消失点には君がいる。

霜月 一

消失点には君がいる。(1/6)

 ある日、絵を買った。


 俺は、別に芸術に興味があるわけじゃない。だから、美術館に足繫く通ったり、週末にスケッチに出かけたりはしない。当然、絵を買ったことなど、あの日までただの一度もなかった。


 じゃあ、なぜ買ったのか、それを考えてみても、困ったことに自分でもよくわからない。強いて言うなら猛烈に欲しくなったから、か。


 しかしながら、あの日の俺は欲しがったが、その前の日の俺だったらどうだろう、その次の日の俺だったらどうだろう、自分のことながら、必ずしも欲しがったとは言い切れない。


 魔が差した、とも言えるだろう。俺が絵を買ったのは、それほどまでに衝動的な出来事だった。


 思い返せば、あの日の俺はどうかしていた。疲れていた。頭がおかしかった、とまでは言いたくないが、きっとそれに近い状態にあったに違いない。


 社会人二年目、未だ慣れない外回りで気が滅入っていた初夏の暮方、偶然通りかかったアーケード街で、それに出会った。


 あちこちに立ち並ぶカラフルで派手な看板と対照的に、落ち着いていてどことなく歴史を感じる建物。その建物は、明らかに周りの雰囲気から浮いている、浮いているのに意識しなければ気づかず素通りしてしまいそうな程、日常の中に上手く溶け込んでおり、良く言えばシック、悪く言えば地味で陰気くさい。重厚感のある木製の扉には『OPEN』の文字が書かれた札が掛かっていて、辺りをコーヒーの芳醇な香りが漂っている。その場所が喫茶店であることに気づくのに時間は要さなかった。


 一服して仕事の疲れを癒そうと思ったのか、はたまた周囲の暴力的な色彩の看板の群れから逃れようと思ったのか、俺は流れるように店に入っていた。普段の俺なら仕事終わりに寄り道などしない。その時はなぜ違ったのか、それは今でもはっきりとはわからない。ただなんとなく、だ。


 少し暗い店内は夕日に染まって暖かな色味を帯びていて、カウンターの向こうでは柔和な笑みを浮かべた初老の店主が雑誌をめくっていた。


 とりあえず俺はカウンターの一席に座り、ざっくりとメニュー表に目を通してコーヒーを注文した。店主は黙ったまま首を縦に振り、ゆっくり立ち上がった後、手元をかちゃかちゃと動かし始めた。


 その間に俺は店内を見渡した。店主は熱心な絵画の収集家なのか、店内のいたるところに厳かな人物画や、綺麗な風景画が飾られており、静かな店内を賑やかに彩っていた。その中で一枚だけ床に置かれたうえに、紺色の布に覆われた絵があった。これだけたくさん絵があれば一枚くらいそういうものもあるのだろう。


 俺は別に気にも留めず提供されたコーヒーを一口だけ啜ると、疲労した肉体に温もりが伝わっていくのを感じた。ぼんやりとたまには寄り道も悪くないと思った。俺は残ったコーヒーにガムシロップとミルクをありったけ注いで一気に飲み干した。店主の表情は終始変化しなかった。


 もとより長居する気は無かったので、代金を払ってさっさと店を後にしようとしたとき、ちょうど別の客が店の扉を開いた。爽やかな風が店内に吹き込み、それと同時に一枚の布が俺の視界に飛び込んだ。ふと目をやると、あるべきはずの場所にその布はなく、代わりに一枚の絵が露わになっていた。


 白いワンピースの少女と向日葵。堂々と咲き誇る大輪の向日葵たちが、頭に被ったリボンつきの麦わら帽子を手で押さえる少女を取り囲んでおり、夏特有の深い青の空には巨大な入道雲が浮かんでいて、文字通り絵に描いたような、理想と妄想をそのまま具現化したような、人間の本能に刻み付けられた等身大の夏がそこにはあった。


 俺は自然とその絵に引かれた。あるいは惹かれた。無意識的に近づいていた。有名な短歌に空に吸われる、という表現があったが、その絵はまさしく俺を吸い込んだ。


 近くで見ると余計にその絵の魅力に圧倒された。ワンピースの皺の一つ一つから、向日葵の種の一粒一粒まで、その描き込みの緻密さに惚れ惚れした。描き手の熱量がひしひしと伝わってきた。


 しかし、一番衝撃的だったのは少女の表情だ。醜悪からは程遠い、清廉潔白で純真無垢を体現した少女が浮かべていたのは、年相応の弾けるようなあどけない笑顔ではなく、こちらを慈しむような安らかな微笑みだった。日焼けか、逆光か、帽子の陰か、あるいはその全てのせいか、遠くからは見にくかったその顔から、俺は一種の美しさを感じ取った。


 ___白状すれば、きっとそれは一目惚れだった。


 絵の中の少女に現を抜かした、というと障りがあるから、せめて美術品の収集家の仲間入りしてしまった、ということにしておくが、何を思ったのかあの日の馬鹿な俺はこんなことを抜かした。


「この絵を買わせてくれ」


 人目も忍ばず、柄でもない大声をあげて俺は頼んだ。


 店主は一瞬目を見開いて驚いた表情を見せたが、少し考え込んだ後、それを承諾した。ただ、お代はいらない、と言った。値打ちがつくような代物ではないから、と。


 意外な回答だった。自分で頼んでおいて気が動転してしまった。ゆえに、その後のことはグダグダだ。


 買う側の人間は何度も値段の確認を取り、売る側の人間も律儀なことにその度に無料だと言った。あまりにそのやり取りを繰り返すものだから、最初は単純にだったのが、最後の方は明確にと認識されていただろう。


 結局タダはまずいから、と言い張ってそのとき偶然財布に入っていた一万円札をカウンターに置いて、逃げるように店を後にした。


 挙動不審な成人男性が、両手で額縁のないむき出しの絵画を抱え、小走りで店を飛び出る様を考えると、絵の題材も相まってあらぬ誤解を受けそうだが、お金を押し付けて一方的に持ち去ったようなものであるから、強ち誤解とも言い切れないのが本当に笑えない。


 断言する。俺は負い目を感じていたから走っていたわけではない。夕立の心配をしていただけだ。断じて。

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