泥濘

 三年の卒業式が明日に迫っている。ようやくか、と私はなんだか感慨深い気分になる。ようやく、あの二人がこの学校から卒業する。別に憎んだり、恨んだりしていたわけではない。それは誓って本当のことだ。けれど、樋渡先輩にしろ、長岡先輩にしろ、それぞれ理由は異なるものの、どちらも積極的に顔を合わせたくない存在だった。たとえ小さなストレスでも、日々意識させられると精神衛生上良くない。でも、こんなことが目下のストレス源だったなんて、私もかなりおめでたい人生を送っているのかもしれない。

 そんな私とは裏腹に、夏芽は「卒業式なんてこなきゃいいのに」とここ何日もしきりに呟いていた。可哀想に、お世話になった先輩が二人も同時に卒業するのが悲しいのだ。私としても、健全な成長のために必要な経験と考えれば、今の夏芽を優しく見守ってあげよう、と素直に思えた。

 春休みになったら、一緒にディズニーランドでも行こうかな。それとも、もっと近場を色々巡ってみる? あの子も樋渡先輩と遊びたいだろうから、あんまり頻繁に誘ってあげる必要はないか。

 そんなことを考えながら迎えた卒業式当日、在校生は自由登校で、私は夏芽に誘われて式が終わるのを体育館の外で待っていた。お世話になったのは事実だし、最後くらいは挨拶をしておこうと思っていた。

 花束と卒業証書が入った筒を持った二人が体育館から出て来ると、夏芽は樋渡先輩に泣きつき、樋渡先輩は左目だけ涙を流していた。そんなやりとりを少し離れたところから眺めていると、長岡先輩が私の肩を叩いた。

「小瀬、話がある。来てくれないか」

 話? と頭の中の疑問が解消されるより先に、長岡先輩は踵を返してどこかに向かってしまう。そんな彼を放置する度胸は私にはなかった。戸惑いながら足を踏み出そうとしたとき、夏芽を抱き止めた樋渡先輩の視線がこちらを捉えていたのを、私は見逃さなかった。

 長岡先輩は体育館の裏とかじゃなくて、昇降口の隅の、人だかりから離れているけれど人目にはつくというなんとも微妙な場所で立ち止まった。それから、私の方を見るでも、なにか話すでもなく、こちらに背中を向けている。ああ、これ私から話さなきゃいけないやつだ。

「先輩、卒業おめでとうございます」

 素っ気なさすぎず、感情も込めすぎず、絶妙なトーンでそう言えたと思う。

「……ありがとう」

「先輩にはお世話になりました。色々話も聞いてもらったし」

「ああ」

「大学でも頑張ってください」

 陰ながら応援しています、はなんだか鼻についちゃうか。となると、他に言うこともなかった。それでも長岡先輩は私に背中を向けたままだった。遠くで写真を撮りあっている卒業生たちを眺めながら、沈黙をやり過ごしていく。

 そろそろ夏芽のとこに戻りたいな、と思い始めた頃、彼がこちらを向いた。

「小瀬とは、もっと話したかった」

 いつもの無表情の中に、研ぎ澄まされた覚悟の予感みたいなものがあった。

「はい……」

 ただ頷くことしかできなかった。あとはもう、呑まれるだけだった。

「信じられないかもしれんが、俺にとって小瀬は親しくなりたいと思えた女子だったんだ。そんな存在、綾以外には小瀬が初めてだった。このところ、小瀬に避けられていることもわかっていた。これまでは他人にそんな態度を取られようと気にならなかったのに、小瀬に嫌われているのかもしれないと思うと、気持ちが落ち着かなかった。そのくせ、今日まで話しかける勇気もなかった。でも、今日で小瀬と会うのも最後だと思うと、きちんと話しておきたくて……」

 どんだけ私の名前を口にするんだ、とおかしくなったけれど、これまでに聞いたことのないほど長いセンテンスを口にする長岡先輩の姿そのものはちっとも滑稽なんかじゃなくて、素直に、ああ、嬉しいな、と思えた。それから、避けていてごめんなさい、と。こんな私に、辿々しく本音を晒してくれるなんて。なんの前触れもなく避けるようになった私のことを、気にかけてくれていたなんて。

 だから私は、長岡先輩のことを大胆に抱きしめることができた。

「今の、告白されたって思っていいんですかね」

 私が身体を離して、しっかりと顔を見上げて確認すると、長岡先輩はもう少しで目を逸らしそうになりながら、それでもどうにか踏みとどまって、私の方をしっかりと見据えて「ああ」とお馴染みの相槌を打った。

「先輩もご存知でしょうけど、私、相当いい加減な付き合い方してきた女ですよ」

「知ってるよ。でも、それは小瀬なりの基準に則った付き合い方だったはずだ。だったら、俺はそれを汚らわしいとは思わない」

 長岡先輩が、確信的に頷く。何度も、私を肯定する。もしかしたら、これが私の求めていたものなのかもしれない。この一年あまり、ずっと探していたものは、完璧なまでの受容。受け入れてもらえているという、確かな実感。

「じゃあ、私たち、付き合いましょ」

 ――本当に受け入れられてしまっていいの?

 どこからか、そう訊ねられた気がした。知らんぷりをする。長岡先輩の、こんな笑顔を見れたんだし、気にしない。

「……ありがとう。よろしく」

 こんなときまで散文的なところも、長岡先輩らしい。そうやって、誰かのらしさを把握できる自分がいることが、なんだか照れくさい。いっぱしに、恋をしているみたい。

「もう卒業するんだし、聡一郎って呼んでいいですか? ソウイチロウって名前、格好良いなって思ってたんですよ」

「構わないけど、俺はその、いきなり名前で呼べるかどうか……」

「そんなの気にしなくていいです」

 きっと、やろうと思ったら積極的な後輩らしくこの場でキスをすることだってできた。そうしなかったのは、あんまり浮かれてるように思われたくなかったからだ。

 けれどけっきょく、その日私は聡一郎を誘ってホテルに入ってしまった。まだ十六の私と一緒に入るのを彼は躊躇していたので、前にも入ったから大丈夫だと話すと、驚いた顔をしていた。ああ、そういえば、彼にはホテルに入ったことがあるっていうのは隠していたんだ、と後から気づいた。それくらい、私は浮き足立っていたのだ。

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