お勉強

 ヒューバートが大金を持って帰ってから三日は経っていた。

 彼の手で借金を返したのちまた連絡するとのことだったが、どうなることやら。

 アビゲイルは少しだけ不安に思いつつも、カリカリと音を立ててペンを動かす。

 すぐに書き終わり紙をエイベルに渡せば、彼は軽く確認したのち深く頷いた。


「よくできていらっしゃいます。アビゲイル様は物覚えがとてもよろしいのですね」


「そ、そう、かしら?」


「ええ。胸を張ってくださいませ」


 エイベルに褒められて、アビゲイルは頰を赤らめた。


 ――グレイアムのためになにかしたい。


 そんな漠然とした願いを考えていたアビゲイルに、エイベルが提案してくれたのだ。


『そういうことでしたら、私の仕事を少しお手伝い願えませんか?』


 エイベルは公爵家の中のことを全て請け負っているらしい。

 本来なら女主人がやるべきことだが、ここにはその存在がいない。

 だからしかたなくエイベルがやっていたらしいのだが、それをアビゲイルに教えてくれるという。

 まだグレイアムと結婚したわけでもないのに、本当にアビゲイルでいいのかと聞いたが、エイベルは嬉しそうに微笑んだ。


『ぼっちゃんもたいそうお喜びになると思います』


 実際グレイアムにやってもいいかを聞いた時には、彼は驚きながらも喜びを隠すことなく伝えてきた。


『無理だけはしないでくれ。……だがとても嬉しい。ありがとう、アビゲイル』


 お礼を言うのはこっちなのに、とは思いながらも、そこまで喜んでくれるのならとアビゲイルは必死に勉強をしていた。

 文字をきちんと書くこともそうだが、計算などもしなくてはならない。

 屋敷に住む人たちの管理もあるからと、なかなかに頭を使う。

 眉間に皺を寄せつつペンを走らせ、都度エイベルに確認をしてもらっているのだが、どうやらうまくできているようで安心した。


「さて、今日はここまでにいたしましょう。アビゲイル様は物覚えが早くて助かります」


「――本当? なら嬉しいわ」


「素晴らしいことです」


 エイベルが廊下に出て一言二言声をかければ、すぐにララとリリがお茶の準備をしてくれる。

 頭を使ったのでありがたいと、さっそく紅茶に手を伸ばす。


「……不思議ね」


「どうかなさいましたか?」


 ふとこぼした言葉を聞かれていて、エイベルがこちらを振り返る。

 アビゲイルはカップをテーブルに戻しつつ、そっと口を開いた。


「前はね、勉強が嫌いだったの。……いえ、今思うと勉強でもなかったわ」


 一応王族であるのだからと、最低限の読み書きだけは教えられた。

 けれどその時も教師が嫌々やっているのがわかっていたし、なにより間違えるたびに手を細い棒のようなもので叩かれるのがつらくて、どんどん勉強が嫌いになっていったのだ。

 手に血が滲んでも誰も手当てなんてしてくれないから、幼いアビゲイルは熱を出してしまったこともある。

 熱にうなされながら、何度も何度も母を呼んだけれど誰一人としてそばにいてはくれなかった。


「…………」


 嫌なことを思い出したなと頭をふり、すぐに記憶の片隅に追いやった。

 今更そんなことを思い出したところでどうにもならない。

 少なくとも今のアビゲイルには、心配してくれる人がいるのだから。


「エイベルの教え方が上手いから、勉強がとても楽しいの」


「…………アビゲイル様――!」


 うっ、と口元を押さえつつ、ほろりとこぼれた涙を拭うエイベル。

 そんな彼の後ろで何度も頷くララとリリに笑っていると、手紙を持った使用人が一人やってきた。

 手紙はエイベルに渡り、彼が確認したのちアビゲイルへと手渡される。


「…………お兄様からね」


 手紙には国の紋章が蝋印されていた。

 アビゲイルに手紙を送ってくるなんて、ヒューバートくらいなものだろう。

 どうやら話に展開があったようだと、エイベルから手渡された短剣で封筒を開けた。


「…………」


 中に書かれていた内容を読み、アビゲイルはふう、とため息を一つこぼした。

 どうやらうまくいったらしい。

 ヒューバートは無事借金をチャラにして、一応詐欺師たちとは縁を切れたようだ。


 ――まあ、そんなにうまくいくわけないのだけれど。


 アビゲイルは手紙をテーブルの上に置くと、もう一度紅茶で喉を潤した。

 ヒューバートはこれでもう憂いはないと喜んでいるが、そんなはずはない。

 詐欺師たちにとっての大きな金のなる木を、そう易々と手放すわけがないのだから。


「エイベル。グレイアムに伝えてくれる? 動き出しそうだって」


「かしこまりました」


 エイベルは頭を下げると、すぐにグレイアムの執務室へと向かった。

 本当はアビゲイル自身が行ってもよかったのだが、執務中のグレイアムを邪魔したくない。

 アビゲイルがいくと、彼は必ず手を止めてしまうから。


「……馬鹿なお兄様」


 アビゲイルの視線はもう一度手紙へと向けられた。

 今頃不安や焦りから解放されて、さぞや喜んでいることだろう。

 天国から地獄へ。

 落とされたその時こそ、アビゲイルの真の狙いだ。

 落ちるなら地獄ではなく、甘い蜜の中へ。

 細く笑むアビゲイルは、ゆったりとお茶の時間を楽しんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る