3 秋の憂いと未来像

 人が何故恋をするのか、皆さんは考えた経験はあるだろうか?もちろん誰もが恋をするとは限らないし、そもそも環境や境遇に恵まれずに、恋ができない人だっている。そういった配慮には重々承知の上で、私はこれから、自分が何故唯奈に恋をしたのかを考えようと思う。

 きっかけは彼女の優しさや気遣いに対する、感謝や尊敬の感情だったと思う。でもそれが恋愛感情に変わったのはきっかけを、今ではもう思い出せない。けど、このことは私という人間を語るうえで、きっと最重要事項だ。だから、唯奈と恋をした経緯を、順を追って話していこうと思う。半分以上惚気になると予想されるが、どうか気を悪くせず読んで欲しい。



 唯奈は不思議な人だ。中学の頃から、彼女は優しくて勉強もできて、日本生まれ日本育ちなのに、なぜか英語も話せる才女だった。日本では珍しくないのかと最初は思ったが、転校した学校では、英語が通じるのは唯奈と、英語の先生ぐらいだった。それなのに、いつも自信がなさそうに俯いていた。私が転校して間もないころは、私が通訳をしてもらう時以外は、窓の外をぼんやりと眺めているか、自分の席で本を読んでいた。でも、私の家に遊びに来るようになってから、唯奈は少しずつ周囲の人たちに、心を開いてくれるようになった。几帳面で礼儀正しいように見えて、案外気まぐれで大雑把なところだとか、黙々と何かに熱中することが好きなところだとか、そういう人の手で書いた正多面体みたいな彼女の性格に、私は少しずつ惹かれていったのだと思う。

 今だからこそ言えるが、父の仕事の都合で、日本の中学校に急に転校することにななるなんて、正直不安だった。インターナショナルスクールへの転校も、両親は考えてくれていたようだが、英語の先生もいるし、とりあえず通ってみるように勧められた。転校前に簡単な日本語を教わったが、これだけでどうにかなるなんて思えなかった。何とかなりますようにと、こんな時だけ都合よく神様にお祈りをしながら学校に向かった。

 そうしたら、私のクラスには唯奈がいてくれた。通訳をしてくれて、日本語も勉強も文化も習慣も、何から何まで丁寧に教えてくれた。本当に幸運だったと思う。彼女との出会いは、きっと私にとって一生分の幸運だったのだと、今になって思う。


 それなのに彼女は、なかなか心を開いてくれなかった。言葉は通じているし、親切にしてくれるし、礼儀正しくて先生からの信頼も得ているようだった。それなのに、自分が思っていることを、素直に伝えてはくれなかった。透明なガラスの壁を胸の内側に築いて、何かから自身を守っているように見えた。だからこそ私は、その壁を無理やり壊すのではなく、彼女自身の内側に入れてもらえるようになりたいと、必死に日本語を勉強したのだった。

 京都はいい町だ。とんでもなく暑い夏が、延々と続くのだけはまだ慣れないけど、美しくて風情がある町だ。どことなく、私が住んでいたオックスフォードに似ている気がする。何より、この町は唯奈が生まれ育った場所だ。私がこの町を好きになるのに、十分すぎる理由だった。

 同じ高校に通って、そろそろ1年ちょっとの月日が経つ。転校当初とか受験とか、大変な時はいつも唯奈に助けられていた。彼女への感謝と尊敬の気持ちが、友愛を経て恋愛感情に変わっていくのを、私は自覚している。高校を卒業するまでには、この気持ちを伝えよう。例えこの想いに応えてもらえなくても、唯奈なら真摯に向き合って、受け止めてくれるはずだ。そんな揺るぎない信頼を、私は彼女に寄せている。

 そう思って、以前バレンタインにチョコレートを渡したことがある。高校一年生の春だった。今までの感謝も込めて、唯奈にチョコレートを渡したのだけれど、

"ありがとう!ホワイトデーにお返しするね!"

なんて言われた。

 最初は唯奈が何を言っているのか、理解できなかった。後日別の友達に聞いて分かったことは、どうやら日本には「義理チョコ」という文化があるらしい。友達や兄弟に日頃の感謝を伝えるためにチョコを渡したりするとのことだ。さらに、1ヶ月にはそのお返しをする「ホワイトデー」というものもあるらしい。どちらとも、私が生まれた国にはない慣習だった。

 要するに私の精一杯の告白は、「義理チョコ」だと思われたらしい。その1ヶ月、唯奈は几帳面に、手作りのマカロンくれたのだった。

 すっかり怖じ気付いて本意は伝えられなかったけど、まぁこれはこれでいいと思うことにしたのだった。どうにも一筋縄ではいかないらしい。友達としての信頼関係が長い分、この関係を恋愛に発展させるのは苦労しそうだ。まぁ焦ることはない。そう思いながら、高校生活は足早に過ぎていった。


 

 高校2年生の秋。久しぶりに唯奈が家に来ていた。私の家では最近、猫を飼い始めた。名前はグレイス。今はキャットタワーの最下段で、身を固くしている。母が友人の紹介で、保護猫を引き取ることにしたそうだ。人に慣れるのには、まだまだ時間がかかるらしい。唯奈は、大の猫好きのようだけど、彼女のアパートでは動物は飼えないことになっているそうだ。両親も共働きで、面倒を見るのが難しいらしい。唯奈が必死に近づこうとすると、シャーと毛を逆立てて警戒モードになる。ごめんねとしょんぼりする唯奈が、いつにも増して可愛くて愛おしい。


