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和久井夏芽

 和久井わくい夏芽なつめを初めて見たときに私が抱いた感想は、〈危うそうな子だな〉というものだった。

 彼女は、二学期の始業式の日にやってきた転校生だった。黒板の前に立ち、クラスメートの注目を浴びているその姿は、見ているこっちの気が滅入ってしまうほどわかりやすく緊張していた。

 そんな気の毒な転校生が、最前列の席に座っていた私にすら満足に届かないような声量で「わくいなつめです」と呟き、担任が「みんな、和久井さんに優しくしてあげてね」と繋ぐと、教室からはまばらな拍手が起こった。「席は小瀬おぜさんの隣ね」と担任は空っぽになっている私の右隣を指した。そしてもう一度「優しくしてあげてね」と今度は私だけに向けてそう言った。

 今になってよくよく考えてみると、転校生の席が最前列というのはどうなんだろう、と思うけれど、とにかくその不可解な巡り合わせの結果、私たちは隣同士になった。

 この世の終わりのように沈んだ表情の夏芽に声をかけることに、ためらいはなかった。休み時間になると一番に自己紹介をして、お昼は一緒に給食を食べて、放課後は一緒に帰ろうと誘った。彼女は、そのすべてを受け入れた。まあ、呑まれてしまった、というのが本当のところなのだろうけれど。

 幼い頃に両親が離婚してお父さんと暮らすようになったものの、仕事柄家を空けることが多くなったからおじいちゃんの家に引っ越した――そんな情報をどうにか引き出せたのは、夏芽が転校してきて一週間が経った頃だった。

「お父さんと離れ離れになって、しかも周りも知らない人ばかりだから、毎日楽しくないんだ?」

 途切れ途切れに寄越された情報をどうにか統合して、私がそんなふうに乱暴にまとめると、夏芽は「……うん」と小さく頷いた。それを承諾のサインとみなして、以降私はありとあらゆるところへ彼女を連れ回すようになった。

 放課後になると、待ち合わせをしてどこかに出かけるのが日課となった。可愛いグッズを取り扱っている雑貨屋、プリクラの筐体ばかりおいてあるゲームセンター、大きいサイズのザリガニが釣れる池、パソコンも触れる最近改装されたばかりの図書館。休みの日にはバスに乗って、隣町の映画館に向かった。十歳の私は、持っている手札をすべて切って夏芽を楽しませようと試みた。そのおかげか、夏芽も日に日に笑顔を見せてくれるようになった。

 たまたま立ち寄った楽器屋で、夏芽がピアノを恐る恐る触っているのを見ると、その週末には自分の家に招いてピアノを教えてあげた。ピアノに飽きると自分のヘアゴムやピンを使って、いつも下ろされたままのショートヘアをアレンジしてあげた。祖父母と暮らしているせいか、なんだか芋くさいおかっぱ頭をしていたこともあり当初は気づかなかったけれど、夏芽は大きな目と長いまつ毛を持っていて、笑うと綺麗な白い歯並びが眩しい、とても可愛らしい女の子だった。この子はすぐに人気者になるな、と、私はその時点で確信していた。

 夏芽は、私のことを「みーちゃん」と呼んだ。深澄だから、みーちゃん。そんな呼ばれ方をしたのは初めてのことで、最初はなんだかむず痒いような気持ちだったけれど、みーちゃんみーちゃんと私の後ろにくっついてくる彼女の表情は、転校初日からは考えられないほど明るいものになっていた。

 そして予想通り、夏芽は新しい環境に慣れていくにつれて、秘めていた明るさと見た目の可愛らしさの相乗効果でたちまちクラスメートの注目を集めるようになった。私が築き上げた些細なコミュニティの中で、気がつけば私よりも関心を集める中心的な存在となり、眩しい笑顔を振りまいていた。みんなが夏芽を可愛がり、彼女を傷つけてはいけない、と考えるようになった。

 いつしか私は、そんな夏芽を陰で見守るようなポジションに落ち着いていた。クラスで出し物をするとなると、夏芽をヒロインに推した上で練習に付き合った。クラスメートに祭り上げられるようにしてクラス委員を務めることになったときには、雑務を半分請け負った。いつしか私は夏芽にかかりきりのような状態になっていた。そんな役割に甘んじているのが自分でも不思議だったけれど、そうやってきらきらと輝く夏芽の黒子役に徹しているときは、不思議と悪くない気分だった。

 それまでの私は人前に立つことや目立つことがそれなりに好きだったし、自分がクラスの中心人物になりたいという欲求も人並みにあった。そして、実際にそこそこのポジションに落ち着けていたように思う。だから、結果的にそれまでの自分の立場を夏芽に明け渡したような形になってしまったけれど、不思議と悔しさや嫉妬心のようなものはなかった。疎ましく思う気持ちもなく、夏芽の方が本物で、自分が贋物だったと悟った。潔くそう悟れてしまうほど、私は夏芽の中に光り輝くなにかを感じとったのだ。

 そうやって一緒に過ごしていく中で、夏芽から紛れもない好意と信頼を寄せられているのを感じた。そして私も、新鮮で素直な反応を絶やさない彼女のことを好きになった。

 とにかく、私と夏芽の関係の始まりはそのようなものだった。気がつけば私はそれまでよく遊んでいたグループとの約束よりも夏芽との予定を優先することが多くなっていた。お互いの家を行き来する中になり、彼女の祖父母にも気に入られるようになった。

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