氷柱
田谷葉野作
第1話 洞窟
龍が虚空へ昇っていく。昇り龍だ。
雲にかじりつき、雲を食いちぎるような勢いで、その龍は宙へと消えていった。
今日も太陽は光り輝いていた。
僕はその輝きを胸いっぱいに感じながら、広い草原に立っていた。
「よし。じゃあ帰るか」
お父さんはあごを掻きながらそう呟いた。それを聞いて少しほっとする。
これから家に帰って、多分その時には夜になっているだろうからどこかのコンビニで弁当でも買って食べるのだろう。そう思うと、少し爽やかな気分になるのだ。心に風が吹き抜けて胸の大地に花が咲き誇るような気分になる。
「ねえ。帰りは俺が運転してもいいかい。父さん」
兄がもがくように口を開いて言った。するとお父さんがそれに答えた。
「お母さんが心配して戻ってきちゃったらどうするんだよ」
面白くない。僕は涙が渇ききった後の少しざらざらした頬をさすりながらそう思う。でも、口には出さない。僕は少し顔をしかめてお父さんの方を向く。そちら側には無駄に大きな駐車場が広がっていて、車が一台だけ止まっている。僕たちの車だ。その車は真っ黒で、車の上を指で隠すと霊柩車に見えなくもない。そう考えてしまう自分を少し情けなく思う。
「優也。置いてくぞ」
いつの間にかお父さんと兄は車の近くまで行っていた。気づかなかった。僕は、二人が残した草の踏み跡から外れないように、まるで綱渡りのようにそっと車へと向かった。もう二人は車に入っていた。兄は運転席、お父さんは後部座席に一人で座っていた。僕はお父さんに、「お父さんが助手席に座ってよ」と言う。「ああ、すまんすまん。優也が助手席に座りたいかなと思ったんだよ」とお父さん。「兄ちゃんの運転不安だからさ、お父さんが座ったほうがいいかなって思ったんだよ」「うん。わかったよ」お父さんはドアを開き、閉めると、少し小走りで助手席へと回り込んだ。僕はお父さんが助手席に座った後、ゆっくりとマイペースに後部座席に座る。何も喋っていないが、多分兄は少し不機嫌なのだろう。
「シートベルトはしっかり閉めるんだぞ」言われなくてももう全員シートベルトはしている。これはいつもシートベルトを閉め忘れていたお母さんのための言葉だったんだと、ハッとする。
車は海沿いを風を浴びながら颯爽と走っている。少し雨がちらつきはじめていた。もう長いこと車を走らせているのに兄はいつも通り楽しそうに運転をする。
「トンネルくぐるぞー」
お父さんと兄は急に黙りこくった。また息を止めているのだろう。僕は、最近はもうトンネルを通る時は息を止めない。それは恥ずかしいからだとか、くだらないからだとかではなかった。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。多分、今僕の隣にお母さんがいたのなら息を止めていたのかもしれない。でも、そんなことを考えても仕方がないのだ。この読めない時間の流れに身を任せるしかないのだと僕は思った。
「優也。眠っててもいいからな」
「うん。わかった」
僕がそう答えたその瞬間に雨が雪に変わった。その変化に最初に気づいたのは多分僕だろうと思う。二人に勝った気がして、僕は小さく拳を握りしめた。
「おお。雪だぞ」
一拍遅れてお父さんが適当に話した。兄は急カーブに夢中でそれどころじゃない様子だった。雲が太陽に覆い被さって、ピンポン玉のように見える。少し透き通っているのだ。この光景は何度も見たことがあるはずなのに、そう感じたのはこれが初めてだった。僕はその美しさを抱きしめて離したくなかった。その下には、どす黒く見える海が広がっていて、一気に現実に引き戻された気がした。海なんてなかなか見ないのに。
「疲れてきたかも」
「一回休憩挟むか。ちょっと待ってろ。えーと。うん。もう少し進んだところに小さい公園があるっぽいな。そこで休むか」
「そうしていい?優也」
兄が尋ねてきた。「いいよ。トイレもしたいな」「トイレもあるっぽいぞ」お父さんがスマートフォンの画面をゆっくりとスワイプしながら言う。
「うん。ありがとう」そう答えると急に眠気が襲ってきた。多分、相当疲れていたのだろう。