 同じ高校に通っているとはいえ、中学の時に比べ、唯奈との接点は少なくなっていった。私はテニス部に入部し、唯奈は軽音部に入部していた。お互い違う部活に入っていたので、学校がない日でも、予定が合うこともなかった。

 唯奈は特進科で、私は普通科でこの高校に入学した。唯奈は出会った時から、学校でも成績が群を抜いていたから、難易度の高い受験を難なくクリアしていた。

"きっとわたしよりもアリアの方が、いつか賢くなるよ。私よりも体力も根気もあるし、難しい日本語をたった2年でほとんど覚えたんだから"

唯奈はそう言っていたけど、高校生になっても、彼女は相変わらず優等生なままだった。特進科の半分は内部進学組で、基本的には彼らの方が授業の進行が早いそうだけど、そのクラスの中でも、唯奈は常に上位の成績だった。私がどんなに頑張っても、唯奈との差は埋まりそうにはない。ずいぶん心強い友人ができたものである。

 だいたい私が日本語を覚えられたのは、ほとんど唯奈のおかげだった。帰国子女向けの塾にも行ってみたけど、大人数の生徒を相手にしているからか、私にはあまり合わなかった。唯奈はどんな些細な疑問にも答えてくれるし、教え方が丁寧で優しかった。

 2年の文理選択で、私が理系、唯奈が文系を選択することになった。同じ授業を受けられるのは、体育ぐらいになってしまった。彼女にいいところを魅せられるのは、この時間ぐらいだった。

 

 それでもテスト期間で部活が休みになれば、中学の頃と同じように、唯奈は私の家に遊びに来てくれた。家に来ると言っても、結局それぞれ勉強するだけだが、こうやって唯奈と接点を持てるから、テスト期間は私にとっては貴重な時間だった。

「ねぇ、アリアは結局進路とか決まってるの?」

「うん、日本の大学に進学できることにはなったから、あとは学力次第かなー」

私たち一家は日本をとても気に入っていた。食べ物は美味しいし治安もいいし、時代遅れな階級制度の名残もない。父が一念発起し、転職に成功したため、しばらくは日本で暮らしていけそうなのだ。私もあと数年で、永住権を取得できるらしい。先のことはあまり分からないが、しばらくは日本にいられそうだ。

 唯奈は1年の頃から、軽音部の同級生や先輩との交流する機会が多くなった。好きな音楽や趣味が合うのだろう。時々部室に様子を見に行くのだが、楽しそうにキーボードを練習している。中学の時にピアノの伴奏をしていたし、彼女の演奏はとても上手だ。あんな器用に指が動くのが、不思議で仕方がない。きっと練習の賜物なのだと思う。

 友人に恵まれているのは何よりだけど、一つ看過できない問題が起きていた。最近唯奈が、同じ部活の同級生に告白されたという噂を、耳にしてしまった。テニス部の同級生たちが話していたところを、盗み聞きしてしまったのだ。どうやらよく同じコピーバンドをしている、ギターボーカルの男の子ということだ。大人しそうで、でもちょっとミステリアスというか、自分の世界観をしっかり持っているように見える。どことなく唯奈に雰囲気も似ているし、廊下で楽しそうに話しているところを見たのも、1度や2度のことではなかった。もし唯奈が彼のことが好きなら、私は応援しようと思う。でも本当はすごく悔しい。私の方が唯奈のいいところをたくさん知っているし、中学からの長い付き合いだってある。でも、そのことを唯奈に確かめようとすると、途端に怖気づいてしまう。認めたくはないが、二人はお似合いだと思う。私だって今の、中学からの仲のいい友人としてのポジションは守っていたい。

 この前の学園祭の時、2人は同じバンドとして、演奏を披露していた。音楽への愛が伝わってくるほどすごい演奏だったし、歓声もたくさん上がっていて、自分のことのように嬉しかった。でも、二人が見つめあいながら楽しそうに演奏しているのを、客席から見ていると、どうしてか胸が苦しくなった。

 唯奈に何気なさを装って確認しようとして、でも勇気が出なくて聞けないというループを、もう3日も繰り返している。でももうそろそろ、白黒はっきりつけないと気になって夜もまともに眠れない。このままだとテストに支障がでてしまう。

「ねぇ唯奈、ちょっと聞きたいことがあるんだけど....」

「うん、私に分かる問題なら」

「いや勉強のことじゃなくて、確かめたいことがあって」

唯奈がすこし眉をひそめ、目を細める。

「うん、どうしたの改まって?」

「実は唯奈が軽音部の男子に告白されたって噂を聞いたんだけど、本当なの?」

「そうだけど、誰から聞いたの?結構広まってる感じ?」

「広まってるかどうかは分からないけど、私はテニス部の人から」

そういうと、唯奈は珍しく深いため息をついた。

「はぁ、それはもうほぼ全クラスに広まってると思った方がいいか....」

心底面倒だという表情をしていた。周囲の目なんてほどんど気にしない唯奈には珍しいことだった。

「アリアにはちゃんと言っておくけど、私はちゃんと彼の告白は断った。とても気が合うし、音楽の趣味も合うし、試しに付き合ってみてもいいかなとは思ったけど、中途半端な気持ちなのも結局失礼だと思ってさ」

「そうなんだ」

内心ものすごく安心してしまった。きっと表情にも出てると思う。でも、珍しく真剣な表情でこう言った。

「誰かに噂されるのは別に気に留めないけど、皆斗君のためも、このことはあんまり口外して欲しくはないかな。彼は大事な部活の友達だし、変にからかう人だっているかもしれないしね」

