃されたこともあったけれど、外では吸うなと釘を刺されただけだった。
『あんたが気ままに生きられるのは私のおかげ』と姉は折に触れて私に話す。そのことについて異論はない。タバコをパクっても怒らないことも含めて、私は姉に感謝している。
寝室には、一人暮らしにしては大きすぎるクイーンサイズのベッドがあった。それはきっと女の子を呼ぶことを想定して用意されたであろうもので、了が私の想像していた通りのタイプの人間であると改めて認識する。自分の部屋のものよりも断然寝心地がいいマットレスに包まれると、アルコールが回っているせいか、眠気はすぐに訪れた。
朝の五時に目が覚めて、昨日の残りのスミノフに口をつける。すると了が起きてきて、当然のようにセックスが始まる。彼は、普段のノリは軽くても、するときは意外なほど抱き方が丁寧で、そして多分、どちらかというと性的に淡白な方だった。
「あ、わかる?」
とマルボロを咥えながら了は笑い、「セックスって俺にとってそこまで重要度高くねーんだよな」と続ける。
「そのわりに、前会ったときも今回もしてるけど」
「なんつーか、されるよりするのが好きみたいな?」
「愛撫を?」
言い方、と了が笑う。
「性欲ももちろんないわけじゃねえけど、俺が触ったりして気持ちよがってる所を見る方が好きだな」
「へえ」
「てかお前さ、相当慣れてるだろ、セックス」
どう答えたものか迷って、けっきょく「よくわかるね」と素直に言った。
「前会ったときから薄々感じてたけど、今日で確信したわ。お前、ヤるときに身体がリラックスしすぎ。ちゃんと感じてんのか? ってマジで不安になるんだよな」
「ちゃんと気持ちよかったよ」
別にお世辞のつもりじゃなかったけれど、了は「はいはい」と受け流す。
「でも、今までの女より楽しいよ、お前のこと抱くの」
ありがとう、と私は言った。多分今のは、私が求めていた類の言葉だ。けれど、心が満たされたとはあまり感じない。どうしてだろう?
了の身体を乗り越えて、ベッド脇のテーブルにあるガラスの灰皿に置かれていた吸いかけのそれを咥えた。やっぱり、ラークよりもクセの強い味がする。「タバコもいけんのかよ」と了が呆れたように笑った。彼の人間性はどうしても薄っぺらく映ってしまうけれど、そうやってなにに対しても気軽に笑える所は素直に好ましく思えた。
「またいつでも連絡してこいよ」
と了は言った。コホコホと咳き込みながら、私は頷いた。
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