耳の中でずっと一定の音程の不愉快なリズムが響いている。どこかで聞いたはずだが、あまりはっきりとは思い出せない。そのリズムはズンズンと頭を揺らしているようで、車内の音が全然聞こえない。もちろんもう車が停車していることにも全く気づかなかった。ゆっくりと意識が頭の底から湧き上がっていくように感じた。目を開くと兄とお父さんはこっちを見て残念そうな顔をした。
「あー。起きちゃったか」
「優也、今白目剥いてたんだぞ。写真撮ろうとしたのに。ははは」
そんなことより早く起こしてくれよとまずは感じた。まあ確かにお母さんがリビングのソファで白目を剥いて寝ている時には、よくおかしいなと思っていたが、いざ自分が標的にされると、あまりいい気分にはならない。
窓を見るともう雪は降っていなかった。「俺どのくらい寝てたの」「十三分くらいかな」意外と短かった。まあ夢も見なかったくらいだからそんなものなのだろう。
体を起き上がらせてドアを開ける。一歩踏みだす。雪は少しだけ積もっていて、地面を踏みつけると少し優しい感じがした。ドアをなるべく優しく閉めると、お父さんが車の鍵をボタン一つで閉める。兄は見慣れたはずの雪に少しはしゃいでいるようで、足で地面に笑顔の形を作ってみせた。
「何してるの」
「もしかしたらお母さんが見ているかもしれないだろ。俺たちは元気だよって見せてるんだよ」僕は兄の無邪気さに少し心が軽くなった。口には出さなかったけれど感謝していた。
僕は軽く伸びをした。兄もこっちを見てそれを真似する。
「少しここら辺を散策してみないか」
「急にどうしたの」
「いや。これもいい思い出になればいいと思ってさ」
「いいじゃん。いいリフレッシュになるよ。な、優也」
「うん。そうだね」
僕たちは海と真反対側に広がる森に向かって歩き出した。雪の間に木材を組んで作られた遊歩道が見える。それに沿って歩く。松の木は真っ白で、まるで巨大で歪な雪の結晶のように見える。ここが夏だったらどのような感じなのだろうと想像する。きっと草花が咲き乱れ、川のせせらぎが森を潤して、それに呼応するように虫や、様々な小動物がそれぞれの生活を送っているのだろうと思う。
ずいぶん歩いてきて、さっきまで木の間に見えていた真っ黒の海ももう見えなくなった。もはやリフレッシュと言えないくらい歩いているんじゃないかと思う。でももう引き返す気も無くなっていた。ここまできたらとことん行くところまで行こうと思った。多分二人もそう感じているだろう。頼もしい背中だった。
「お」
久しぶりに声を出したのは兄だった。
「聞いて、優也、お父さん。この音」
「滝か」
滝だ。木々の間にその雄大な姿が見え始めた。自然の素晴らしさを体現するようにそこに大きな滝が鎮座していた。その勢いに思わず意識が吸い込まれてしまそうになる。滝のふもとまで来ると、その荘厳な光景とは似つかわしくない心の落ち着きが待っていた。でもそれはおそらく生命として全く不自然なものではなく、当たり前のことなのだろうと感じた。三人とも言葉は発さずにひたすら滝を感じていた。おそらく五分間くらいだったと思う。最初に口を開いたのは兄だった。
「奥に洞窟がある」
「本当だ」
「行ってみるか」
もうここまできて引き返すなんて選択肢はなかった。滝の音が僕たちを招いているようだった。滝の右手にぽっかりと穴が空いており、その漆黒に導かれるように三人は歩き出した。その足音は滝にかき消されていたが確かにそこにあった。雪に埋もれた道を踏みしめて進んでいく。明らかにこの公園の駐車場よりも雪は多く積もっていた。ただただ歩いていく。そこに深い意味はなく、ただ、この星に生きる生命として、先に進まずにはいられなかったのだ。
三人は立ち止まる。穴を覗き込む。滝の飛沫が少し飛んでくるが全く気にならなかった。穴は横に大きく広がっており、奥は深い闇に包まれていた。それでも、恐ろしさや不安は微塵も感じなかった。洞窟の入り口の上には氷柱がいくつか見える。それは美しく育っていて、空間を切り裂いているようだった。氷柱。僕は子供の頃から氷柱が好きだった。尖っているものが好きというわけではない。氷柱なのだ。長い時間をかけて形を作っていく、自然に不気味なその氷柱が好きだったのだ。愛おしさすら感じる。それは今、目の前に広がる洞窟の上に咲く氷柱に対してもそうだった。流麗な形が女性的な魅力すら感じるほどで、つい手に取りたくなるが、高すぎて届かない。
