探偵はトイレに駆け込む
東雲弘治
第一話 探偵はお腹が痛い
――とにかく、痛みをまぎらわせたい。
腹部を押さえつつ、目に入ってくるものに意識を向ける。
タバコの吸い殻が点々と落ちている。自動販売機、ホットのコーヒーが売り切れている。若い女性タレントが笑いかけるポスター、薬物乱用を注意する呼びかけだった。いつも見かける塀の上に座る猫。思わず上を向けば太陽の強い光が目に刺さる。
通学のたびにいつも経験している通り、この程度で痛みがどうにかなるものでもない。
「く、うぅ……」
どうしてもっとちょうどいいタイミングで出ようとしてくれないのか。家を出る前でもいい。学校に着いてからでもいい。なぜ道のりの半分ぐらいの地点で痛くなるのか。こちらの事情などお構いなしだ。
それでもあの場所へ向かって歩き続ける。
明らかに立地がおかしいために、利用する人間がほとんどおらず、それゆえにいつでも空いている――公衆トイレへ。
だがこのときは知らなかった。その公衆トイレにはいま、警察の規制線が張られていることを。
1
穴加部刑事は潔癖性である。
殺人や変死事件を扱う部署において、ぶっちゃけ一番不向きな性質だろう。
ケースバイケースだが、事件性のある死体というのは不潔なものが多い。腐乱死体はもちろん、傷口の具合によっては脂肪が見えたり、内臓が顔をのぞかせていたりと潔癖性でなくても気分が悪くなる。死後硬直の後に筋弛緩が起きれば、肛門で押しとどめられていた「もの」が漏れ出てくる。
「当然のことながら手袋はしていますけれども。嫌なことに変わりはありません。可能ならば死体に近寄らずに解決したいものです。ましてや――事件現場がこんな寂れた汚いトイレならなおのことです」
神経質そうに手首でメガネを上げる穴加部。狐のような目であることも相まって、非常に話しかけづらい雰囲気を醸している。
穴加部は開け放されたスライド式の大きなドアを背にして立っていた。
多機能トイレの入り口だ。電灯で照らされた内部では、男性の死体が鑑識によって調べられている。
潔癖性とはいえ、穴加部も刑事なので死体は確認していた。頭部に大きな裂傷。そこからおびただしい血が流れていた。服装は下半身こそふつうに長いズボンをはいているものの、なぜか上半身は素肌にコートを羽織っているだけだ。仰向けになった死体はコートの前がはだけており、素肌が露出している。
穴加部にとって異様だったのは腹部にあった赤い腫れ物だ。巨大な梅干しに見えなくもないそれの周辺には点々と茶色い液体がついている。腹部という位置を考えると、液体の正体は容易に想像がつくが、穴加部はそれ以上考えるのをやめた。そもそも事件に関係があるとも思えない。
そんなことより現場の汚さに辟易していた。用地を選定した行政がミスを犯したとしか思えないような位置にトイレが設置されているせいか、いたるところに落書きがあり、ゴミも散乱している。掃除もかなり雑になされていた。利用者が少なければ手抜きをしてもバレないとでも思っているのか。
なんにせよ汚いし臭い。穴加部は早く帰りたかった。
「おそらくは事故でしょうし、大して捜査する必要もないで――!?」
穴加部の独り言が打ち切られる。トイレの建物のわきから、いきなり若者が現れたのだ。おしゃれそうな私服はどう見ても警察関係者ではない。
穴加部は一瞬あっけにとられた。規制線が見えなかったのか? 警察の文字が入った服を着ている人間があたり一帯にいるのが見えないのか?
苦悶の表情を浮かべたその若者は腹部を押さえながら、するりと多目的トイレ内へ入り込む。誰がどう見てもトイレを本来の用途で使おうとする人間の振る舞いだった。
だがいまここは事件現場なのだ。軽々しく立ち入っていい場所ではない。
「きみっ、待ちなさい!」
あわてた穴加部は、若者が肩にかけていたショルダーバックのひもをつかんでトイレ内から引っ張り出す。
「邪魔するな……っ、もう、うんこ漏れるから…………!」
恨めしそうに唇をかんで、眉根を寄せた上目遣いの目でにらんでくる。
渋面なら穴加部も負けていない。汚い場所で汚い話をされては不快にもなる。
「申し訳ありません。現在このトイレは事件捜査のため立ち入り禁止ですので、ほかのトイレを当たっていただけますか?」
目の前の若者がかわいい女の子の格好でなかったら、もっとぞんざいな口調になっていただろう。
淡いオレンジ色のニットの上に紺色のショートダッフルを羽織り、下には灰色のワイドパンツをはいている。顔の輪郭は丸みを帯びて、肌は健康的な白さ。濡れ羽色のショートヘアを朝の日差しが照らしている。その上にはキャスケットをかぶっていた。
ボーイッシュな女の子というのが、穴加部の第一印象だった。
「お願いぃ……んはっ…………ふぐぅ~……」
「ダメなものはダメです」
その苦しみの表情に心がうずいたが、穴加部はきっぱりと拒否する。するとその若者は穴加部に密着してきた。
「……あの、スーツをつかまないでいただけますか?」
「使わせてくれないと……………………ここで漏らすよ、ゆるいヤツ」
かつてここまで汚い脅しがあっただろうか。
穴加部を絶望が襲った。
究極のニ択。
鑑識作業中の場でさせるわけにもいかないし、かといって自分のそばで惨劇を起こさせるわけにもいかない。その惨劇を想像するだけで冷静な判断力が失われてしまう。
そこへ提示される第三の選択肢。
「む、無理ならほかのトイレまで連れてって……パトカーで」
