第5話


 店内に入る。

 空調の効いた涼しい空気が、碧を包んだ。

「いらっしゃいませ」

 とお辞儀をした広瀬に続いて、碧もぺこりとお辞儀をする。

「うん。店内に入るときは、そうやって軽くお辞儀して、いらっしゃいませ、って言うようにね」

「はい」

 歩き出した広瀬に、碧も付いていく。

 バックヤードにいるときは小さくしか聞こえていなかった店内のBGMと、人の声が一瞬で耳に入ってきた。着ている服が違うからか、緊張しているせいか、客として来て見たことのある店内なのに、なぜか違った場所のように感じられた。

 ここが、今日から働く場所なのだ。

「うちの店、買い物には来たことあるよね」

「あ、はい」

 食料品の売り場を過ぎて、少し奥にあるのが飲料売り場だ。そこで立ち止まって、広瀬は「では…」と碧を振り向いた。

「アルバイトの子にやってもらうのは、基本補充の作業。売れてる商品を追加する仕事です。これはもう説明があったと思うけど、念のため」

「はい」

「では、問題です。うちの店で売ってる飲料、何種類くらいあると思う?あー…っと、お酒は除いて」

 え、と碧は慌てて周囲を囲むようにある飲料の棚を見渡した。色とりどりに並ぶ飲料ボトル。良く知ったものから、見たことのないパッケージのものも並んでいる。けれど、その数など見た目だけではまったく想像がつかなかった。

「あ…えっと……100、とか」

 妥当であろう数字を言うと、広瀬はじっと碧を見てから、ニッと少し悪戯そうな笑みを浮かべた。

「残念。その、2倍…いや、もっとあるかも」

「え??」

 碧はもう一度、周囲の棚を見渡す。倍以上ということは、200とか、もしかして300までいくとか…?驚く碧に、広瀬は「まあ、俺も正確に数えたことはないんだけどね」と続けた。

 それもそうだ、この量を前にして、何種類あるか数えてみようとは思わない。

「ん…そうだな。例えば、このお茶ね。同じメーカーの同じ名前の商品で、緑茶、ほうじ茶、濃い茶、プレミアム緑茶、玄米茶があります。これだけで、5種類」

「……」

「でー、こっちのジュース。飲んだことある?」

「はい」

「これも、同じ名前で、オレンジ、ぶどう、マスカット、桃、りんご……と、限定味、で、6種類」

 ということは、この二つの銘柄だけですでに十種類を越えている。ざっと商品が並んでいるのを見て、その種類に改めて驚いた。

「なので、商品名としては一種類なんだけど、その中にもまた種類があるというやつです」

 広瀬の説明に、碧はもう返事すらできず、ただ飲料の並ぶ棚を見据える。

 確かに、言われてみればだ。ジュースを前にして、家族や友人と「何味にする?」なんて話をしている事を思い出す。が、その時は自分が飲みたいものを選んでいるだけで、他にどんな味や種類があるか、その数まで気にしたことは無かった。

「あとは、サイズもあってね」

 キョロキョロと飲料の種類を眺めていた碧に、広瀬が続ける。

「サイズ?」

 また新しい単語が出てきたぞ、と碧は広瀬を見た。

「さっきのお茶でいうと、種類は5種類。その中でも、よく飲まれる緑茶とほうじ茶は、2リットル、小さめの250ml、あと缶もあるかな」

 入ってくる情報量が思った以上に多いではないか。メモ帳の一つでも持ってきた方が…と一瞬思ったが、メモしたところで覚えられる気がしない。

「覚えようとしなくていいよ。そのうち自然に…嫌でも覚えるから」

 また思っていることが顔にでも出ていたのか、広瀬はそう言って、大丈夫だよ。と付け加えた。

 覚えなくても自然に覚える…というが、本当に?これ全部を嫌でも覚えられるのか?

 不安しか無い…と心の中で呟く。けれど、バイト先をここにしたいと思ったのは自分で、いまさら「大変そうなのでやめます」なんて、そんな責任感の無いことをいうわけにもいかない。

 夏場で、店内は空調が効いていて涼しい。けれど、じんわり背中が汗ばむのを感じた。

「じゃあ、作業内容を具体的に説明させてもらうね」

 作業しながらの方が覚えられるからね、と広瀬は優しい口調で告げ、碧を棚の端に誘導した。

「まずは基本のメンテナンス作業」

 これが一番簡単かな、と広瀬はい言う。

「お客さんって、当たり前だけど手前の商品を取るでしょ?だから、手前からどんどん減っていって、だんだん奥の方に手を伸ばさないといけなくなる。だから、奥の商品をこうやって……手前に持ってくる。これで、またお客さんが取りやすくなる」

 ね、と、実際にショーケースの奥に固まっている商品を手前に出す作業をしてみせた。

「あと、手前にあると、遠くからでも「あるな」っていうのが分かる。奥だと、近づかないと商品があるかないか分からないこともある」

「はい」

「基本的なことだけど、一番大事なことだから」

 碧は説明をしてくれる広瀬の横顔を、じっと見た。先ほどまで柔らかかった目元が、仕事の説明をはじめてくれた頃から変わっている。表情は優しいが、その目つきは真剣そのものだ。こちらも、きちんと話を聞かなくてはという心持ちにさせられた。