「どうする?入ってみるか」
「少しくらいならいいんじゃない?ちょっとだけ見て危なそうだったら帰ろうか」
「よし。二人とも気をつけて行こう」
まず兄が一歩踏み出した。こういう時、兄はいの一番に挑む。五年ほど前、同じような状況に出会したことがあった。家族で温泉旅行に行った時、両親は買い物に出掛けていて、車の中にいた兄が「ちょっと冒険してみない?」と言ってきたのだ。僕は「うん」と無邪気に返事をして、車の鍵を開けたまま舗装された歩道を歩き出した。店の駐車場が遠くになり、僕たちは切り立った崖に入り口を構える「地獄めぐり」という看板が立つ小さな洞窟を見つけた。中身はいろんな石像がひしめく暗めの美術館のようなものだったのだが、当時の僕はとても不安を感じていた。そんな時兄が言うのだ。「俺についてこいよ。安心しろ。俺がついてる。行こうぜ」とても頼もしかったのだ。兄の勇気をとても羨ましく思った。それと同時に尊敬していた。
兄は洞窟に目を向けて足を踏みだす。それをお父さんと僕はじっと見守る。その瞬間だった。ちょうど兄の真上にあった立派な氷柱が音もなく落ちてきたのだ。その氷柱は兄の頭を貫いた。兄はそのまま前に倒れた。頭から血が噴き出る。氷柱が血に染まり岩の地面に転がり落ちる。お父さんは素早く動き兄の体を起き上がらせる。
「大丈夫か!真也!大丈夫か!」
「おい!真也!返事しろ!目を開け!」
唾を飛ばしながら目を見開き、体を震わせながらお父さんが叫ぶ。こんなお父さんを見るのは最初で最後だった。僕は洞窟の入り口に立ちすくんでいた。愛しい氷柱が尊敬する兄の頭を貫いた。その事実を噛み締めようとするが、うまく咀嚼できない。頭がぐるぐるしている。瞬きが多くなる。息が苦しくなる。お父さんは声にもならない声をあげている。しかしもう僕もお父さんもわかっていた。兄はもう息絶えていた。その現実から目を背けたくなった。背けられなかった。お父さんは声を荒げる。
「大丈夫。大丈夫だ優也。今すぐに救急車を呼ぶからお前は車に戻ってくれ。いや、お父さんもついていく。とりあえず一緒に車に行こう。真也は大丈夫だ。安心していいから。とりあえず行こう」お父さんは立ち上がる。僕は体の震えを抑えられないまま立ちすくむ。
「優也。大丈夫だ。真也の方は見ない方がいい。大丈夫。大丈夫。行こう」
お父さんの焦りっぷりがひしひしと伝わってくる。僕は意外にもすぐに心が落ち着き始めた。まず考えたのはこの状況が逆だったらどうなっただろうということだった。もしお父さんが氷柱に貫かれて、兄が生きていたら、頼れる兄が生きていたらどうしていただろう。考えるだけ無駄なのだ。僕はできるだけ考えることをやめて、本能のままに動くことにしてみる。その方が楽だったのだ。
「優也。いくぞ!早く!」
僕がとった行動は正しかったのだろうか。僕はひとまず目についた血塗られて煌めいている大きな氷柱を手に取った。触ってみたかったのだ。その瞬間凍てついていた心が満ちていくのを感じた。自分が生きているということを肯定されたような気分になった。これ以上ない幸せだった。血のコーティングが地面に垂れる。それを片方の手ですくって氷柱にもう一度塗りたくる。これでいい、これがいいと思った。
「優也?何してるんだ。早くこい。こい!」
お父さんが僕の左手をとり、引っ張る。僕はお父さんがとったその行動に異常に怒りを感じた。邪魔をするなよと思った。でも言葉には出さなかった。もう心には決めていた。ずっと考えていた。もう無理だった。僕は右手に握りしめた氷柱を振りかぶり、お父さんの頭に思いっきりぶつける。氷柱が割れる。お父さんはよろめいて倒れる。握りしめていた氷柱の片割れをじっと見る。
「なんだこれ」
奇しくも、折れた氷柱には何の魅力も感じなかった。うめくお父さんを見下ろし、折れた氷柱の片方を頭めがけて投げつける。
「うう」
お父さんは顔をしかめて唸る。もういい。もう何もかもどうでもいいんだ。僕は兄の死体、折れた氷柱、うめくお父さんを残して森の奥の方へと歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます