アイより出でず
門永 澪
第1話
「神字書きのキリカさんのこと知らないの? 本当に?」
向かいに座った滝原が声を上げる。かなり大きめの声だったが、昼休みの学食はひとでごったがえしており、彼女の上げた声も喧騒に紛れて、他人の耳目を引くことはなかった。
私は滝原に向かって「ああ」と頷く。
「知らないな。私はそういうの、読まないし」
「ええ……」
滝原は唖然とした様子を隠しもせず私を見つめる。眼鏡の奥の目が大きく見開かれている。だがこちらとしては、滝原の驚き方のほうがよほど不可解だ。何をそんなに驚くことがあるというのか。総理大臣の名前を知らなかった、というわけではあるまいし。
「でも蒲生さんだって、『環礁の蒼』はプレイしてるでしょ? だったら名前くらいは聞いたことあるんじゃないの」
まだ納得がいかない様子で滝原が問うてくる。私は再び頭を振った。
「いいや。SNSはやってないし、ゲームの情報は公式サイトくらいしか見ないから」
「けど、だけど、本当にすごく有名なんだよ。投稿サイトのランキング常連だし、フォロワーだって一万人以上いるし、『環礁の蒼』のプレイヤーでキリカさんの小説を読んでないひとはいないって言われてるくらいで……」
なおも食い下がる滝原の肩を、彼女の隣に座った女子学生が軽く叩く。
「滝原さん、もういいって。そんな言い方したら、責めてるみたいでかわいそうだよ」
彼女は苦笑を浮かべ、
「ほら、日本人だって、森鷗外を知らないってひとや、夏目漱石なんて読んだことないってひとはいるじゃない。それと同じだよ。いくら知名度や実力があっても、知らないひと、読まないひとは、どうしてもいるんだって」
と宥めるような声を出した。
おやおや、と私は思う。例えとはいえ、日本を代表する文豪の名を引き合いに出すとはね。自分が彼らに匹敵する知名度と実力があると思っているのか、それとも咄嗟に浮かんだのかその名前だったのか。いずれにせよ大した自信だ、と私は目の前の人物を見つめた。
友人の滝原加奈子から、「紹介したいひとがいる」と言われて引き合わされたのが、いま斜め向かいに座っている天利鏡花だった。茶髪のショートボブに、コスメショップの広告めいた隙の無いメイク、ブランドのロゴが入ったカットソーを着た、華やかな印象の女性だ。
滝原は彼女を、「天才字書きのキリカさん」だと紹介したが、こちらとしては何のことだか分からない。より正確には、「字書き」という言葉自体は知っているが、キリカさんとやらのことはまるで知らない。どうして滝原が彼女を私に紹介したのか、その目的についても皆目見当がつかなかった。
「絶対知ってると思ったんだけどなあ」
滝原が無念そうなため息をつく。
「あのキリカさんだよ? このあいだの短編だって、めちゃくちゃ話題になったのに」
「やだ、全然大したことないよ」天利が手を振る。「短編って学パロのやつでしょ? 話題になったって言っても、ブクマたったの二千だよ」
「大したことあるじゃないですか! もお、キリカさん感覚麻痺ってますよ」
「そうかなあ。ブクマ一千超えなんて普通じゃない? まあ私は書きたいものを書いてるだけだから、ブクマ数なんてどうでもいいんだけど」
滝原と天利はこちらのことなどそっちのけで、よく分からない話で盛り上がり始める。コメント、ブクマ、いいね、ランキング……そんな言葉が乱れ飛んでいる。
どうして自分がこの場に呼ばれたのか、ますますわからなくなりながら、私は昼食として選んだきつねうどんに、黙って箸をつけた。
***
ゴールデンウィーク明けの大学構内は、休み明け特有の浮ついた空気が、春の陽気を炭酸水のように泡立たせている。私と滝原は連れ立って、自分達の学部がある棟へと移動した。一年次は一般教養の授業が主だったが、二年次からは専門の科目が増えていく。この日も午後の専門授業へ出席するため、私達は指定の教室に入り、講義の開始を待った。
講義が始まるまでの空き時間に、滝原は改めてキリカこと天利について私に説明した。彼女は滝原や私もプレイしているスマートフォンゲーム「環礁の蒼」の二次創作をしており、その手の愛好家達からは神字書き、天才字書きなどと称されているのだという。
「本っ当にすごいんだから、キリカさんの書く小説」
隣に座った滝原が、熱を込めて語る。天利は主に小説を書いており、書き上げた作品は投稿サイトやSNSに掲載されている。彼女の小説は公開されるや否や、一日で数百のブックマークがつくほどの人気ぶりで、大勢のファンやフォロワーを抱えており、「環礁の蒼」のプレイヤーでキリカのことを知らない人間はいないと言われる程だそうだ(例によって、私はキリカのことは知らなかったが)。