「っ……そ、それならなんとか……いやしかしパトカーをタクシー代わりにするのは」
なおも葛藤する穴加部に、若者はとんでもないことを言い放った。
「うぐぅ……連れてってくれたらこの殺人事件の真相を教えるからぁ……!」
「きみ、それはどういう――」
「あっあっ、ごぎゅるるる~って言ってる……もうここでしちゃおうかな~……」
「分かりました、分かりましたよ! 連れて行けばいいのでしょう!」
穴加部は半ばヤケになって叫んだ。
事件関係者に話を聞くという体にすれば大丈夫だろう。そう理屈を付けてお腹がピンチの若者をパトカーへ引っ張っていく。
後部座席に乗った若者は小さな声でつぶやいたが、エンジンをふかす音がかき消してしまい、穴加部には聞こえなかった。
「うふっうふふふ、うまくいった……おうぅっ……!」
痛みが強まってきたのか、若者はひざとひざをぴっちり閉じて硬直する。
穴加部は地図アプリでトイレのありそうな場所を探す。この際、スーパーでもコンビニでもよかったが、パトカーで乗り付けるのはどうにも気が引けた。
「近くに大きな公園がありますね。車だと……5分くらいでしょうか」
サイレンを鳴らせばもっと早く到着できるが、さすがにこんなことにサイレンを使うのはバカバカしすぎる。
「あ、ヤバい。もう出そう、あ、あ、あ」
前言撤回。間髪入れずサイレンを鳴らす。これはパトカーの椅子という市民の財産を守るための致し方ない行為だ。決して自分が清掃を担当する事態を回避したいがためではない。
――結局、3分で着いた。
さいわい、着いたところがトイレの近くだった。事件現場のものとは違って、男子トイレ、女子トイレ、多機能トイレの3つがそろっている。
後部座席の若者は無言のままパトカーを飛び出し、一目散に公衆トイレへ向かう。腹部をおさえて猫背ぎみにのろのろと歩みを進めるが、ときどき電流が走ったように背すじをピンと反らす。
「あらためて見るとけっこう背が低いですね。体格から察するに中学生ぐらいといったところでしょうか?」
パトカーの中から観察する穴加部。惨劇を回避できたことで落ち着きを取り戻していた。
だがすぐに取り乱す。
あのボーイッシュな格好の若者が、男子トイレに入っていったからだ。
「えっ……!? いや、どう見ても女の子なのでは…………?」
後部座席にはあの女の子(?)が置いていったベージュのショルダーバックがあった。
穴加部はそれを漁って身分を示すものを探す。
写真つきの学生証があった。黒目がちの大きな目がこちらを向いている。
そこに記載された事実に穴加部は驚愕する。
「東京電気情報通信大学――大学生!? 嘘でしょう……しかも――」
若者の名前は悼田エル。男子トイレに入っていったことを裏付けるように、性別の欄は「男」になっていた。さらに驚いたことに生年月日から逆算すると年齢は20だった。
「あの容姿でハタチの男性ですか……」
別に女性だから送っていったわけではない。ないのだが、穴加部はなんだか裏切られたような気分になった。
刑事という職業柄、さまざまな人間と会う機会がある。それでもここまで年齢性別が外見と異なる人間は初めてだった。成長期がこなかったのではないかと思うほどだ。
「――まあ、それはともかく。目下気になるのは殺人事件という発言ですね。おそらくはトイレに行きたいがためについた嘘でしょうが、あんな辺鄙な場所にあるトイレを知っているぐらいですし、何か怪しいものを目撃したかもしれません」
穴加部はバッグの中身を元に戻すと、さっき悼田エルにつかまれたせいでしわになったスーツをきれいに整える。身だしなみにはうるさいのだ。
髪はきっちりとポマードで固め、シャツや靴下もちゃんと洗濯する。正直なところ、昼も夜もない仕事で身だしなみに気を使い続けるのは辛いのだが、性分なので仕方がない。
やがてトイレから悼田エルが出てきた。それまでの苦悶の表情から一転、わずかに笑みを浮かべた晴れやかな顔で。
「やー出た出た。学校行くときはいっつも痛くなっちゃうんで、あそこでうんこできないと困るんだよねー。刑事さんが送ってくれて助かったよ、ホント」
聴き方によっては男性にも女性にも聞こえるハスキーな声で、悼田エルは言った。容姿も中性的なら声も中性的だった。
ドアを開けてすっと椅子に腰を下ろす。
「言っておきますが、パトカーはタクシーではありません。こういうことが何度も通るとは思わないように」
悪びれることのない軽い口調の悼田エルに対して釘を刺す穴加部。
「うふふ、まあぼくも刑事さんじゃなかったら――あ、そういえば刑事さんの名前って何?」
「穴加部と申します」
穴加部が手帳を見せて言う。そこには穴加部正一と記されており、いまと同じように清潔感のある格好で写った写真が載っている。
「穴加部さんが潔癖そうだったから、あんな手を使ったわけで。どうせトイレ使わせてもらえないだろうし、最初に無理ふっかければトイレまで送ってもらえるかなーって」
うまいこと利用されたことを知り、穴加部はため息をついた。いくら腹痛のためとはいえ、強引に現場に入って刑事をだます度胸には呆れるしかない。
殺人事件だと言われてしまったら、でまかせだとしても一応は調べる必要がある。そういった点も分かって言ったのだろう。なかなか頭の回転が早いようだ。
「…………では殺人事件というのも嘘ということですね?」
「あー、うん。だめ押しのつもりで言おうと思ってたんだけどね」
やはり嘘だったらしい。
「でしょうね。どう見てもトイレ内で転んだ際に打ち所が悪くて死亡したようにしか――」
「現場を見たらどうも本当に殺人っぽかったし、嘘も方便ってことかな。――うんこだけに。うふっうふふふ」
下品なしゃれを自分で言って自分で笑っている。小学生か。
いや、そんなことはどうでもいい。本当に殺人だったという言葉は聞き逃すわけにはいかない。
穴加部は疑う気持ちの方が大きかった。そもそもあのわずかな時間現場を見ただけで殺人だと判断できるわけがない。
「わー、めっちゃ疑ってる顔。でもここじゃ説明のしようがないし、いったん現場に戻ってよ」
「はぁ…………言われなくても現場には戻りますよ。勝手に抜け出したことの説明もしないといけませんしね」
穴加部はエンジンをかけてハンドルを握る。
「あ、サイレンは鳴らさなくていいから」
「誰のせいで鳴らしたと思っているのですか……?」
やっかいな人間に出会ってしまったと穴加部は我が身を呪った。
2
現場に戻るとちょっとした騒ぎになっていた。
「どうしたのですか?」
穴加部が同僚の頼同刑事に尋ねる。
「ああ、さっき現場に近づいてきた怪しいヤツがふたりもいてな。話を聞こうとしたんだが、どうも要領を得ない。それと被害者の家族も来たんだが、そっちもやたら突っかかってきて困ってんだ」
騒ぎの方向を見やると、ふたりの男性とひとりの女性が警官に詰め寄っている。男性の片方は車いすのようだ。
ここで頼同がエルのことに気づき、
「――ていうか、おまえの隣にいる子は誰だ? 事件の関係者か?」
「ええまあ、ちょっと話を聞こうと思いまして」
「ふぅん。発見者の清掃員によればトイレには鍵がかかってたらしいし、ただの事故だと思ったが……なんかきな臭くなってきたなぁ」
穴加部も同感だった。悼田エルの口振りからすれば、これは殺人なのだ。しかも密室殺人ということになる。
エルと穴加部は多機能トイレ内へ連れだって入る。一通りの鑑識作業は終えたらしく、すでに鑑識の人間はいなかった。遺留品や死体のまわりには白線が貼ってある。
この多機能トイレは正方形の部屋だ。入り口である大きなスライドドアから見て左奥に手すりのついた便器。右奥には底の深い洗面台があった。
「それで、悼田くん。これが殺人だというのはいったいどういう根拠に基づくものなのでしょうか?」
悼田エルは最初きょろきょろとトイレ内を見回していたが、やがて左側手前の壁を見つめて首を傾げる。彼の胸あたりの位置に小さめの扉があった。鍵穴がついているところを見ると何かの用具入れだろうか。
「悼田くん?」
反応がないので肩をたたこうとすると、悼田エルはくるっと向き直って、
「下の名前で呼んでいいよ。どうせさっき学生証とか見たんでしょ? ぼくの方も送ってもらった負い目があるし、その辺は水に流そう? ――トイレだけに。うふっうふふふ」
穴加部は辛そうに目を閉じた。死体とトイレと駄洒落の取り合わせに非常に気が滅入る。
そんな気持ちにお構いなしにエルは解説を始める。
「穴加部さん、これってなんだか知ってる?」
エルが指さしたのは自分の足下。収納扉の真下の床だった。そこには遺留品のひとつが落ちている。透明なビニールでできた袋状の物体は、穴加部の見たことのないものだった。拾い上げて顔のそばでまじまじと見る。大人の手がすっぽり入る程度の大きさで、片方の端は開口しており、マジックテープで止められるようになっているようだ。そしてもう片側の裏面には丸い板がついており、ドーナツのように穴が空いていた。
「いえ、見たことはありませんね。掃除機の紙パックのようにも……やはりちょっと違いますか」
「飲み込んだものが出る場所という意味では同じかもね」
エルの言い方に穴加部は不吉なものを感じた。なぜ若干口元がほころんでいるのか。
「それはストーマパウチって言って、うんこを溜める袋なの」
一瞬、気が遠のいた。
「うふふ、穴加部さんは面白いなぁ。こっちの想像通りの行動ばっかしてくれるんだもん」
口元に手を当てた上目遣いの表情で、エルは楽しそうに言う。
穴加部は思った。殺人というのもやはり嘘で、本当は自分をからかいたいだけなのでは。
「あーっ、ごめんごめん。そんな疑い100%の目で見ないでよ。だいたいうんこを溜めるといっても、それは未使用のやつだからさ」
そう言われても納得できない。これは気分の問題だ。消毒済みだとしてもウォシュレットの水で顔を洗いたくないというのが人情だろう。ましてや潔癖性の穴加部にとっては汚物と関連しているというだけで耐え難い。
「まあこれ、あんまり笑いのネタにしちゃいけないんだけどね。ストーマは人工肛門のこと。病気で腸を摘出した人が建造するんだ。ほら」
エルは死体のそばにしゃがみ込むと、腹部のあの赤い腫れ物を指し示す。
「腸を途中でお腹から出してるの。ぼくも実物は初めて見たなぁ」
言いながらエルは興味深そうにストーマを見つめる。
「……私の立場でこういうことを言ってはいけないのでしょうが、よく死体を平気で触れますね」
「腐敗が進行してるならともかく、死にたてなんでしょ? この寒い時期なら微生物もまだ分解し始めだろうし。死後硬直中だからお漏らしもしてないし。うんこよりは汚くないんじゃない?」
ちょいちょい汚い言葉を挟んでくるのが気になるが、それを除けばなかなかドライな感想だ。
「それにしても妙に死体に詳しいですね。大学の専攻なのですか?」
「んーん、特に関係はないよ。ぼくはうんこが好きなだけ。うんこに関係あるものを調べてったらなんか知識が身についてた」
