海へ

 そういえば、単に近場の店を巡ったり喫茶店で話をしたりするだけでなく、こうして行き先を見繕ってデートをすること自体、これが初めてのことかもしれない。中学のときは受験を控えていたこともあって、仲良くなった男の子と休日にわざわざ約束を取り付けて会うことはしなかったし、私自身もあまりそういったことに興味がなかった。

 映画やテーマパークやショッピングなんて、友達と一緒で十分。せっかく男の子と会うのだったら、セックスしたり、お互いの知らないことをあれこれ話したり、ろくに服も着ないまま一緒に簡単な料理を作ったり、作ったものを食べながらテレビ番組を観たりする方がずっと楽しい。そういうときの繕わずにいられる開放的な空気感や親密さというのは、彼らと一緒の時にしか味わえない。少なくとも私はそう感じている。

 やっぱり、聡一郎とそういったことをしたいと思う。けれど私の望みは、きっと今の彼にとって毒なのだろう。

 一人になると、余計に自分と聡一郎の間のあれこれについて考えずにはいられなくなる。そして、こんなはずじゃなかったのにな、とため息をついてしまう。

 聡一郎が私のことをもっと正しく理解していると思っていた。私が身体を重ねることに抵抗を感じていなくて、それどころか最もポピュラーなコミュニケーションの手段として認識していることを承知の上で告白してくれたと思っていた。

 けれど、それはまさしく思い上がりだった。冷静になって考えてみれば、私が彼に打ち明けたのは私という人間のほんの一部で、それだけですべてを受け入れてもらえているはずがなかったのだ。

 そもそもの最初から、聡一郎の告白を受けたのが間違いだったのかもしれない。あのときの私は、彼のいじらしさにほだされていたのだろうか、と今となっては考えてしまう。距離は縮まったかもしれないけれど、恋人となったことで私が彼に求めるものが変わってしまって、そのせいで以前はなかった制約に縛られてしまっている。まるっきりバカみたいな話だ。

 なんだか鬱々とした気分になって、特に目的もなくスマホを開く。夏コーデの特集やバズっている動画をなんの感慨もなく眺めて時間を潰すも、三十分経っても総一郎は戻ってこない。気がつけば私は、手持ち無沙汰に任せて芝をプチプチと抜いていた。

「芝生が泣いてんぞー」

 不意に頭上から声をかけられた。びっくりして顔を上げると、私と歳の近い、おそらくはこの大学の学生らしい男の人が立っている。

「すみません」

 すぐにその場から立ちあがろうとすると、優しく肩を押さえて制される。隣に男が座ると、ブルガリかなにかのフレグランスがそっと香った。目の前に並んだ男の顔は、想像以上に整っていた。幅広の二重と長めの睫毛が甘い顔立ちを作り上げていて、見事なまでにブリーチで抜け切ったプラチナブロンドのツーブロックとのギャップがなんだか愉快だった。白い歯をちらりと覗かせる爽やかな笑顔からは胡散臭いものを感じなくもないが、少なくとも今のところは敵意や悪意を纏ってはいない。

「一人? 連れは?」

 ナンパだ、と確信する。知らない女に声をかける男の種類は、目的や下心を隠してあくまでも紳士的に距離を縮めようとするタイプと、目的を潔く開示してストレートに誘いかけてくるタイプに分かれるけれど、この男は間違いなく後者だ。

 私はなにも答えず、出来るだけ表情に無感情を固定させたまま、話しかけてきた男の全身をゆっくりと見渡す。細身の黒いジャケットにスキニー気味のブラックデニム、そしてそれらとは対照的にボリュームのあるスニーカーは、バレンシアガのものだった。

「私、めちゃくちゃメンヘラだよ」

 自虐なのか、くだらないジョークなのか、自分でもわからない。けれどとにかく、そんな私の第一声を受けても、彼は全くひるむ様子を見せず、自分の魅力を自覚している人間特有の笑顔を見せた。

「大丈夫。俺も似たようなもん」

 そう言って彼は立ち上がり、こちらに手を差し伸べた。言葉はなかったけれど、その分直接的でわかりやすい選択の機会が、今、目の前に提示されている。頭の中に聡一郎の顔と、そしてなぜか、夏芽の顔がよぎった。

 時計を見ると、彼が建物に入ってから四十分が経つ。私は、それほど葛藤もなく彼の手をとった。想像よりも柔らかくて厚みがある、潤いを感じる手だった。「海に連れてってやるよ」と彼は言った。この場所から連れ出してくれるのなら、どこでもいいと思った。

「名前なんてーの?」

 と訊ねられる。適当にでっちあげた名前を口にしようとして、けれど特に思い浮かばず、諦めて本名を名乗った。

「俺はりょう。了解の了ね」

 了。それは不思議と匿名性を帯びた名前だった。けれど、それが本名だろうと偽名だろうとどちらでも良かった。

 了に誘われるままキャンパスを出て、五分も歩かないうちに彼はマンションの自動ドアを潜る。およそ十階建ての、築浅っぽい洒落た外観のそこはエントランスもホテルのフロントのように手入れが行き届いていて、なんとなく背筋が伸びてしまう。

「俺んちここなの」

 と了は言う。「海じゃなかったの?」と私が言うと、「車で行くんだよー」と笑った。そして一階のフロアの多くを占める入居者用の駐車場の中の、黒いセダンの前で止まった。車のことはよく知らない私でもわかる。レクサスだ。ロックが解除される音が駐車場に響く。彼が乗り込み、エンジンをかけて、助手席のウィンドウを下げる。

「乗れよ」

 と軽やかに了は言った。

「ちょっと待って」

 私はバッグからスマホを取り出して、聡一郎にあてて【お腹が痛いから帰る】とメッセージを送った。スマホをしまうと、いたずらっぽく笑う了と目が合って、応えるように私も笑ってみる。

 大音量でビリー・アイリッシュを流しながら海に向かった。了はあの大学の二年だそうだ。私がまだ高二だと伝えると、「マジで? 見えねー」と驚いていた。途中で聡一郎から【ごめん、友達の模擬店で急病人が出て、一緒に対応していた】とメッセージが来たけれど、返信する気にはなれなかった。

 私たちはひとしきり海岸を歩いて、海辺のカフェでダルゴナコーヒーとシフォンケーキを注文して、それからラブホテルでセックスをした。

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