「短編も長編も書けるし、とにかく筆が早いの。あとどれもめちゃくちゃ面白くて、ギャグは声出して笑っちゃうし、シリアスは気づいたら涙流れてるし、なんていうか、心を揺さぶられる通り越して魂を揺さぶられちゃうって言うか。キャラクターの描写も、これだ! って感じで、本当にそこに生きて存在してるみたいなリアリティがあってやばいの」
自分の興奮をうまく言語化できないのか、滝原は早口ながら、どこかもどかしげに喋り続けている。普段はおとなしく、あまり自己主張をしないタイプの滝原が、こんな風にはしゃぐのは珍しいことだ。私は少々面食らいながらも、滝原の話を黙って聞いていた。
滝原が天利と出会ったのは今年の三月。同人誌の即売会が催されている会場で、ふたりは初めて顔を合わせた。とはいえその時点では、滝原も天利のことは知らず、あくまで「キリカ」の同人誌を購入するため現地に赴いたに過ぎない。そしてその会場で初めて実物のキリカを目にし、自分とほとんど年齢が変わらないことに驚いた、と滝原は言う。
「あれだけの文章が書けて、発想の引き出しもすごく多いから、絶対年上だと思ってたんだ。けど実際に会ってみたら、どう見ても私と同い年くらいにしか見えなくて、なんかもう逆にショックだったよ。私なんて呑気に学生してるだけで、誇れることなんて何もないのに。これだけの才能を発揮して活躍してるひとが同年代だなんて、本当に信じられなかった」
だが滝原を驚かせたのはそれだけではない。新学期の始まった四月、彼女は偶然にも大学図書館で「キリカ」の姿を見かけたのだ。最初は他人の空似かと思ったが、どう見てもキリカそのひとにしか見えない。意を決して話しかけると、相手は話しかけられたことに驚きつつも、自身がキリカであることを認めた。これが人文学部二年に所属する天利鏡花と、滝原の出会いだった。以降、滝原は天利とたびたび話をする仲になり、晴れて天利――キリカの知人になることができたのである。
「すごい偶然だよね。キリカさんが同じ大学なのもびっくりだけど、まさかたまたま図書館で会えるなんて、ある意味奇跡じゃない?」
私達が通う国立大学は、大学公開の数字によると、所属する学生だけで一万人を超えている。一部の学生はキャンパスが異なるものの、それでも相当数の学生・教職員が構内にひしめいていることになる。加えて私と滝原は理学部であり、文系の天利とは学部棟も異なっている。こうした条件下で滝原が天利と出会えたのは、確かに奇跡的といえるだろう。
滝原はこらえきれない様子で笑みを浮かべる。
「今でも夢みたい、あのキリカさんと知り合いになれるなんて。最初に図書館で話しかけたとき、自分でも図々しいことしちゃったなあって思ったんだ。私なんかがキリカさんに声をかけるなんて、身の程知らずにもほどがあるって感じなんだけど、でもキリカさんってすごく気さくでサッパリしたひとで、そんなの全然気にしなかったの。さすがだよね。文才があるだけじゃなくて、人間性もしっかりしてるんだから」
「それは、気にし過ぎじゃないのか」
滝原の言葉がいささか大げさに思え、私は苦笑する。
「王室の人間ってわけじゃないんだから、こっちから話しかけたってかまわないだろう。第一天利さんは二次創作をしてるだけで、プロの小説家でもライターでもないんだよな? そういう意味では私達と同じただの一般人、ただの学生なんだから、そんなに特別視する必要はないんじゃないのか」
「いや、それはそうだけど」滝原が言葉を濁す。「でもキリカさんが一般人っていうのは違うんだよね。少なくともネット上では違うの。フォロワーの多さとか、ブクマの多さとか、そういうのってこの界隈……二次創作の世界では、すごく大きな意味を持ってる。あまり有名じゃないひとが、有名な絵師や字書きに話しかけたら、擦り寄りだとか、図々しいとか、陰でバッシングされることだってあるんだよ」
真剣な口調で滝原は言うが、なんだか妙な話だ、と私は腑に落ちない。
数字の多さがものをいうのはどこも同じだろうが、二次創作というのは、つまりはただのファン活動のはずだ。どれだけフォロワーがいようと作品の出版はできないし、どれだけの多くの評価をもらおうと、それで何かの賞を獲得できるわけでもない。どこまでいってもアマチュア未満の世界であるはずなのに、そこに優劣や序列が存在するのは不合理なことのように思える。