下ネタが好きなのは分かっていたが、低俗な印象とは裏腹にしっかり勉強しているようだ。だてに大学生をやっていない。
「それでストーマのことも知っているわけですか」
「そ。要するに人工の排泄口。出すところがないとうんこの行き場がないからね。だけど筋肉のついた本物の肛門とは違うから、垂れ流しになっちゃうんだよ。そこでこの袋――ストーマパウチに溜めるわけ」
ようやく謎の袋の正体が分かった。聞いていればかなり重要な医療用の器具に思える。それでも穴加部はストーマパウチを若干遠巻きにした。
「使うときは丸い穴が空いてる方をストーマにはめて、もう片方の口を閉じる。そんで溜まってきたら口を開けて捨てるんだけど、ふつうのトイレだとどうにも捨てにくいらしい。だから最近の多機能トイレにはストーマを捨てる時用の洗い場がついてるんだよ」
エルが壁に設置された洗面台を指さす。穴加部がのぞきこむと、ふつうのものよりかなり深さがある。伸ばして使えるシャワーも設置されていた。
「なるほど。被害者がこのトイレに来たのはそのためというわけですか」
「それだけじゃないと思うけど……まあそれは置いといて、なんで殺人だって言えるか」
ようやく本筋に戻ってきた。このまま講釈が延々と続くのではないかと内心恐れていた穴加部はホッとする。
「残されていたストーマパウチとストーマパウチが残されていなかったこと。これが理由になる」
穴加部はつい「は?」と言ってしまった。エルが何を言っているのかよく分からない。パウチは残ってるのか残っていないのか。まるで謎かけだ。
「そもそも穴加部さんたちは、最初この事件がどういうものだと思ったの?」
「トイレ内で滑って転び、たまたま頭の打ち所が悪くて死亡した――要するに不運な事故ですね。清掃員が来るまで鍵は閉まっていましたし、誰かの手で殺害されたと考えるのは難しいでしょう」
この辺は自分たちの沽券にも関わるので強調する。初動で失敗していたなどとは思いたくない。
「でもそれだとおかしな点が出てくるんだよね。まず、収納用の扉下に落ちていた未使用のパウチ」
「パウチを交換しようとしたときに転んで、その拍子に飛んでいってしまっただけでは?」
「可能性はゼロじゃないけどね。交換するときは洗面台にいたはずなんだから、洗面台と対角線上に位置するここの隅に飛んでいくのは考えにくい」
穴加部は自分で言っていても無理があると思っていたが、やはりあっさり否定されてしまった。
「もうひとつおかしな点がある。交換しようとしてたとしようか。じゃあ、交換する前の使用済みパウチはどこへ行ったの?」
「言われてみれば……しかし鑑識が回収したのではないでしょうか?」
「うーん、置いた痕跡もなかったし、たぶん違うと思うけど。ちょっと聞いてみて。もしあったら持ってきてもらってさ」
穴加部は悼田エルのことが分かってきた。なんというか、図々しい。華奢な外見とは全く合わない。
とはいえ推理の続きも気になるので、鑑識に連絡する。
「穴加部です。お聞きしたいのですが――ええ、その……便……の付着した袋などを回収していましたら、現場へ持ってきていただきたいのですが……ない。そうですか……え? ああ、ではそれをお願いします」
「いま、便のところで詰まったでしょ。あっ、便だけに? うふふ、穴加部さんげひーん」
そして悪い意味で子供っぽい。こんな低俗な挑発に乗ってたまるか。穴加部は嫌な気分をぬぐい去るように、メガネをふいた。
「メガネをふいて気持ちを落ち着けようとしたでしょ。分かりやすいなぁ――あっあっやめて、拳銃抜こうとしないで」
なんかすごい顔でスーツの中に手を突っ込んだ穴加部を見て、エルはあわてて謝った。
穴加部は疲れたようにため息をはいた。話が進まない。
「で、やっぱりなかった? 使用済みのパウチ」
「……ええ。そのようなものはトイレ内のどこにも見当たらなかったそうです」
「ゴミ箱にも?」
穴加部がうなずく。
「ただ、袋状のものは被害者の所持品にあったそうですから、いまこちらに持ってきてもらえることになりました」
「オーケー。で、とにかく使用済みパウチがなかったんだから、交換作業はしてなかったってことになるね。――さて、そうなると被害者は交換しようとしたわけでもないのに、ストーマからパウチを外したことになる。病院とかならともかく、トイレの中でパウチを外す動機なんて交換以外ないよね?」
「話を聞いた限り、外すタイミングはそれしかないとは思います」
「ぼくも同感。にもかかわらず使用済みのパウチは外され、どこにも見当たらなかった。まあ誰かが持ち去ったと考えるのが妥当だよね。それに、ストーマのまわりにうんこがついてるのも証拠かな。慣れていない人間が無理やり外したから、うまく外せなかったんだと思う」
穴加部はいまの説明を反芻するように少しうなってから口を開く。
「もし被害者ひとりだけであれば、トイレ内に使用済みストーマパウチが残されているはず。逆に言えば、パウチが残っていないのだから被害者以外の誰かが居たことになる。つまり、そういうことでしょうか?」
エルはサムズアップと笑顔で応える。
「なるほど。そしてその何者かが殺人犯だと推理したわけですか」
「穏便に渡したようには見えないからね。殺してから奪ったか、奪うときに殺してしまったかのどっちかでしょ」