「しないよ。ただ私に一言ぐらい相談してくれてもよかったんじゃないかと思ってさ。中学からの付き合いなんだし」

ちょっとムキになったような言い方をしてしまう。告白は断ったのに、皆斗君のことはちゃんと気にかけるんだ。ちょっと複雑な心境だ。

少し間が空くと、唯奈は大きな目を驚いたように見開いて、それから優しく笑った。

「ごめんごめん。けど、恋愛って当事者だけのものだと思ってたから、わざわざ言わなかったんだよ。私だって初めてのことだったから、気が動転してたのかも」

唯奈が席を立つ。のどが渇いたからと、電気ケトルに水を入れてお湯を沸かし始めた。もはや自分の家かのように過ごしている。

紅茶入れるけど、飲む?と聞かれる。うん、ありがとうと答えると、向かいの椅子に座っていたはずの唯奈が、私の隣に座る。

「それにさ、今は恋愛とかあんまり考えられないんだよね。あと1年ちょっとで受験だし。勉強と音楽のことを考えるのに精いっぱいだよ」

「やっぱりK大目指してるの?」

「目指してるだけだよ。うちの両親浪人とか許してくれるか微妙だしさ。現役で実家から通える国公立なら、あんまりこだわりはないかなー」

「そっか」

唯奈は優等生だ。学校でも常に順位は一桁を維持している。わたしも時々いい勝負をするけど、偏差値的には彼女には及ばない。まぁ理系と文系だから、そもそも土俵が違うと言えばそれまでなのだけど。

 私のもとにも紅茶を置く。今日はアールグレイだ。"ちょっと勉強したら、今日は早めに帰るよ"そう言って、唯奈はまた黙々と勉強を始めてしまった。

 唯奈は恋愛には興味ないのだろうか。時代柄なのか国柄なのか、私の身の回りには浮いた一つ話ない。正直、恋愛よりもすべきことがたくさんありすぎて、それどころじゃないのかもしれない。だけど、華の十代に恋愛一つしないのは、すこし味気ないと思うのは私だけだろうか。向かいの椅子には、学校の課題を終わらようとペンを動かす姿がある。焦っても仕方がない。

 皆斗君の失恋に同情はしている。同じ人間を好きになったのだから、きっと彼とも気が合うかもしれない。でも、彼の不幸が私にとってのチャンスになると考えると、恋愛とはずいぶん不毛なものだと感じる。とりあえず勉強しよう。そう思い立って、鞄から課題のプリントを取り出した。


 唯奈は自分のことを、あまり話そうとしない。いつも私の話を聞いてもらってばかりで、返ってくるのは相手の話を引き出そうとする相槌ばかりだ。聞き上手というのは、彼女のような人を指すのだと思う。それは、彼女の控えめな優しさだったり、自分のことなんて人は知りたがらないだろうという自身の無さの名残なのかもしれない。

 もし唯奈がそんなことを思っているのなら、私は声を大にして否定しよう。彼女に関することだったらなんでも知りたい。どんな些細な事でも構わない。人格は、複雑な多面体のようなものだと私は思う。長さも面の形も、大きさもばらばらな多面体だ。見る角度によって見え方は全く異なるし、しかもその形は時間とともに変化していく。だから、この先どれだけ長い時間をかけても、その人を完全に知ることができるなんて、不可能に近いというのが私の持論だ。実際、私は唯奈のことが、時々本当によく分からなくなる。

 以前同じテニス部の同級生で、一番勉強ができる友人から、唯奈が中学3年生の時、隣の市にある名門私立高校を受験していたことを聞いた。全国的に見て、難易度も倍率も高く、このあたりでは有名な進学校だ。どうして教えてくれなかったんだろう。私と同じ高校に行こうと約束したからだろうか?唯奈の人生における重大な決断に、私が影響を与えてしまったのかと不安になる。気になってその日の帰り道に問いただすと、本人は何でもないことのようにこう言った。

「その受験は両親が受験を勧めてくれたし、練習になるかなって思ったんだよ。運よく受かりはしたんだけど、最初からこの高校が本命だったし」

「そうなんだ、でもどうして?せっかく合格したのに」

「学費のこともあるし、今の高校の方が、通学時間が短くて済むからね。軽音部にも入って見たかったし、家から通える大学の指定校推薦もあるらしいし、色々都合が良かったんだよ」

確かに唯奈の学校の成績は優秀だし、先生たちの評判もいい。指定校推薦は十分狙えるだろう。そういえば高校受験に向けて二人で勉強してた時、彼女は難しそうな問題集を買って、ひたすら解いていた。クラスメートにあんな問題集を持ってる子が、そもそもいなかったし、当時は努力家なんだとしか思っていなかったが、あればその私立高校の受験に向けたものだったのかもしれない。でも、彼女とは長い付き合いだし、お互い親友といってもいいぐらいの仲なのだから、ひとことぐらい言ってくれてもいいのにと思ってしまう。そんな私の心を悟るように、

「あの時はアリアも頑張ってたし、わざわざ言うほどのことでもないと思ってさ」

彼女なりの配慮だったのだ。けどそういう遠慮がちな態度に、私はいつも距離を感じてしまう。釈然としない心持のまま、彼女の隣を歩いていた。


 私が勉強を本気で頑張ろうと思ったのは、たぶんこの頃だった。唯奈と同じ大学は難しくても、近くの大学だったら、会う機会はたくさんある。中学の頃から何も変わっていない不純な動機だっだけど、少しでもその選択肢と可能性を広げるために、私ができることは勉強だけだった。

 高校の勉強は、中学の時と比べ物にならない程大変だった。けど、中学の頃と比べてより深みを増したようで面白い。やることに限りがないから、果てしなく没頭できる。この図形問題を解き終えたら、今日は早めに寝て、朝に古文の単語帳でも開こうと計画する。古文なんて面白味がないからとあまり勉強してこなかったけど、いつまでも唯奈を頼るわけにもいかない。


 11月某日。カレンダーを確認する。今年のクリスマスイブは土曜日だ。幸い部活は午前中で終わる。母は唯奈のお母さんと一緒に、お城のプロジェクションマッピングを見に行くために外泊するらしいし、父は海外に出張に行くそうだ。一緒に見に行かないと誘われたが、これは千歳一遇のチャンスかもしれない。

「Mom, I need your help with my plan, okay?」

(お母さん、計画に協力してほしいんだけど、いい?)

