第2話「美しき誘い」


「美しくなりたいですか?」


目を覚ますと、額に冷たい汗が滲んでいた。三日目。あの美術館を訪れてから、毎晩同じ夢を見るようになった。


白いワンピースに身を包んだ少女——幽靄が、深い森の中で私を待っている。彼女の周りには靄がかかったように光が揺らめき、その姿は儚げで、それでいて妖しい魅力を放っていた。


「芹沢さん、あなたも私のように...」


目覚めはいつも、彼女のその言葉の途中。


「もう朝か...」


スマートフォンの画面に目をやる。午前5時47分。まだ外は暗い。鏡に映る自分の顔は、まるで別人のように憔悴していた。


そこで、私は息を呑んだ。


鏡に映る自分の横顔が、一瞬だけ別の誰かの影と重なったような気がした。黒髪の少女の面影が、かすかに。


「気のせい、よね...」


シャワーを浴びて気を取り直そうとしたが、浴室の曇ったガラスに浮かび上がった水滴の跡が、どこか人の横顔のように見えた。慌てて手で拭うと、それは消えてしまう。


「取材、まとめないと」


PCに向かい、美術館での体験をまとめ始める。しかし、画面に映る文字が、時折歪んで見えた。まるで誰かが後ろから覗き込んでいるような不安感。振り返っても、そこには誰もいない。


カフェで気分転換をしようと外出した。店内の大きな窓に、街行く人々が映り込んでいる。その中に、白いワンピースの少女が...いや、それは通りを歩く女子高生の制服だ。


「千尋さん?」


声をかけられて飛び上がりそうになった。振り返ると、浅田係長が立っていた。彼の顔は昨日より一段と疲れているように見える。


「浅田さん...どうしたんですか?こんなところで」


「実は...話があって」


彼は周囲を警戒するように見回してから、小声で続けた。


「あの日以来、何か変わったことは...?」


その問いに、私の背筋が凍った。


「夢を、見ませんか?白いワンピースの...」


彼の言葉を遮るように、店内のBGMが急に大きくなった。そして、スピーカーからは音楽ではなく、かすかな少女の笑い声が。


私たち以外の客は、気付いていないようだった。


「ここではまずい」


浅田係長は慌てて席を立つ。私も彼に続いて店を出た。


「実は、私も見てしまったんです」


雨の降り始めた通りを歩きながら、浅田係長は話し始めた。


「あの図録のページを。でも私の場合は...」


彼は袖をまくり上げた。腕には無数の細かい傷跡。まるで誰かの爪で引っ掻かれたような。


「これは一晩で。寝ている間に、自分で掻きむしったんです。夢の中で彼女に『もっと美しく』と囁かれて...」


その時、私たちの目の前を一台の救急車が通り過ぎた。けたたましいサイレンの音に、思わず耳を塞ぐ。


「あの肖像画には、昔から噂がありました」


雨脚が強くなる中、浅田係長は続けた。


「大正時代、若くして亡くなった令嬢の肖像画だと。死の直前に描かれたものだそうです。でも不思議なことに、画家の名前も、モデルとなった令嬢の素性も、記録から完全に抹消されている」


