2025🐾野栗が質問・インタビュー企画にのったじょ

野栗

従軍慰安婦/戦時性暴力被害者——戦後80年について あなたの経験を(蓬葉 yomoginoha様企画 2025.8.15)

「誰のために死んだのか 大義名分何ゆえに どこへ行っても知らん顔 誰に聞いてもわからない!」

傷痍しょうい軍人、従軍慰安婦、松代まつしろ大本営」


 仮設の狭いステージでひとしきり叫ぶように歌ったボーカルが、つめかけた人々に向かって語りかける。


「……おばあちゃんは本当に耳が遠かった。日本軍の兵隊にぶん殴られ過ぎて、おばあちゃんは耳が聞こえない」

「背中には刀の傷、腕には「金子かねこ」という入墨いれずみ……おばあちゃんは俺にこう言っていた。あんたらの娘さんたちに、私と同じ思いをさせたくないと、おばあちゃんは俺に言ってた!」


 再びギターを荒々しくかき鳴らし、ボーカルが叫ぶ。


「戦争はまだ終わっていない!」


 在日コリアン二世のロックミュージシャン朴保パクポーの『傷痍軍人の唄』を聞いたのは、いつのことだったろうか。


 戦後80年。

 「戦争はまだ終わっていない」——毎年8月がめぐってくるたび、多くの人の口から語られ続けた、使い古されたメッセージ。

 8月は戦争の惨禍に思いを馳せる季節だ、などという文脈で言われたら、ちょっとおなか一杯だとさえ感じるこの言葉。


 朴保の渾身の叫びは、私の身体をまっすぐに貫いた。



 私につながるいのちの連なりの中に、戦時性暴力被害者——従軍慰安婦が介在していたことを知ったのは、21世紀に入ってまもなくの頃だった。


 私は徳島県で生まれた。

 学生時代、自分の祖先の中に、徳島市内で「常盤楼(仮名)」という大きな妓楼を経営していた一家がいたと初めて聞いた。山口瞳の小説『血族』を彷彿とさせるその事実は、成人を迎えたばかりの私に強烈な衝撃を与えた。


 就職して数年、久しぶりに徳島の親戚の家を訪れた。年老いた伯母と夜が更けるまで語り合う中で、常盤楼の話が出た。

 伯母によると、昭和15(1940)年頃、常盤楼の楼主は女たちを船に乗せ、中国大陸進出を図った。昭和12(1937)年に勃発した日中戦争で拡大していく前線の将校や兵士相手の商売で一獲千金を狙ったという話だった。


 行先は中国大陸の徐州。


 昭和13(1938)年——日中戦争勃発の翌年、日本軍は「徐州会戦」の末に徐州を占領した。

 鼻の利く楼主は徐州で稼ぐだけ稼ぐと、戦局が悪化する前に女たちを連れ、無傷で徳島に舞い戻った。

 その後、昭和20(1945)年7月4日の徳島大空襲で常盤楼は全焼した。


 伯母の話は以上だ。


 常盤楼と同じことを考えた楼主は、間違いなく少なくなかっただろう。

 私の祖先のように目端の利く楼主ばかりではなかったろう。

 韓国の元慰安婦のハルモニ(おばあさん)の証言の中には、敗戦後、自分や仲間がアジア各地の前線に置き去りにされたという話が数多くある。常磐楼の場合は戦局が悪化する前に引き上げたので修羅場をくぐるようなことはなかったが、同様の状況におかれた日本人慰安婦もまた、相当の数に上るであろうということは、想像に難くない。


 韓国の元慰安婦、故・金学順キム・ハクスンさんが、日本軍性暴力被害者として初めて自らの名前と顔を出して名乗りを上げ、日本政府に対する訴訟を起こしたのは1991年。フィリピン、台湾、中国、オランダ、在日コリアンの元慰安婦も沈黙を破り次々に声を上げ、謝罪と補償、そして自らの尊厳の回復を求めて裁判闘争に踏み切った。


 一方、相当数に上ると思われる日本人慰安婦で、自分の本名を出して名乗りを上げ、日本政府の責任を問う人は、まるで消しゴムで消されてしまったかのように見えてこない。


 日本人慰安婦で真っ先に思い浮かべるのは、千葉県の婦人保護施設「かにた婦人の村」で暮らした故「城田すず子」さんと、「かにた」の丘の上にそびえる「ああ従軍慰安婦」の碑の存在だ。貧困と差別の中で性産業に追いやられ、慰安婦として南方戦線を渡り歩き、戦後も性産業の中で塗炭の苦しみを余儀なくされてきた彼女の証言がまとめられた本が出されたのは1971年にさかのぼるが、「進歩的勢力」を含め、この証言に注目した日本人はあまりにも少なかったのではないだろうか。

 「城田すず子」は仮名である。この国の、性産業に追いやられた女性への抜きがたい差別が終生にわたって彼女の本名を奪った。彼女以外の日本人慰安婦による証言は、信じられないことだが、片手で数えられるぐらい僅かだ。

 この事実は、全ての日本人が自らに問わなければならない課題だ。


 植民地下・日本支配下の国や地域から「生娘」をさらうようにして前線に送り込み性暴力にさらす非人道性と、貧困によって自らの性を売らなければならないところまで追いやられ、前線に流れ着いた日本人慰安婦の被ってきた不条理。


 『黒川の女たち』というドキュメンタリー映画が話題を呼んでいる。

 1945年8月9日。山間部の寒村から入植した満蒙開拓団の村々に、ソ連兵が攻め込んできた。集団自決を回避する代償に取られた手段は、開拓団の若い女性をソ連兵に差し出す「性接待」だった。

 長年の沈黙を破った性被害者が自らの顔と名前を出して証言を始めたのは2013年。金学順さんが名乗りを上げた、22年後のことである。

 命からがら帰郷した彼女たちを待っていたのは、同郷の男たちの口から投げつけられる「穢れた女」「恥さらし」という暴言だった。酷薄な差別が彼女たちの尊厳をずたずたに傷つけてきたのだ。

 

 未だに、慰安婦は商売女だ、謝罪も補償も必要ない、と性暴力被害者たちを貶める言辞が、ネットでもリアルでもなくならない。彼女らの口を塞ぎ、その尊厳を毀損する暴力に、何としても抗っていかなければならない。


 何よりも、傷つけられた側が苦しみに満ちた過去を断腸の思いで語り、彼女たちに性暴力の限りを尽くした日本兵・ソ連兵、差別に満ちた暴言で戦後の彼女たちをこれでもかと貶めつづけた人々が、自らの罪を自分の言葉で懺悔することすらせず、口を拭ったままだという事実が、ただただ口惜しくてならない。


 徐州に連れていかれた常盤楼の女たちは戦後80年の今、存命の方はほぼいらっしゃらないと思われる。名前も尊厳も奪いつくされ、冥界に旅立たれた多くの慰安婦の存在を、せめて忘却の彼方に沈めてしまうことだけはしたくない。


 戦争はまだ終わっていない。



(注)祖先の話に関わる部分は、若干のフェイクを交えています。

(参考)朴保パクポー『傷痍軍人の唄』

https://www.youtube.com/watch?v=24DKFgkw8no&ab_channel=PAKPOE



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