母はちょっと驚いた表情をして、それから面白そうに笑った。


翌日の夕方。この日はテスト期間で、二人とも部活が休みだった。校門で待ち合わせをして、二人で下校している。

「唯奈、来月の24日、うちに泊まりに来ない?」

「急な話だね。パーティーでもするの?」

「お母さんから聞いてない?唯奈のお母さんと私のお母さん、その日二人で外泊する予定なんだ。お父さんも仕事でいないし、クリスマスに家で一人ってのも味気なくて、お泊り会ってしてみたかったんだ」

昨日お母さんと話し合って計画したことだ。せっかくだから私と唯奈も連れて、4人でプロジェクションマッピングを見に行こうと誘ってはくれたけど、グレイスの世話もしないといけないからと、半ば強引に協力してもらったのだ。その日はペットシッターに預ける予定でいたらしいけど、せっかく今の環境に慣れてきたばかりだし、唯奈だって、グレイスと仲良くなれるチャンスだ。色々とウィンウィンな計画になっているはずだった。

「いいよー、一応親にも確認しておく。準備するのもとかある?」

「うーん、ピザとかケーキとか買って、家で食べようかなって思ってるだけかな。まだ具体的には何も決めてないけど」

「そっか。じゃ、細かいことはおいおい決めよっか。私も初めてかも。友達とクリスマス会とかするの。楽しみにしてるね」

とりあえず計画は順調に進んでいる。昨日突拍子もなく思いついた計画だから、行き当たりばったりだけど今のところ形になっている。食べ物とプレゼントをどうしようか考えながら、私はスマホの予定表の24日にイベントを作った。


 のクリスマスは、日本と違って、恋人と過ごすというより、どちらかというと家族や親せきと集まって、にぎやかに過ごすのが一般的だ。ぶっちゃけ、クリスマスの過ごし方なんて、楽しめるなら何でもいいと思う。だけど、今日は絶対に自分の気持ちを彼女に伝えようと、決心していた。

 来る12月24日。リビングと私の部屋を掃除している。テスト勉強に時間を割いていたら、いつもの間にか前日になっていた。前日の夜、唯奈から電話がかかってきた。

「明日は夕方ぐらいに、アリアの家行けばいい?」

「うん、ごめんね早くに連絡できなくて。色々考えてたらいつの間にか当日になっちゃった。ケーキはお母さんが用意してくれたから、あとはピザかなんか頼めたらいいかなーって思ってる」

「ありがとう!じゃあチキンは私が買っていくよ。飲み物とかの買い出しは、明日一緒に行こう」

「うん、じゃおやすみ!」

そんなこんなで、急遽始まったクリスマス会である。飾りつけをしたりツリーを出す余裕はなかったけど、ご飯でも食べて、せっかくだから映画リビングの大きなテレビで映画でも観ようという話になった。

 こうやって、唯奈と一緒に晩御飯を食べるのは初めてだ。お母さんが家にいないのも、今日が初めてのことだった。なんだかとても新鮮な気分だ。

 ご飯を食べ終わった後はジュースを飲みながら学校の話をして、それからケーキを食べた。そのあと、用意していたプレゼントを、唯奈に渡した。

「これ、クリスマスプレゼント」

「用意してくれたんだ。ありがとう!開けていい?」

私がうなずくと、満面の笑みで包装を丁寧に開ける。

「革の手袋?すごい恰好いい感じ」

「この前、片方なくしちゃったって言ってたでしょ?サイズは大丈夫?」

「覚えてたんだ。うん、ちょうどいい。やっぱりセンスあるわ、私の好きなデザインだし」

当時の唯奈は、モノトーン系のきりっとしたデザインのものが好きだった。今日も黒のYシャツにベージュのパンツがよく似合っている。ボーイッシュに敢えて見せているのかもしれない。

「実は私からもあるんだ。大したものじゃないけど」

そういって渡してくれたのは、紺色のハンドタオルだった。

「ありがとう、唯奈」

「こちらこそ。アリアが欲しいものが分からなかったんだ。」

「ううん、嬉しい。大切に使うね!」

約束もしていないのに、プレゼント交換ができるとは思ってもいなかった。今度から学校に持っていくようにしよう。新しい宝物が、一つできた。


 プレゼントを渡し終えた後は、久しぶりに二人で映画をみた。このところ、家に来てもずっと勉強していた。けど、数日前に定期テストと模試を終えたばかりだ。今日ぐらい息抜きにしたっていいはずだ