「抹消...?」


「ええ。まるで誰かが意図的に消したかのように」


雨の音が激しくなり、浅田係長の声が聞こえづらくなってきた。傘もささずに立ち尽くす私たちの周りを、人々が慌ただしく行き交う。


「でも、ある記録だけは残っていた」


彼は震える声で言った。


「その令嬢は、死の前日に美人コンテストで優勝したそうです。しかしその夜、何者かに顔を...」


突然、私の視界が歪んだ。目の前の景色が、まるで水彩画のように滲み始める。


そこに浮かび上がったのは、白づくめの少女の姿。彼女は雨の中、にっこりと微笑んでいた。その顔は美しく...その左半分が、激しく引き裂かれているように見えた。


私は思わず悲鳴を上げそうになった。しかし声は出ない。


「芹沢さん!?」


浅田係長の声が遠くなっていく。視界が暗くなり、意識が遠のいていく。


倒れる直前、確かに聞こえた。


「あなたなら、きっと分かってくれる」


少女の声が、優しく私の耳元で囁いた。


「美しくなることが、どれほど残酷なことか」


意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。点滴の滴る音が静かに響いている。


「気がつきましたか」


駆けつけた母の顔が、心配そうに覗き込んでくる。


「お母さん...」


「急性の貧血だそうよ。あなた、最近ちゃんと食べてた?」


確かに、ここ数日ろくに食事を摂っていなかった。いや、正確には——摂れなかった。食事をしようとすると、箸で掴んだ料理が人の指のように見えたり、スープに顔が浮かび上がったりと、異常な幻覚に悩まされ続けていたのだ。


「それより千尋、その傷...」


母が指さす方向を見ると、左腕に見覚えのない引っ掻き傷が残っていた。五本の爪跡——人の手によるものとしか思えない傷跡。


「これ、私...」


「昨夜の夢の中で、あなたが自分で掻きむしってたのよ」


母の言葉に、背筋が凍る。私は夢の中で、確かに誰かに「もっと美しく」と囁かれ続けていた。その声に導かれるように、自分の肉を削ぎ落としていく夢。その下から、真珠のように美しい肌が現れる夢。


「実はね、千尋」


母が重い口調で話し始めた。


「二十年前、私も同じ経験をしたの」


「え...?」


「あの美術館で、白いワンピースの少女の肖像画を見て...」


その時、病室のドアがノックもなく開いた。


「失礼します。芹沢さんの検査結果が出ましたので」


白衣を着た女医が入ってきたが、その姿を見た瞬間、私は悲鳴を上げそうになった。


彼女の顔が、幽靄の顔と重なって見えたのだ。


「先生、ちょっと待って...」


母が制止する間もなく、女医は私のベッドに近づいてきた。その手には注射器。中の液体が、真っ赤に光って見える。


「これで、あなたも美しくなれますよ」


女医の声が、少女の声と重なった。


私は咄嗟にベッドから転がり落ちるように逃げ出した。


「千尋!」


母の叫び声。振り返ると、そこには普通の女医が困惑した表情で立っているだけだった。注射器の中身も、ただの透明な液体。


「すみません...私、ちょっと」


病室を飛び出した私は、無我夢中で走った。廊下の壁に並ぶ窓すべてに、私の姿が映り込んでいく。いや、それは私だけじゃない。私の影に重なるように、白いワンピースの少女の姿が。


エレベーターに飛び込み、ボタンを押す。扉が閉まる直前、廊下の向こうに母の姿が見えた。その後ろで、黒髪の少女が手を振っている。


「はぁ...はぁ...」


1階に着き、病院を出る。真夏の日差しが眩しい。汗が噴き出してくる。


スマートフォンを取り出すと、浅田係長からの着信が10件。そして一通のメッセージ。


『至急お会いしたい。大正時代の新聞記事を見つけました。この呪いを解く鍵があるかもしれない。美術館の近くの喫茶店「バラ園」で待っています』


メッセージの最後に添付された画像を開く。それは古ぼけた新聞のスクラップ。かすれた活字で、こう書かれていた。


『第七回市営美人コンテスト優勝者 悲劇の死を遂げる』

『美貌の令嬢、何者かに襲われ失踪 遺体で発見』

『容疑者の女性たち、動機を問われ一様に告白「私たちも、彼女のように美しくなりたかった」』


その記事の横には、白黒の写真が。上半分は破れているが、そこに写る少女の微笑みは、紛れもなく幽靄のものだった。


「美術館まで、タクシーで15分...」


私は決意を固めた。この呪いの正体を、この目で確かめなければ。


そう思った瞬間、スマートフォンの画面が急に歪んだ。真っ黒な画面に、一行のメッセージ。


『あなたはもう、私から逃れられない』


見上げると、目の前の雑踏の中に、白いワンピースの少女が佇んでいた。彼女は人混みの中でただ一人、こちらを見つめ、ゆっくりと右手を上げる。


血の気が引く。彼女の手には、寄せ集めた髪の毛で作られたような、おぞましい造りの人形。


それは、紛れもなく私に似ていた。

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