偽りの本能寺
狐猫
第1話 それぞれの思惑
桶狭間の戦いから十二年。織田信長の天下統一事業は着々とゴールへと近づいている。名実ともに日本の統治者となるため、室町幕府を滅ぼした。さらに、朝廷との結びつきを強めるため、時の帝・正親町天皇の東宮・誠仁親王を養子に迎えた。
明智日向守光秀。後に本能寺の変を引き起こすこの男も今はまだ本性を表してはいない。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益と共に織田四天王の一角を担い、畿内のすべてを主に任されるほど信頼を得ている男だ。
そんなある日、光秀は信長に呼び出された。
「おぬしが以前申していた四国の件だが、貴様には外れてもらう」
四国の件、とは四国征伐の話である。信長は今、四国地方を狙っている。征伐の対象であった土佐の大名・長曾我部元親は光秀と親交のある人物であった。そのため、信長とも元親とも親しい光秀は、両者の仲裁にあたっていた。
「未だに我に従わぬ大名どもに知らしめてやるのだ。この信長の意に背くものが如何様な仕打ちを受けるのかを」
愉快そうに信長は笑った。
元親はそこまで信長に反抗的な態度をとっていたわけではなかった。それでも、ほんの少しの反抗心が信長の神経を逆なでするには十分であったのだろう。
「だ、が。その代わり、お前には毛利征討に加わってもらいたい。筑前のサルめが手こずっておるようじゃ」
筑前のサルと称された男は、羽柴筑前守秀吉。光秀ら四天王に次ぐ織田家の実力者である。今は、中国地方の大名・毛利一族と対峙している。
「上様、しかし…」
「なんだ、不満か? 貴様、誰のおかげで今の地位があるのかわからんほどのたわけ者では、ないよの?」
地に体を押し付けられるような低く重い声。人間の首など瞬時に切れそうな鋭い目つき。物に当たっていないところを見ると今日は機嫌が良いらしい。
「お前の気持ちもわかるぞ光秀。だが、左様な甘い心持ちでこの戦乱の世を渡れるとは思うなよ。殺らなければ、殺られる世じゃ」
信長が目くばせをすると控えていた側近たちが部屋から出て行った。嫌な予感がする。こういうときの光秀の勘が外れることはない。
「それで、私めに何をしろと。側近たちを外すとなると…」
信長は顔をほころばせた。
「さすが光秀じゃ。さて、表の話はこのくらいにしておこうか。四国を征伐しようというのは我の本心じゃ。だ、が。我が四国に出向く前に竹千代の首を我に差し出せ。さすれば、元親は助けてやろう」
「え…」
さすがの光秀も固まった。信長が何を考えているのか全く分からなかった。竹千代とは徳川家康、信長の同盟者である。困惑する光秀をよそに信長は続ける。
「来る六月のはじめ、竹千代を堺に呼びつける。そこを狙うがいい」
光秀には理解できなかった。信長と家康の確執はあるにはあった。かつて家康の奥方と長男が信長に反旗を翻したことがあった。だが、それは丸く収まったはずだ。信長も気にしているそぶりはなかった。
「な、なぜに三河殿を…」
「幼少の頃からの付き合いだったから良くしてやってはいたが、正直邪魔じゃ。それ以外に理由などいるか?」
信長は詳細が決まったらまた話すから今は備えておけ、と言い残し去っていった。
心に消えないもやもやを抱えながら館に戻った光秀は自室に横になり天井を見上げた。信長の自己中心的な考えは今に始まったことではない。これまでに何人も「気に食わないから」という理由で消されてきた。
だが、家人が一人消えるのとはわけが違う。武田・上杉・北条など信長の敵はまだ多い。なぜこのタイミングなのか。信長と家康の間に何かあったという話は聞いていない。ただ、四国の一件がある以上、この話を断れば何が起こるかはわからない。もちろん信長に従い家康を殺したとて四国征伐が中止される確信もない。光秀はただ波にのまれるしかなかった。
暗殺の密命が下されたとも知らず、三河の地でのんびり鳥のさえずりを聞いているこの男は徳川三河守家康。後に江戸幕府を開くことになるこの男も今は信長に従っている一介の大名に過ぎない。
ある日、家康は信長から書状をもらった。大事な話があるから五月に安土に来てほしいとのことであった。家康はすぐに上洛の準備に取り掛かった。
一方その頃、光秀の元には朝廷からの使者が訪れていた。使者の話によると、再三の勧めにも関らず信長が官職を辞退し続け、帝が困っているから助けてくれとのことだった。
迷惑に感じつつも無下にするわけにもいかず、光秀は信長の元に向かった。
「上様はどうして帝から官職をいただかないのですか?」
光秀は率直に聞いてみた。が、信長は興味がなさそうな素振りを見せた。
「あー。そんなことより、五月十五日。竹千代がやってくる。お主にはその接待役を任せようと思う。どうせ死ぬ命だ。できるだけ派手にもてなしてやれ」
信長は続ける。
「そして、六月二日。この日に竹千代を叩け。手は回しておく。よいな」
「承知。ですが、なぜ今、三河殿を殺さねばならぬのかこの光秀には分かりませぬ」
信長が不機嫌になるのを光秀は感じた。信長の心に巣食う触れてはいけない何かに触れてしまったのだと直感的に感じた。
「なぜ? なぜそんなことをお前に言わねばならんのだ。主君の命には大人しく従っておればいいのだ。理由を知ってどうする? くだらん理由だと我を止めるか?」
信長はおもむろに立ち上がると、背後に飾ってあった刀を掴んだ。次の瞬間には光秀の喉元に刃が突きつけられていた。
「もう一度問う。理由を知ってどうする? 我を止めるか? お前まで我に殺されたいのか」
光秀はただ平伏することしかできなかった。だが、光秀の首元で小刻みに震える刀身に、信長の弱さが映った気がした。あの男はきっと力あるものの裏切りが怖いのだ。だから力で押さえつけている。押さえつけられなくなったら殺す。その心の弱さが残虐な覇王を生み出しているのだ。
「この光秀が軽率でした。お気を収めください…」
平静を取り戻した信長は刀をしまった。
「六月一日に公卿どもを交えて茶会を開く。官職のことはその時にでも返答するつもりだ。本当のことを言えば官職などどうでもよいのだ。いずれこの国も、朝廷も、すべてが我のものとなる」
信長の眼はすでに遠く先を見据えているようだった。
予定通り十五日には家康は京に入り、光秀はこれを出迎えた。
「これは明智殿、ご苦労を掛けますな」
全てを優しく包み込むような穏やかな人物である。光秀は信長がなぜこの男を消そうとしているのかが、何が覇王を震え上がらせているのか分からなかった。
「三河殿、折り入ってお話があるのですが、今宵二人で話せませぬか」
もはや後戻りはできない。信長には、尊敬する主には、夢を叶えてほしい。だが、その夢のためには家康の力が必要であると光秀は信じていた。だから、犠牲になるのが自分の立場だけではなかったとしても、後悔はしないだろう。
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