 今日は唯奈が、映画を選んだ。ニューヨークが舞台の映画だ。男性同士のカップルが、差別を受けながらも、それでも互いを愛そうとする話だった。

「私ね、こういうのに憧れてるんだ」

エンドロールが流れ始めたとき、ふと私の目をみてそう言う。

「こういうのって?」

「自分の愛に確信が持てるというか、決断に責任が持てるようなりたいってこと。時代の価値観がこうだからとか、親に言われたからそうするとか、そういうのじゃなくてさ」

「この映画の主人公みたいに?」

「そう!自分の好きなものは、誰が何と言おうと好きだって、堂々と言えるようになりたい。特に好きな人には臆せずに、好きだって伝えられるように、自分に自信をつけたいんだ」

「それが、唯奈が勉強を頑張る理由だったりするの?」

「勉強は単純に好きだからなんだけど、今私が地に足をつけてできる気とがそれぐらいだからね」

何名ものスタッフの名前が、スクロールされるエンドロールを眺めながら、すっきりしたような表情でそんなことを言う。

 唯奈は本当に不思議な人だ。これまで出会ってきた人達を思い返しても、彼女のような人はいない。思慮深い優しさを持っていて、控えめで誠実だ。

 エンドロールの曲が終わって、静寂が訪れる。互いに何も言わないまま、ソファーに横並びで座っているままだった。

"伝えるなら、今しかない"

何故かそう思った。元々そういうつもりだったけど、友達として楽しいパーティーだったし、このままでもいいか。まだ先延ばしにしてもいい気がしていた。

 けど、それじゃ駄目だ。いい加減腹を括ろう。臆病な彼女が、私のことを好きになるのを待っているだけでは、きっと何も進捗しない。私も好きな人を好きだと伝える。例えそれで、今までの友情がぎこちなくなっても、その時はその時だ。

 唯奈に身を寄せる。無意識に、彼女の手の甲を握っていた。

「ねぇ唯奈。聞いてくれる?」

「うん」

驚いた様子はない。落ち着いた瞳で、私を見つめていた。

「私ね、ずっと唯奈のことが好きだった」

声が震える。ずっと言おうと決めていたのに、本人を目の前にすると、言葉に詰まっている。

「友達としてもそうだけど、それ以上に好き。付き合って欲しいとかそういうのじゃないけど、知っていて欲しいんだ」

何とかそこまで言って、深呼吸をした。こんな急に心拍数が上がるなんて想定外だった。繋いだ手が震える。唯奈は落ち着かせるようにもう片方の手を重ねる。伝わってくる熱が、自然と私を安らげていた。

「ありがとう、伝えてくれて」

唯奈の目に動揺はない。私が何か言おうとするのを、じっと待っている。

「ずっと友達でもいいかなって思ってたけど、唯奈が白川君に告白されたって知って、私本当に動揺したんだ。何で動揺してたのか自分でも分からなかったけど、唯奈が皆斗君と仲良さそうにしているだけで、胸が苦しかった」

泣くまいと決めていたのに、目から色んな感情とともに、涙が溢れ出して止まらない。そんなどうしようもない私を、優しい眼をしながら、唯奈は背中をさすってくれている。

「そうだったんだ。嬉しいよ、アリア。結局アリアに言ってもらっちゃったな......」

 彼女はその続きを言おうとして、結局何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。

「ちょっとだけ考えてもいいかな?私もアリアのことは好きだけど、まだ付き合うとかは考えられなくて」

「うん、もちろん」

とりあえずは保留ということらしい。断られるつもりではいたけど、とりあえず言いたいことは言えた。

 

 そのあと私は、お風呂に入って、布団を敷くから部屋で待っていると自分の部屋に逃げるように入った。この間にも、唯奈が食器を片付けてくれたいた。告白の余韻に浸っていて、そんなことは頭から抜け落ちていた。

「じゃ、私もお風呂借りるね」

「うん、一応説明しようか?」

「大丈夫。シャンプーとかは持ってきたから」

「そう、タオルはこれ使って」

「ありがとう、使ったらかごにいれておくね」

「うん、そこに入れておいて」

彼女がお風呂に入っている間、来客用の布団を敷いて、それから呆然としていた。

 人生最初の告白は、驚くほど緊張した。入試とか、テニスの試合とは比べ物にならないほど。別次元のの緊張だった。その緊張から解放されて、唯奈の寝床に座り込んでいた。


 ちなみに告白は、世界共通の文化ではないらしい。日本ではどちらかが告白をして、気持ちを表明してから正式に恋愛関係になるのが、一般的のようだ。皆斗君もそうしていたし、他の同級生もだいたいそうしている。

 中学生で日本に転校してきたから、恋愛というものがどういう手順を踏めばいいかなんて、私にはさっぱり分からない。だけど、バレンタインの時みたいに、唯奈は人から向けられる好意に鈍感だ。はっきりと分かるように伝えないと、自分の中で何も始まらない気がする。


 長々と考え込んでいたら、お風呂から出てきた唯奈が部屋に入ってきた。手には彼女のドライヤーを持っている。

「アリア、ドライヤーした?」

布団を敷くことばかり考えていて忘れていた。

「まだだった、後でするよ」

「来て。乾かすから」

唯奈の髪もまだ濡れているのに、そんなことを言う。手招きされるがままに椅子に座る。パジャマ姿の唯奈は初めて見た。私服と違って、ずいぶん可愛らしいもパジャマだ。

彼女の手の、やわらかい感触が伝わる。優しくて気持ちいい。

「本当に綺麗だね。アリアの髪って」

ドライヤー越しでよく聞こえなかったけど、そう言っているように聞こえた。ずいぶんと手際がいい。

 私の髪を乾かし終えたら、今度は私が唯奈にドライヤーをする番だ。中学の時から何も変わらない、耳にかかるぐらいのショートヘアだ。漆黒で何にも染まらないような美しさは、彼女もよく似ている。私の半分もしない時間で終わってしまったが、まだ彼女の髪に触れていたいと思ってしまう。