確かにエルの言うことは筋が通っている。捜査の方針を変えなければならないだろう。それはすぐに終わらせて現場から離れたかった穴加部にとっては憂鬱な事実だった。
「これから改めて捜査をすることになるでしょう。しばらくはこのトイレに何度も足を運ぶことになりそうです……はぁ」
「いやいや何言ってんの。いまから犯人も見つけるからね? じゃないとトイレが使えなくてぼくが困る」
エルは口をとがらせて言う。
やたら事件に熱心なのはそれが理由か。穴加部は呆れると同時に納得した。穴加部としてもこの汚いトイレに何度も行きたくない。利害の一致だ。このままやらせよう。
「とりあえずあちらに集まった不審人物の話を――」
と、一瞬目を離した間にエルの姿は消えていた。あたりを見回すと、第一発見者の清掃員の方へ走っていた。運動は苦手らしく、全然スピードが出ていない。エルが話しかける頃には穴加部も追いついていた。
「ふぅー、ふぅー…………ここのトイレを掃除してる人だよね? ちょっと聞いていい?」
エルの呼吸は荒くなっているように見えた。ほんの数メートルで息が上がっているらしい。そこは華奢な外見通りだ。
少し小太りの清掃員が怪訝な顔をする。
「え? ちょっと刑事さん、なんですかこの女の子は」
「まあ、捜査関係者のようなものです。申し訳ありませんが、もう一度現場を発見したときの状況をお聞かせ願えますか?」
性別のことを訂正すると余計こじれそうだったので、穴加部はあいまいにごまかした。
「はぁ……分かりました。私はこのトイレの清掃を担当しています。今日も早朝に来てドアを開けたら……」
「被害者が倒れていたのを発見したわけですね?」
「いやぁ、びっくりしましたよ。それで警察の方にすぐ通報したんです」
「じゃあ助けようとはしなかったの?」
エルが小首を傾げて尋ねると、清掃員の男性はむっとした顔になって、
「あれだけ血を流していましたんでね。下手に触ってもまずいと思ったんですよ。それにちゃんと救急車も呼びましたから」
「落ち着いて。決して責めているわけではありません」
と言いつつも、穴加部は清掃員に同情した。どうもエルは人の神経を逆なでするのが好きらしい。
どうせまたバカにしたような笑みを浮かべているのだろうとエルの方を見ると、なぜか真顔のままうつむいていた。……性格が読めない。
穴加部は理解を諦めて移動を促す。
「もういいでしょう? 不審な3人の話を聞きに行きましょう」
「あー、その前に清掃員のお兄さんにお願いがあるんだけど」
「まだ何か?」
うっとうしそうな顔の清掃員に向かって、エルは手のひらを突き出す。
「鍵ちょーだい」
「鍵も何も入り口のドアは開け放されていますよ?」
「そうじゃなくて、トイレ内に銀色の四角い扉があったでしょ? たぶんサイズ的にアメニティ入れだと思うけど」
そういえばエルが妙に熱心に見ていた気がする。あれがいったいなんだというのだろう。
「えっ……まあ構いませんが、トイレットペーパーとか洗剤とかしか入っていませんよ」
清掃員も同じ気持ちだったのか、変な顔をして鍵を渡してきた。
3
留め置かれた不審な人々は、三者三様に怪しかった。
不機嫌そうな顔をした車いすの老人と、見るからに挙動不審な中年女性と、無表情で上背のある若い男性。
「なぁなぁ刑事さんよぉ、いつまでここに留め置かれなくちゃあいけないんだ? オレぁただここんトイレに来ただけだって言ってんだろ?」
見た目に反して威勢良くつっかかってきたのは車いすの老人だった。
「だからといって規制線を無理やりに突破するのは……」
「しゃあねぇだろ? 車いすで入れる便所が近くになかったんだからよぉ」
我慢して別のトイレへ行ってくださいという言葉が穴加部の喉まで出かかったが、エルを送った手前、あまり老人のことを責められなかった。
エルがぽんぽんと肩をたたいてきた。なんだその哀れむような表情は。誰のためにやったと思っている?
「わ、わ、わたしはただ通りすがっただけで……ただの野次馬で……死んだ人のことだって知らないし…………本当です、本当ですってば!」
ここまで挙動不審だと警察でなくても怪しむ。視線は反復横飛びしているし、口調はどもっているし、服のポケットを不自然に押さえている。これで何かを隠していなかったら嘘だ。
目下一番の容疑者はこの女性だろう。エルも一番話を聞きたいはずだ。
「――あれっ?」
隣にいたエルの姿を見失った。またどこかへ行ったのかと思ったら、容疑者たちに背を向けてしゃがみ込んでいる。行動の予測できなさが幼稚園児並だ。悪い意味で目が離せない。
「これは父の不注意による事故です。捜査なんていいから早く遺体を返してくださいよ。警官はパブリックサーヴァントなんでしょう? 奴隷らしく国民の言うことを聞くべきです。こんなことに無駄に税金を使う必要はない」
上背のある若い男性が無表情できつい言葉を投げてくる。被害者の息子らしいが、まるで悲しむ様子がない。あまり良い父親ではなかったのだろう。
穴加部もそれなりに背の高い方だが、この息子はさらに高い。言葉にも迫力が出る。もっとも、刑事歴の長い穴加部はこの程度でいまさら怯んだりはしない。
とはいえ犯人を挙げないと税金の無駄遣いと言われても言い返せないので、エルがさっさと解決してくれるとありがたいのだが――またわけの分からないことをし始めた。
「ちょっとこれ見てみてー」
エルは老人の前に使用済みパウチをゆっくり近づけている。パウチの中にはなぜか焦げ茶の物体が少量入っていた。あれは……土か?
