グラスを満たす恋

冰佑きさ

第1話

 授業が終わると、急いで帰り支度を整えて昇降口に急ぐ。靴を履き、駐輪場まで向かう足取りが、知らず小走りになった。荷物を前かごに放り込むようにして入れ、ヘルメットを被って自転車に跨がる。すれ違う同級生たちが「じゃあなー」「ばいばい」と声を掛けてくるのに「また明日-」と返事をしながら、ペダルをぐっと踏み込んだ。

 新学期が始まって、もうすぐ二週間。

 今年の桜は早くて、始業式や入学式の頃にはもうほとんど散ってしまった。まだ四月だというのに、日中汗ばむことがある日もあって、初夏といっても良いのではないかと思うこともある。

 そして、とうとう訪れてしまった高校三年という節目の年だ。新学期早々、受験という言葉がまことしやかに飛び交っているのを、まだ少し他人事のように聞いている。

 希望の大学に受かるため、勉強に力をいれるために塾の時間を増やす者、あと数ヶ月しかできない部活に全力を注ぐ者。高校三年という年のスタートを、各々が方向性を考えて舵取りしていく季節。

 周囲がそんな状況の中、牧野碧まきのみどりにとっての優先順位は勉強でも部活でもなく、アルバイトだった。

 学校から自転車を走らせること五分足らず。

 目と鼻の先にある地元では比較的規模の大きいスーパーが、碧のアルバイト先だ。夕暮れ時、仕事帰りなどで夕飯の買い物に来ている人が増える時間帯。駐車場の出入りも少し多い。

 そんな様子を横目にしつつ駐輪場に自転車を停め、従業員入り口へ小走りに向かった。

 扉を開け、警備員口の横で入店名簿を書くと、その先の事務所へ。時計を見ると、タイムカードを押すにはまだ少し早い時間。先に着替えをしてから…と、ロッカールームへ向かった。

 ドアノブに手を掛けようとしたところで、扉の方が勝手に開く。危ね…と、一歩下がって待っていると、中からその人は姿を見せた。

「お」

 碧の姿を認めて、笑う。

「あ!お疲れ様です!」

 思わず、声が高くなった。なんという嬉しいタイミング。出勤して真っ先に会えるだなんて、今日は運がいい。

「お疲れ様。今日もよろしくー」

 言って軽く手を挙げ、売り場の方に向かっていく。その後ろ姿を見送り、今日も頑張ろうと意気込んでロッカールームに入った。


 着替えを済ませ、タイムカードを押し、今日の業務を確認する。

 碧が担当しているのは、飲料コーナー。乱れている売り場を修正したり、減っている商品をバックヤードから運んできて補充する。単純な仕事ではあるが、飲み物なので賞味期限に注意を払うことも必要だし、何より体力も必要となる。2リットルのペットボトルなら6本、500mlなら24本が、基本的に一ケースに入っている数量だ。それをバックヤードから台車に移して運び陳列する作業は、思った以上に力仕事だった。

 最初は何から手をつければいいのか分からなかったが、バイトをはじめてもうすぐ2年。今ではもう慣れたものだ。

 薄くなっている商品をメモしていると、

「牧野くん」

 呼ばれて「はい!」と返事をする。

 声のした方を見れば、台車を引いてその人は碧に近寄ってきた。出勤して一番最初に会えた、嬉しい人。

 広瀬芳之ひろせよしゆき

 この店の飲料売り場を担当している社員で、27歳。

「ごめん。補充より先にこっちの作業してもらっていいかな。昼間のパートさんが休みになっちゃって、終わってないんだ」

 こっち来て、という広瀬の後ろをついて行く。

 今日は、ラッキーかも知れない。思わずニヤけそうになってしまうのを、深呼吸して落ち着かせる。バイトをはじめた頃は、出勤すると常にこうして説明をしてもらっていたが、それもひと月しない内に無くなった。当初、同じような説明を何度もしてくる広瀬に対して、面倒くさいと思っていた自分を殴りたいと思う。あんな貴重な時間、いま戻れるなら戻りたいところだ。

「……で、この並びで。商品これだけだから、全部出して貰っていいし」

 広瀬が伝える作業内容を復唱しつつ、頭の中で行程を考える。

「あ、ケース売りは無しで?」

「お、そうだった。一番下にケースも置いといて。各種、一箱ずつでいいから。バラは、今回冷蔵には並べない予定だし…」 

 そこまで言って、あー…と広瀬は少し考え、どうしようかな…と呟いて、人差し指で自分の鼻の頭をとんとんと叩く。少し悩んだときとか、考えるときにする、広瀬の癖だ。

「いや、取りあえずいいや。さっき言った手順で。冷ケースの件は、ちょっと考える」

 そう言って、広瀬は碧の方を向いた。

「何か分からないことあったら、声かけて。今日は、お酒売り場の新商品並べたりしてるから、近くにはいるし」

「はい」

 返事をすれば、広瀬はにっと笑う。

「ま、心配もしてないけどな」

 ぽん、と肩を叩いて、広瀬は「さ、働くかー」と、自分の作業に向かって行った。

 叩かれた肩が、じんわりと熱を持つのを感じる。自分に向けられた表情や言葉が、ゆっくりと脳裏で繰り返される。

 バイトが終わるまでの3時間。今日はどれぐらい、あの人と関わることができるだろうか。もしかしたら、広瀬の業務次第では、この後帰るまで一度も会えない可能性だってある。けれど今日は、この作業を任されたから、きっとこの後も話をするタイミングはあるはずだ。

 そして、こうして作業を任されるのは、頼られているからだと思っている。ならば、頼りにしてもらえているその期待を裏切るような仕事はしたくない。ありがとうとか、助かったとか、そう言ってもらいたいし、笑顔を見たい。

 碧は作業用の手袋をはめ、台車に乗せてある飲料の箱に手を伸ばした。ふと広瀬の声が近づいてきて顔を上げれば、電話をしながら歩いてくる姿。目が合ってしまった瞬間、広瀬が片手を挙げて「よろしく」と唇を動かした。

 それだけで、心臓がはねる。


 広瀬芳之という人が、好きだ。

 それが、いま碧のすべてといっても、過言ではなかった。


 

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