「ありがと、もう寝る?」

「そうしよっか。唯奈はベットで寝て」

「いや、さすがに家主を床で寝るのは気が引けるっているか」

「ううん、気にしないで。せっかく来てもらったんだし」

「来てもらったって、もう何度目よ。アリアの家に来るの」

そういいながら、唯奈は可笑しそうに笑う。

「じゃあさ、一緒に寝ようよ」

ええっ?ほんとに?そんな風に言う間もなく、私の手を引いてベットに座る。どきまぎしながら、私は照明を常夜灯にした。

「流石に狭いかな?」

唯奈の横顔がすぐ目の前にいる。急に脈が速くなるのを感じる。

「ううん、私は平気だよ」

そういうと、唯奈は得意気な表情のまま仰向けになった。

 私のベットは、セミダブルほどの大きさだ。二人とも細身だし、唯奈は小柄だから狭くはないけど、いつもの感覚でいると、つい彼女の手に触れてしまう。

 そこからのことは、緊張しすぎてよく覚えていない。だけど、大胆に同じベッドて寝ようと誘った割には、唯奈もどぎまぎしている。彼女の手から伝わってくる鼓動が、早く鮮明に伝わってくる。普段なら寒さから自分を守るように、布団にくるまって寝ていたけど、今は、唯奈の匂いと温もりに包まれている。いつの間にか安心して、気が付いたら眠ってしまったらしい。スマホを確認すると、午前5時前だった。隣には、頭まで掛け布団に包まった唯奈がいる。背を向けた黒髪をじっと見つめながら、昨晩のことを思い出していた。私たちはいったいどうなるんだろう。

 唯奈が寝返りを打つと、目の前に彼女の顔がくる。綺麗な鼻筋と薄い唇を見つめていると、規則正しい寝息が伝わってきた。すると、目が開かないまま眉間にしわを寄せる。目を覚ましたようだ。

「ごめん、起こしちゃった?」

「ううん、ちょっと前に私も目が覚めちゃったんだ」

「そっか」

唯奈の黒い瞳が、私を見つめる。私の手をそっと握りながら、彼女はこう言った。

「ねぇアリア。本当に私でいいの?」

「うん」

「じゃあ、私こそお願いします......」

尻すぼみの声が聞こえた。唯奈の顔を見ると、照れ隠しのように目を逸らす。

 思わず私は目を瞑り、彼女の首元に額を寄せた。彼女なりに、結論が出たらしい。何とか想いを遂げられたみたいだ。そのままじっとしていると、彼女は私の頭をそっと撫でた。その柔らかな感触が心地いい。今日はずっとこうしていたい。そんな風に思っていた。

 

 しばらくして二人は仰向けになる。少しの沈黙の後、部屋の天井を見上げながら、私は口を開いた。

「どうなるんだろうね、これから」

「そうだねぇ、もうあと1年で受験だし。どこかに行ったりとかはあんまりできないだろうなー。部活も夏まではあるし」

「お父さんとかお母さんに、一応伝えておく?」

「うーん、お母さんには一応言っとこうかな。あの人放任主義だし。ただ、お父さんには言いづらいかも。心配性というか、過干渉なんだよね。あの人」

唯奈とはもうすぐ4年の付き合いになるのに、私は唯奈のことをまだまだ知らない。すべてを知りたいとは思ってしまうが、自分のことを話すのが好きじゃない性分みたいで、困った恋人だと思う。

「そっか、私はお父さんにも言おうと思うんだ。お父さんは分かってくれると思う」

「だろうね。ちゃんと伝えておいて」

「だろうね?どういう意味」

「中学の時、アリアのお父さんに手紙で言われたんだ。もし私たちが恋人同士になっても、応援するって。紳士って感じだよね、アリアのお父さん」

いつの間にそんな話をしていたのだろう。中学3年生のときだろうか。父は基本仕事が忙しくて家を留守にしがちだから、唯奈と会ったのはあの時ぐらいだと記憶している。

「学校の人たちにはどうしたらいいかな?」

「アリアが話したかったら話しても、私は別に構わないわ。私は皆斗君には言うつもり。あとは聞かれたら答えるぐらいかな」

唯奈らしいあっさりとした返事だ。周囲の目なんて気にしていないように見えて、自分にとって大切な人には誠実でいようとする。そんな潔さを持っている。たまに誤解されがちでそんな性格だとは思うけど、私はそんな彼女の優しさを知っている。

「私も誰かに聞かれたら、唯奈と付き合ってるって言うことにするよ」

"そう、私もうちょっと寝るね。"そういいながらまた掛け布団に包まって背を向けてしまった。なんだか冬眠中のリスみたいで可愛い。思わず背中から抱き着いてしまう。

 温かいまどろみに落ちていく。ずいぶん忘れていた感覚だ。きっと今、人生最大の幸福を感じている。眠いのに、この幸福感に浸っていたい。そう思いながら、私はまた蝶の夢を見ていた。



 カーテンの隙間から、眩しい朝日が顔にかかる。鳴れない姿勢で寝たからか、ちょっと首回りに違和感がある。寝違えたってほどじゃないけど右に顔を向けようとすると、若干痛かった。

 時刻は9時を回っていた。今日は日曜日なので学校はない。幸い部活も休みだった。目が覚めた唯奈が言うには、私は唯奈にハグしてから、10分もしないうちに眠ってしまったらしい。寝つきが良くて羨ましいと言われた。唯奈が、寝ぼけ眼のまま微笑んでいる。