「あぁ? なんじゃい、この袋」
続いて挙動不審の女性に。
「は、はい、見ます。え、え? これでいいんですよね?」
女性は顔を近づけてまじまじと見ると、とても不安そうに聞き返す。
最後に背の高い男性の顔に近づけていく。小柄なエルはパウチを届かせるためにつま先立ちになってしまい、全身プルプルしていた。
「…………っ! や、やめないか! そんな汚い物を近づけるな!」
嫌そうな顔をして後ずさる男性。
「えー。汚くなんかないよ、ほらほらよく見て」
穴加部は額を押さえて嘆息した。エルはいったい何がしたいのだろうか。やはりこんな変な人間に頼ったのが間違いだったか。
「うん――これでスッキリした」
満足げな顔でうなずくエル。
「それだけ嫌がらせをすれば気分もスッキリするでしょうね」
穴加部は刺々しく言った。
「違うって。なかなか出ないうんこが出たときみたいに、謎が全部解けてスッキリしたって意味」
エルの言ったことに穴加部は驚くと同時に、嫌な顔をした。
「前半の比喩は要りませんよね?」
「うふふ。そっちは本当に嫌がらせ」
真面目にやって欲しい。事件を解決したか疑わしくなる。
「まあ犯人が分かったのは本当だから。でもその前に鑑識の人に調べてもらいたいことがあって――」
エルが鍵を取り出して用件を言う。
4
「もう帰るところだったんですが……まだ何かあるんですか?」
穴加部に呼ばれ、清掃員の男性が不満そうな口振りでやってきた。容疑者の3人もすでに集まっている。それらの人々の前には悼田エル。
「申し訳ありません。すぐに済みますので」
もっとも、エルの推理が正しければの話だが。穴加部は心中穏やかではなかった。エルの推理力には一目置いているものの、もし外したら自分の立場はかなりまずい。一般人をパトカーでトイレへ送り、しかも捜査に参加させて犯人を突き止めさせる。いくら汚い現場から離れたいからとはいえ、無茶をやっているなと思う。
案の定、集まってきた頼同刑事につっこまれた。
「おい穴加部、こりゃ何の真似だ? あんなちっこいの事件に参加させて……穴加部が事件をとっとと終わらせたいのは知ってるが」
「と、とりあえず見ていてくれますか? うまくいけば事件を早期解決できますから…………………………たぶん」
最後の「たぶん」は消え入りそうな声だった。
そんな気持ちを知る由もなく、エルが推理を始める。
「まず最初に明かしておきたい謎があって、そもそも被害者はなぜこの多機能トイレにいたんだろうね?」
「んん? 便所で用足し以外に何があるってんだ?」
車いすの老人がもっともな答えを返す。
「それはあり得ないんだよね。現場の状況から見て被害者とは別の人間がいたことは確か。別に介助が必要というわけでもなさそうだったしね」
「オレぁひとりでもクソぐらいできんぞ。最初ん頃は家内の手伝いがあったがな」
老人は自分のことを言われたと思ったのか突っかかってきた。エルはストーマ患者だった被害者のことを言ったのだろうが、老人含め容疑者たちはそのことを知らないのだ。
「車いすの人でもひとりでうんこできるように作られているのが多機能トイレだもんね。でもこのトイレ、見方を変えれば外から見られる心配のない絶好の隠れ場所だよね。たとえば――麻薬の取引とかにはうってつけ」
麻薬という言葉に、あの挙動不審な女性が飛び上がった。ポケットを強く強く握りしめ出す。
居並ぶ刑事たちは、「ああ、どの犯罪者もこのぐらい分かりやすかったらいいのにな」と思った。
「穴加部さん、最近この辺で麻薬が出回ってるでしょ? やたらポスター貼ってあったし。えー、名前忘れたけど女性タレントのやつ」
「部署が違うので詳しくは知りませんが、麻薬取締担当の方たちが動いているのはそうですね。――さて、申し訳ありませんが、そのポケットの中の物を出していただけますか?」
「う、う、うぅ……。ま、まま麻薬なんて、その――ごっ、ごめんなさいぃ!! 生活に疲れてつい……! で、でも、やっぱり使えなくて……返しにこようとしたら…………!」
中年女性は震える手で小さな袋を取り出す。パケと呼ばれるその小袋の中には、乾燥した植物片が少量入っていた。
「何かを隠しているのはバレバレだったが、しかしよく麻薬だと分かったなぁ嬢ちゃん」
頼同刑事が感心したように言う。
「ぼくは男だけどね。――確証があったわけじゃないよ? 使用済みのパウチが奪われていた理由を考えるとそのへんかなぁって」
性別を明かしたあたりで穴加部以外の全員がどよめいたが、エルは気にせず推理を続ける。
「うんこの入った袋なんて誰も欲しがらない。だったらうんこ以外のものが入っていたと考えるのが自然だよね。そんでストーマパウチのサイズから小さめの物だと仮定して、さらにこんな隠し方をしてまで運ぶ必要がある物となると……やっぱ麻薬が妥当かなー、みたいな。コートしか着てなかったのも取り出しをスムーズにしたかったんじゃないかなぁ」
まさか汚物の入った袋の中には仕込むまいと警官は思うだろう、と被害者は考えたのだろうか。その狙いは少なくとも穴加部に対しては成功したことは間違いない。中年女性から受け取った麻薬入りパケを思わず地面にたたきつけたことからもそれが分かる。
「そ、そういえば、なんか臭ったような……き、緊張してたからアレだったけど…………」
中年女性は泣きそうな顔に嫌悪感が混ざってひどいことになっていた。
「…………と、ともかく。被害者が麻薬の売人であったということは、殺人の動機もまた麻薬ということでしょうか。であるならば麻薬の売人を調べる必要がありそうですね」