だが私も二次創作について詳しいわけではない。その界隈には界隈独自のルールやしきたり、決まりごとがあるというのも、往々にしてよくあることだ。門外漢である自分が、ルールが作られた背景を知りもせず、印象だけで批判をするのも余計なお世話というものだろう。そのように考えて、私は滝原の言葉に反論はしなかった。
「それにね」
と滝原が気を取り直したように言う。
「確かにキリカさんはプロじゃないけど、プロの小説家としてもじゅうぶん通用する実力はあるよ。っていうか、このままいけば普通に商業デビューすると思うな。いまは二次創作にしか興味ないし、ファンが楽しみにしてくれるからって二次を書いてくれてるけど、オリジナルを書けば新人賞なんて余裕で取れるだろうし、キリカさんの作品ならヒット間違いなしだよ。アニメ化とか映画化とかされちゃうかも」
まるで我がことのように滝原が声を弾ませる。たいした入れ込みようだ。だがこちらとしては、滝原の熱中ぶりに対し、いまいちついていくことができない。そんな私の気持ちが伝わったのか、滝原がスマホを取り出して何やら操作を始める。
「せっかくだから、蒲生さんもキリカさんの作品読んでみて。絶対感動するから。でも蒲生さんがキリカさんのこと知らなかったのは意外だったなあ。蒲生さん本とかたくさん読んでるし、『環礁の蒼』も好きだから、当然キリカさんのこと知ってると思ったのに」
滝原がスマホを差し出し、私に画面を見せてきた。
「これが投稿サイト、キリカさんの作品はこれね。あっ、ランキングに載ってるやつがあるから、ここから辿ることもできるよ。――それから、こっちがSNSのアカウント。蒲生さんはアカウント持ってないんだよね? でも見るだけならアカウント無しでも見られるから。あ、ちなみに投稿サイトの方も、見るだけなら登録不要でOKだよ。けどブクマとかいいねはアカウントないとできないから、気をつけてね」
矢継ぎ早に説明され、とりあえずキリカの作品名とIDをメモする。ちょうどそのとき教授が教室に姿を現し、五分遅れで午後の講義が開始された。
「読んだら感想教えてね」
滝原が笑顔で囁き、慌ただしくスマホを鞄にしまう。この教授は講義中のスマホ使用を固く禁じており、うっかりスマホをしまい忘れようものなら、問答無用で没収されてしまうこともある。教壇に立った教授が、抑揚の乏しい口調で講義の概要を説明するのを聞きながら、私もノートを開き、意識を授業に集中させた。
その日の晩、私は下宿の部屋でパソコンを立ち上げ、滝原に教えられた天利の作品に目を通してみた。確かに滝原の言ったとおり、どの作品にも多くのブックマークやコメントがついている。そしてコメントの内容も、天利の小説を絶賛しているものがほとんどだ。
『素晴らしい作品をありがとうございます。あなたが神です』
『もう公式超えてる。これが原作でいいよ』
『今回もすごくおもしろい。キリカさんの小説以外読めません』
『続き待ってました! 最高です!』
『すごすぎて笑い死ぬかと思いました。こんな展開思いつくとか天才すぎませんか』
……だが正直なところ、私には天利の小説が、ここまでもてはやされる理由がわからない。
短編をいくつか読んでみたが、文章自体は可もなく不可もなく、破綻はしてないがとりたてて褒めるべき点も見つからない。大衆小説にありがちな、個性の見えにくい平凡で量産的な表現ばかりが並んでいる。ストーリーに関しても、ひとむかし前のライトノベルやティーンズ小説を彷彿とさせるノリだ。登場人物がネットミームを口走ったり、台詞の半分が絶叫と品のないギャグで埋まっているのも、いかにも素人のネット小説という感じが強い。
私は投稿サイトの画面を閉じる。滝原はああ言っていたが、やはり私にはピンとこない。天利のことを天才だ神字書きだと褒め称える気持ちも起こらない。
とはいえこれは、ただの個人の感想だ。好みはひとそれぞれというものだし、大勢の人間に評価されているということは、天利が書く物語にも心の琴線を震わせる何かがあるのだろう。私の心には、その何かに感応するための受容体が備わっていないというだけで。
そう結論付けて、私はパソコンの電源を落とした。天利のことは、それきり意識の底に沈み、忘却の塵に音もなく埋もれていった。
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