 起きてすぐ歯を磨いて、それから二人で朝食を用意した。昨日のクリスマスケーキの残りだけど、こんな日ぐらいは朝からケーキを食べたっていいはずだ。唯奈はホールケーキの12分の1ぐらいの大きさでいいらしい。

「朝はあんまり食べられないんだよねー。せっかく美味しそうなケーキなんだけど、これぐらいにしておく」

そう言って、眠そうな表情のままアールグレイを飲んでいる。ケーキを食べながら、ぼんやりリビングの外の窓を眺めていると、唯奈がこんなことを言い出した。

「ねぇアリア。イングランドでは、結婚したらミドルネームってどういう風になるの?」

動揺して、フォークを落としそうになる。

「どうしたの、突然」

「いやアリアの名前って、アリア・ダイアナ・ウォルシュっていうんでしょ。私、アリアっていう名前も好きだけど、ダイアナっていうミドルネームも好きなんだ」

「うーん、どうなるんだろうね。ダイアナはお母さんのミドルネームだったんだ。普段は使う機会はめったにないから、あんまり気にしたことなかった」

「そっか」

唯奈はようやくケーキを食べ始めた。イチゴは最後に取っておくタイプらしい。またひとつ、彼女のことを知ることができた。

 将来のことなんて、皆目見当もつかない。とりあえず今は、彼女との時間を大切に過ごすことだけを、考えていよう。


 結局付き合い始めたとはいえ、真面目な女子高生二人の恋愛なんて、結局ただ友人の延長だ。特に恋人らしいことをするわけでもなく、二人とも淡々と、高校生活を過ごしていた。お互い部活やら、勉強やらに追われていたし、3年になれば、模試に定期試験、私たちは毎月のように、何かしらのテストに向けて勉強していた。

 でも付き合いだしてからは、唯奈はよく家に来てくれるようになった。学校の廊下ですれ違う時も、以前より意味ありげに笑いかけてくれるし、一緒に帰るときは、たまにこっそり手を繋いだりした。私にはそれが、十分すぎるぐらい幸せだった。

 高校3年生の夏休みに、二人で色んな大学のオープンキャンパスに行った。当時の私たちはとにかく勉強するのに必死だったけど、息抜きも兼ねて大学を知るのも大事だと思っていた。正直なことを言えば、唯奈とどこかに行きたくて、その口実を作りたかっただけなのかもしれない。連絡してみると、最初は

"正直暑いからあんまり外出たくないかも。私小さいころ、お父さんに色んな大学に連れて行かれたから、だいたいどんなところかは見当つくんだよねー。まぁ考えておくね"

なんて乗り気じゃない返信が来たけど、一人で行くのは心細いからと頼み込むように言うと、決まってついてきてくれた。当時の私たちにできるデートなんて、それぐらいだった。大学生になったら、今みたいに気軽に会えなくなるかもしれない。なら今のうちに、唯奈との思い出を一つでも多く、作っておきたい。

 大学は不思議な場所だった。この時期は授業がないらしいけど、キャンパスを案内されるとそれなりに学生っぽい人たちがいる。ここにいる人たちは、私たちよりもずっと大人に見えていた。

 この日はとある大阪の大学のオープンキャンパスに来ていた。午前中のプログラムが終わり、今は二人で学食を食べている。

「学食っておいしいんだね。メニューは週替わりなんだって」

「私も学食は好き。大学に来たって感じはする。近くにあるし、コスパは一番いいかもしれない」

そんなことを言いながら、唯奈はオクラの入った豚汁をすすっている。夏バテ気味なのか、暑くなると彼女は、麺類とか汁ものとかをよく食べるようになる。プログラムは午後からもある予定なのに、すでに帰りたそうだ。

「今日のは自由参加だし、お昼食べたら帰る?」

「せっかく来たんだし、最後まで見ていこうよ。アリアもここ、第一志望の候補でしょ?」

「そう、無理しないでね」

「大丈夫、室内は涼しいし」

昼食を食べ終え、私たちは会場に戻る。今のところ、私たちの第一志望は違う大学だ。唯奈は京都で、私は大阪の某大学。電車で会いにいける距離ではあるけれど、きっと同じ学校に通えるのは、あと数か月だ。

 もちろんもし仮に同じ大学に行けたとしても、文系と理系ではキャンパスが分かれていることが多いし、授業だって全然違うだろう。だけど、今は少しでも唯奈との接点をたくさん持っておきたい。



 共通試験を3か月後に控えた時期に、一度唯奈が風邪をひいたことがあった。クラスが違ったので学校に来てからそのことを知って、昼休みに彼女に連絡した。

"大丈夫?よかったらお見舞い行こうか?"

授業が終わって、帰りにスマホを確認すると、

"うつしちゃうの嫌だし、大丈夫。熱も下がってきたし"

と返信があった。

"分かった。お大事にね"

とだけ返信して下駄箱に行くと、皆斗君が私を待っていた。

「ウォルシュさんだよね?」

「そうだけど?どうしたの?」

「ごめん、急に。模試の申込書、僕らの担任が配るの忘れてたみたいで、締め切りが明日なんだってさ。今日中に確認しなきゃいけないから家まで持って行くよう、担任と名雪さんに頼まれたんだけど。渡さなくちゃいけないんだけど、女子の家に俺一人で行きにくくてさ」

「そっか、分かった。ありがとう」

そう言って、透明なクリアファイルを一枚受け取った。きっと几帳面な人なのだろう。

「なぁ、ついでに言いたかったことがあるんだけど、いいかな?」

「うん、なに?」

そういうと、彼はすごく真剣な表情でこう言った。

「あの人、最近すごい根気詰めて勉強してるみたいだけど、あんまり無理するなよって伝えといてくれないかな?部活が無くなって、クラスは同じなんだけど、話しかけらるタイミングがあんまりなくてさ」

「分かった。伝えておくね」

「じゃ、よろしく」

そう言って、彼は颯爽と学校を後にした。私のお見舞いは断ったのに、彼には家まで来てもらうのかと思うと、晴れない気分になった。早速唯奈に電話する。

"もしもし、唯奈?"