「焦んないでよ。犯人はもう分かってるって言ったじゃん? 落ちていたパウチがそれを示してる」
エルは持っていたストーマパウチをつまんでひらひらとさせる。
「そもそも中にこれが落ちていたのがおかしいんだよね。被害者はここでパウチを交換する気はなかった。麻薬取引が目的なんだから当然だ。だったら交換用のパウチを出しておく必要もない。つまりこれは被害者のものじゃないんだ」
「それは事実です。先ほど鑑識に確認したところ、パウチからは被害者以外の指紋が検出されたそうですから」
「まあ誰の物かはさっき確かめたんだけどね。パウチにちょっと泥を入れて見せつけることで」
さっき屈み込んでいたのはそのためだったのか。そして3人の中でエルのその行為を忌避した者がひとり。
「ねぇ息子さん、ぼくがこれ近づけたとき、なんで『汚い』なんて言ったの? ふつうの人はパウチのことなんて知らないよ?」
「いやそれは……、殺人の現場に落ちていたものなんて気味悪いじゃないですか」
「だとしても『汚い』とは言わない。本当はストーマのこともパウチのことも知ってるんでしょ? ひょっとしてストーマ患者なのかもね。だからうんこっぽいものが入ったパウチをつい避けてしまった」
エルの推測が図星だったらしく、被害者の息子は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙っている。
「もちろん指紋を照合すれば一発なんだけどね。で、そうなったときに言える? なんで自分があの場に居たのか。なんでパウチを落としていったのか」
「それは………………それは、父と揉み合ったときに落としたのでしょうね。動かなくなった父に動転して、回収することもなく逃げ出してしまいましたから」
男性が諦めたように言う。それは間違いなく自白だった。
居並ぶ刑事たちが軽く声を上げる。ついにエルが犯人を突き止めたのだ。
穴加部は内心ほっとしつつ、確認のため犯人の男性に事情を尋ねる。
「動機はやはり麻薬がらみということでしょうか?」
「そのようなものです。もう足を洗ったと言ったのに、再び麻薬売買に手を染めて……どうしようもない父親ですよ」
息子が怒りを露わに吐き捨てる。
「父も私も家族性の大腸ガンを患いましてね。ただでさえ前科者の父は収入が少ないところに、手術費用とストーマ用品の出費で生活は火の車でした。それでもアルバイトでなんとかやっていたのに……」
口調にだんだん熱がこもっていく。無表情だったのはこの感情を隠すためだったのか。
「最近妙に金遣いが荒くなったので、よもやと思い後をつけてみれば、こんな辺鄙なトイレに入るじゃないですか。それからトイレから出ることもなく何人もの人間がノックしては入っていく。これはもう麻薬取引を再開したのだと思い、ほかの客の真似をしてトイレに入りました。あとはもう取っ組み合いの大喧嘩ですよ。そして気づけば――父が血を流して死んでいました」
そのときの光景を思い出したのか、息子の顔がこわばる。
もみ合った末に頭を打ち付けて死亡させてしまったのだろうと穴加部は思った。
全容を語り終えた息子は痛恨の表情でつぶやく。
「これで私も殺人犯か……父と同じ、いや……それよりもあくどい…………」
「えっ? ぼく、殺した犯人が息子さんだなんて一言も言ってないよ?」
この場の全員が一様に驚く。当の犯人さえも。
穴加部が困惑を代表して尋ねる。
「ど、どういうことですか!? たったいま彼が犯行を自供したというのに……」
「それは――ああちょうど結果が出たみたい」
そこへ鑑識の人間がやってくる。
「穴加部。さっきの件だけどな。出たよ、血液反応。用具入れの扉とその下の床から。かなり念入りにふき取られていたようだが」
「やっぱりね。そうだと思ったよ。これで息子さんが殺してはいないことが確定だ」
エルは勝手に納得しているが、穴加部にはなぜそうなるのかさっぱり分からない。そもそも用具入れの扉を調べさせるように頼まれた理由も説明されなかったのだ。
「ぼくはこのトイレの常連なんだ。で、きばってるときは痛みをまぎらわせるために、トイレ中を見回して注意を向けられるものがないか探してるんだけど――まあ、そう代わり映えしないよね」
エルが唐突に排泄中の話を始めたので、穴加部は嫌そうな顔をした。
「そんな変な顔しないで? つまり、何かトイレ内で変わった箇所があればすぐ気づくってこと」
「それが用具入れだったということですか?」
「うん。扉の上部、それも縁の部分にへこみができてたんだ。昨日の朝も扉は見てたけど、へこみなんてなかった。この扉は壁に埋め込まれているから、よほどのことがない限り縁の部分がへこむなんてあり得ない。――どれだけ激しくもみ合ったとしてもね」
エルはちらっと犯人と指摘していたはずの息子を見やる。穴加部もつられて視線を移すと、思わぬ成り行きに複雑な表情を浮かべていた。
「この扉の縁がへこむとしたら、それはただ一つ。扉が開いた状態で上から固いものを叩きつけた。たとえば――被害者の頭蓋骨とか」
穴加部はさっき鑑識に依頼した理由が飲み込めた。扉のへこみが殺害の際についたことを確かめたかったのだろう。
そしてそれができるのは……。
「そうだよね、清掃員のお兄さん?」
いきなり振られた清掃員の男性は何も言わず堅い表情で応える。
エルの推理通りなら、開いた扉に頭を打ち付けることができるのは、用具入れの鍵を持っている清掃員しかいない。
