消失点には君がいる。(5/6)
ある日、絵から彼女が消えた。
夏も終わりに差し掛かった頃、いつも通り仕事から帰ってくると、なんとなく視線を向けた絵から、彼女は既に姿を消していた。
覚悟はしていたから、慌てふためくことはなかった。いつか訪れる日が、たまたま今日だったというだけのこと、今さら騒ぎ立てるような恥ずかしい真似はしないつもりだったのに、いざその日が訪れてみれば、胸中穏やかにはできなかった。
自分が悪いから、自分に望む権利などないから、自分の欲望が相手を傷つけるから、そう頭では理解して納得していた。身勝手な感情を排し、理性的に解決したつもりだった。彼女との関係と共に、俺のこの長い長い言い訳も終わらせるつもりだった。
___それなのに。
湧き上がってくるこの感情はなんだ?
全て取返しのつかなくなった後だというのに、俺の心はこれ以上何を訴えようというのか。わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
行き場のない感情が俺の体中を駆け巡る。頭は割れるように痛み、全身の血液が沸騰してしまったかのように心臓が跳ねた。決壊したダムの如く感情は吐き出されていくのに、俺の肉体はそれを容赦なくせき止め、着々と滞留させていく。
やがて、狂ったように湧き上がるその感情が自分に対しての嫌悪感だと理解した。人を忘れたくない、人に忘れられたくないくせに、俺は今、積極的に彼女のことを忘れようとしている。
相反する二つの願い、そのどちらもが本物の感情だった。だから両者は互いに衝突し、せめぎあい、どちらを信念とすることも許さず、どっちつかずの俺を卑怯者と嘲った。
体の火照りが俺は俺自身が怒っていると錯覚させた。溢れるエネルギーは目の前の風景画への憎悪に変換された。
手が、震えた。今すぐこのストレスを発散したかった。
思わず振り上げた拳が、何の罪もないその絵を突き破って___。
___瞬間、俺の腕は何の手応えもなく目の前の絵画をすり抜け、勢い余った俺は、状況を理解できぬまま、絵画の中へ吸い込まれてしまった___。
**********
眩しい。そして暖かい。
気がつくと、突き抜けるような青空の下、俺は無数の向日葵に挟まれた道のど真ん中に突っ立っていた。
そして。
目の前には一人の少女が立っていた。
___。
少女の口元が動いた。
それは音にはならなかった。
しかし、俺には彼女が何を言ったかが理解できた。
理屈ではない。摩訶不思議な、超常的な力がそれを実現させた。
彼女は俺に背を向け歩いていく。
麦わら帽子に手を当て、白いワンピースをひらひらさせながら、ゆっくり去っていく。
俺の足は植物のように地面から張り付いて離れない。
俺は声を上げようとした。
それでも、どれだけ叫んでも、俺の思いが音になって響くことはなかった。
そして俺は彼女を見送った。
不意に意識が遠のき、思考が空白で埋め尽くされそうになった瞬間、彼女の言葉がフラッシュバックした。
___この先で待ってる。
彼女は確かにそう言っていた。
**********
暗い。そして肌寒い。
気がつくと、日はすっかり暮れていて、俺は自室に一人倒れていた。
一定のリズムを無機質に刻む部屋の掛け時計が、俺が今現実にいることを理解させた。
胸を渦巻いていた感情も、どこかへ行ってしまったようだった。
今はただ___。
___ただ、切なかった。
静かに肩を震わせる俺を、月明かりと、一枚の絵画だけが見守っていた。
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