"どうしたの?アリア、お見舞いは大丈夫だよ。結構元気になったし"

"皆斗君から模試の申込書を届けてくれって頼まれたの。一人じゃ行きにくいからって、後で住所送ってくれる?"

そういうと、少し間をおいて溜息をついた後、

"分かった。ありがとう来てくれて。オートロックだから、エントランスにあるポストに入れてくれれば、それで充分だから。お願い"

"分かった。ゆっくり寝てて"

そう言って電話を切った。


 唯奈は私に、ネガティブな感情を見せない。体調を崩したり、嫌なことがあって落ち込んでいるときも、それを私に話そうとしない。それはきっと、私と出会ったときから、彼女を頼ってばかりだったからだと思う。言葉やルールが分からなくて、助けてもらってばかりで、"私にとって、頼れる存在"でいることを、唯奈に強いてきた結果だった。多面体の後ろの面みたいに、正面から見ている限りは絶対に見ることのできない、唯奈の一面だった。

 唯奈のためにしてあげられることなんて、私には大してない。だけど、皆斗君を頼るように、私のことも頼ってほしい。恋人だったら尚更だ。恋人だからこそいいところばかりを見せようとするのかもしれないけど、中学からの長い付き合いだし、たまに気まぐれでぶっきらぼうな一面だって、見え隠れしている。どうせならもっと素の表情を見せて欲しいし、互いの等身大を愛したいと考えてしまう。

 唯奈のマンションにつき、指定された番号のポストに、クリアファイルを入れた。

"〇〇〇号室だね、入れておいたよ"

それだけ送信すると、数分後に返信が来る。

"ありがとう。ごめんね上げられなくて"

"全然気にしないで。それじゃ"

そんなやり取りだけをしていた。本当はもっと、唯奈の心の奥深くまで入りたかった。だけど、彼女が人一倍繊細なことを、私は知っている。長い付き合いだとは言え、恋人になってからはまだ数か月程度だ。今は二人とも大事な時期だし、彼女の気遣いとか思いやりを、私も見習おうと思っていた。優しさは押し付けるものじゃないし、好意だけを理由に踏み込むものでもないはずだ。

 曇り空は影を増し、家に向かう頃には雨脚が強まってきた。風も冷たく横殴りの雨が制服を濡らす。こういう時って、折り畳み傘って気休め程度にしかならないとつくづく思う。イングランドでは傘よりも、フード付きのジャケットを日常的に着ることの方が多い。日本と比べて霧のような雨が降ることが多いからで、私もイングランドにいたころは、そうやって学校に行っていた。京都は良く雨が降るから、折り畳み傘をいつもカバンに閉まってはいるけど、こういう日は少し寒くなる。今度からはジャケットもカバンに入れておこうと思い立つ。私も風邪をひくわけにはいかないからと、早足で帰路に向かった。



 共通テストに向けた勉強漬けの日々は、加速的に過ぎていく。今年は二人でクリスマスを過ごすこともなく、新年を祝うこともなかった。それでも学校で会う時は和気あいあいと話していたし、たまに夜寝る前に電話することもあった。勉強に没頭していると、時々孤独になったような気がしたけど、応援してくれる両親と、一緒に試験を受ける唯奈がいてくれることが、心の支えになっていた。

 1月某日。試験会場には、唯奈と二人で行った。かなり早めに家を出たけど、待ち合わせ場所に着くと、私が去年プレゼントした黒い皮手袋をつけて、手を振っている唯奈がいた。それだけで、心の底からほっとしている自分がいた。

「おはよう。眠れた?」

「うん、いつも通りだね。唯奈は?」

「私も、ここまでくればいつも通りにやるだけだよ」

唯奈は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。彼女にしては、珍しく緊張していた。不安になると、上着の袖をひっばって、手を隠そうとする。中学の時からの彼女の癖だった。

「そうだね、行こっか」

今日は手を繋いだりはしない。本当はそうしたかったけど、けっきょくそれぞれの正念場だ。緊張を紛らわすために他愛のない話をしながら、横並びで歩いている。


 唯奈と行きたいところもしたいことも、たくさんある。受験を乗り越えたらそれができるかは分からないけれど、目の前の試練に淡々と向かっていく。それが今、私たちがやらなきゃいけないことだ。

 冬の京都は、晴れ渡っている。長丁場の試練に向かう私たちを励ましているようだ。受験生たちが、次々と会場に入っていく。私と唯奈は、別の部屋なるらしい。

「じゃあね。終わったら、先に帰ってて」

「分かった。じゃ、行くね」

そう言って、私たちは手を振った。受験票の番号を確認して、自分の席に着く。

 散々勉強してきた。どんなことがあっても、とりあえず受けないといけない。私たちならきっと、どんな結果でも大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせながら、試験開始の時刻を待つ。

 

 憂いも希望も、思い描いている未来像もない。ただ無心のまま、すこし肌寒い教室の机の下で、唯奈がくれた紺色のハンドタオルを握りしめていた。

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