「変だなぁとは思ってたんだ。ストーマパウチを持っていたなら当然その外し方についても詳しいはず。だけど死体のストーマの周りにひっかき傷があった。ストーマパウチは簡単には取れないよう、ストーマをはめる面板部分が皮膚に貼り付けられるようになっているんだけど、慣れてないと剥がしづらいんだよね。だからこう考えた。――ひょっとしてパウチを落とした人間とパウチを奪った人間は別なんじゃないか」
「ちょ、ちょっと待ってください。では私が父を殺したとき、まだ父は生きていたということですか?」
被害者を殺した(つもりの)息子が前のめりで聞いてきた。
「生きてなきゃ殺す必要ないでしょ? たぶん一時的に気絶してただけなんじゃないかなぁ」
「……………………当てずっぽう言ってんじゃねぇよ。俺にはあのおっさんを殺す動機がねぇだろうが?」
小太りの清掃員の口調があからさまに変わる。目には敵意が満ちているのが見て取れた。
しかしエルは物怖じすることなく、あっけらかんと言った。
「麻薬」
清掃員がぐっと詰まる。
「被害者が装着していたストーマパウチをなぜ奪う必要があったのか。それは中に入っていた麻薬が欲しかったから。でも取るときすっごい苦労したでしょ?」
思い当たる節があるのか、清掃員の男は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙る。
「さっきパウチを外すのは慣れてないと難しいって言ったじゃん? ゴム手袋をつけたままじゃ無理。素手で剥がそうとして何度かひっかいちゃったんだろうね。そして当然そのときに指紋もついたはず」
「た、倒れてるのを助け起こそうとしたときについたんだよ」
「嘘はいけませんね。先ほど聴取したときは触らずに通報したと言っていたではありませんか」
穴加部の指摘に男は舌打ちをする。
「それともう一つ。パウチの中身を取りだそうとしたのか知らないけど、中身が漏れて引っかかったみたい。ほらその袖口のやつ」
その言葉を聞いた途端、清掃員の男が袖口をぬぐおうと手を動かす。だがその動きは周囲の刑事によって封じられてしまった。
穴加部が男の袖口を見て嫌な顔をする。そこはうっすらと茶色いもので変色していた。
「うんこの成分は7割ぐらいが水分。残りは食べカスと腸内細菌、そして剥がれ落ちた腸壁細胞! 細胞ということはDNAが取れるよね? ねえ説明できる? 被害者のうんこが清掃員さんの袖口についている理由」
「ぐっ……く、くそったれが……」
あまりにも適切な悪態をつき、男はがっくりと首を落とした。
5
後日、男が自白した内容はこうだった。
「俺はあいつにヤクを卸してて、目立たない取引場所としてあのトイレをあてがってやったんだ。清掃員として様子も見に行けるしな」
あの日も同じように向かったところ、頭から血を流して座り込む被害者を見つけたらしい。
「何があったか聞いたらよ、いきなり手を引くと抜かしやがった。息子に叱られて取っ組み合いして目が覚めたんだと。――冗談じゃねぇ。前科持ちだってんだから卸してやったのに、いまさらカタギに戻るだぁ? 自首でもされて卸し元の俺までパクられちゃかなわねぇんでな、ぶっ殺すことにした。ありがたいことに、息子がお膳立てしてくれてたしな」
お膳立てというのは、息子と揉み合ったときについた頭部の傷のことだ。
「だが殺し方に困ってな。あのトイレの設備は角の取れた丸いものばっかりだからよ、殺すには何度も頭をぶつけなきゃいけねぇ。万が一、あの息子がパクられてゲロったときに頭の傷跡が余計に多かったらマズいだろ? だから最初の傷を上書きするように、一撃で殺らなきゃなんねぇ。んで、トイレの中で固くて角っこのあるもんを探したら、用具入れの扉しかなかったのさ」
「――ということだそうです」
穴加部は悼田エルに顛末を話しに来ていた。
「まあ売人はブランクがあるって息子さんから聞いたあたりから、麻薬を流した人間がいるとは思ったけど。――ところでその息子さんは?」
「お咎めなしとはいきませんね。怪我をさせたのは事実ですし、犯行を隠蔽しようとしたのもよくない。事情が事情ですから、そこまで重い罪になるとは思えませんが……」
とっさに事故に見せかけようとせず、素直に救急車を呼んで欲しかった。そうすれば父親は殺されずに済んだかもしれない。――あとトイレの現場に来なくて済んだ。
「それにしても今回の事件は、最初から最後まで……その…………」
「くそまみれだったね!」
エルがとびきりの笑顔で楽しそうな声を上げる。
穴加部がエルの元に来たのは事件解決の礼も兼ねてだったのだが、その感謝の気持ちが薄れかかってしまう。
「はぁ……とはいえ、ありがとうございました。早期に解決していただけたおかげでトイレ捜査を一日で終わらせることができましたし、卑劣な犯人を逮捕することができました」
「あれ、なんか刑事っぽいこと言ってる。潔癖性で事件をまともに捜査しなさそうに見えたけど」
意外そうにひどいことを言うエルに、穴加部は苦笑する。
「確かに私は汚い現場はできれば遠ざかりたいと思っています。ですが、それと同じくらい――汚い真似をする悪人が嫌いなのですよ。でなければこの仕事には就きません」
「なんかうまいこと言っててむかつくー」
「わっ、こら、やめなさい……メガネに指紋をつけない!」
本当に大学生なのかこいつは。
「よし、ぼくもお返し。あの日、最後に犯人は袖口についたうんこで追い詰められたじゃん?」
「…………………………だからなんですか?」
「これがホントのウンのツキ――うふっうふふふ」
公権力は拳骨を振るった。
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