「で、次の大きな作業が補充ね。少なくなってる商品を補充する、これも単純作業」

 広瀬はきょろきょろと商品棚を見渡して、ひとつ段ボールの箱を棚の下から出し、箱を開ける。

「これを、同じ商品の場所に並べていく作業。ただ、飲み物なので賞味期限があるから……ここ、この数字を確認して、新しいものを奥に入れる。一緒なら、手前に置いても大丈夫」

「わかりました」

「ただし、あっちの冷蔵のケースに並べるときは、賞味期限一緒でも奥に並べること」

 冷えてるものが飲みたいのに、取ったらぬるいのはゴメンだろ?と言われて、確かに。と頷く。すぐに飲まないのなら常温のものを買うのでも問題はないが、すぐに飲みたいとなると冷えているものを選ぶのは当然の話だ。

 広瀬の話を納得しながら聞いていると、広瀬が「でもさー」と、少しだけ不思議そうな声で言う。

「でも、たまにいるんだよねー。わざわざ奥のを選ぶ人」

「へぇ……」

 広瀬は碧を見て、小首を傾げてみせた。

「ね。奥のが新しいと思うのか、冷えてると思うのか…。まあ、冷えてるかどうかは、触ったらわかることなんだけどね」

 なるほどと思いながら、碧はふと母親の買い物姿を思い出す。調味料や保存食など、すぐ食べないものに関しては、確かに母親も奥の方の商品を取っていることがある。あれは、奥の方が賞味期限が長い事を知っているからの行動だったわけだ。

 すぐに食べる物や飲む物を買うだけの碧には、これまで縁がなかった事かもしれない。

 広瀬は碧に売り場での作業を一通り説明すると、最後に、と言葉を続ける。

「これは、作業しているとき、していないときに関わらず、とっても大事なこと。いい?」

 ちゃんと聞いて、と言わんばかりの口調に、少しだけ緩んでいた背筋を伸ばす。いままでも大事そうなことは沢山言われた気がするが、作業をしていないときにも大事だというからには、少し種類の違う話かもしれない。

 碧は、話を続ける広瀬をじっと見て、言葉を待った。

「仕事してると、少なからずお客さんに声かけられて聞かれることがあります」

「あ……」

 目を見開く。

 広瀬に言われ、それまですっかり忘れていたことを思い出す。スーパーは小売業だが、接客も伴うことは面接の時に話を聞かされていたではないか。他の仕事の説明を頭に入れていくのにいっぱいで、その事を今の今まで失念していた。

「例えば、この商品の在庫があるかどうかとか、そもそも、これを探してるんだけどどこにあるか、とか」

 飲料の売り場にいるからといって、聞かれるのはその事だけではないと、広瀬は言う。そんなことを言われても、この数の飲料すら覚えられる自信がないのに、他のことまで聞かれてうまく応対できるのだろうか。

「もちろん、分からないのは仕方ない。けど「分かりません」はダメ。じゃなくて「お待ちください」って、ちょっと待って貰う。で、近くに俺がいたら声かけて。いなかったら他の従業員の人でもいいし探して。で、本当に誰も見当たらなかったら……」

 こっち、と広瀬は碧を飲料売り場の角にある柱の方に案内した。

「これね。この柱に内線が付いてるから、受話器外してもらって……」

 横に内線番号一覧が掲示されている。個人の名前は記載されていないが、飲料担当と書かれた横の番号にかければ、広瀬の持っている内線に繋がるらしい。

「焦らなくて大丈夫だから。牧野くんの姿見たら、お客さんも「アルバイトの子だな」って思って、声かけてくれると思うし」

 そこまで怖がったり、緊張したりしなくて大丈夫だから、と、広瀬は念を押すように言った。良くネットとかで取りだたされるような、いわゆる”カスハラ”行為をするような迷惑客は、そうそういないから、と。

「バイトも初めてで不安なこと多いと思うけど、大丈夫。そのために、俺とかがいるから」

 ね、と、広瀬は黙ってしまった碧の肩をポンと優しく叩いた。

 顔を上げて目が合った広瀬の眼差しは、また最初の、優しいものに変わっていた。にこっと笑うと、目尻が下がるんだな、とどうでもいいことを思う。それが、多分安心感をもたらしてくれるのかもしれない。

 広瀬は「さて、」と呟くと、腕時計を見た。

「じゃあ、そろそろ作業お願いします。最初に言った、メンテナンスを端から進めておいて。俺は一旦事務所でパソコン仕事してから、戻ってくるし」

「はい」

 よろしくね、と広瀬は言うと、くるりと踵を返して、少し早足に通路を歩いて行った。

 ……一人になった。

 とたんに、少しだけ心細くなる。隣で説明してくれていたときに感じた居心地の良さも、一瞬にして無くなってしまった。けれど、これからはこの状況が普通になるわけで。

 気持ち新たにしている碧の横を、カートを押した女性客が通り、目の前の飲料を手にしてカゴに入れた。

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