ミドルネームを忘れない

七川 / Nanakawa

1 京都の夏とショートヘア 

 私が二十歳になって、約1か月が経った9月某日。河川敷に二人、横並びで座り込んで、大阪の夜空を見上げている。夏休みの最後の思い出にと、私たちは花火大会に来ていた。近年の夏は、夜になってもあまり涼しくならない。それどころか、大勢の見物客の熱気とヒートアイランドも相まって、暑さを増す一方だ。

 私の隣に座っているのが、恋人のアリアだ。淡い水色の、百合が描かれた浴衣を着て、目を輝かせるように花火を見ている。新雪のように白く透き通る彼女の素肌を、色とりどりの閃光が照らしていた。さっきまで、屋台で買ってきたたこ焼きに夢中だったけど、花火が上がり始めれば、今度はそちらに夢中になる。そういえば、日本のお祭りに来るのは、今日が初めてだと言っていた。存分に楽しんでいるようで何よりだと安堵する。

 次第に私たちは、互いに寄りかかりながら、花火を見上げていた。アリアから伝わってくるシトラスの香りと温もりが、彼女との思い出を呼び起こしている。私はどうも忘れっぽいようなので、思い出せるうちに書き留めておくことにしよう。


 

 中学2年の4月、京都の某市立中学校。アリア・ダイアナ・ウォルシュという女の子が、私と同じクラスに転校してきた。両親の影響で、小学生の頃から、英語を多少話せた私は、始業式の直後、担任の先生に呼び出しを受けた。

"ウォルシュさんは日本語が話せないようだから、サポートしてあげて欲しいんだけど、お願いできるかな?"

要するに、通訳係をしてくれないかという打診だった。

"私でよければ、大丈夫です"

"ありがとう。何があったら、いつでも相談してくれればいいから"

そんなやり取りを、つい先ほどしたばかりだった。

 始業式の後のホームルームの冒頭に、彼女は教室に入ってきた。すらりとした長身に、背中までかかるライトブラウンのストレートのロングヘア。彼女は、私たちより遥かに大人びて見える。自己紹介では、カタコトの日本語と流暢な英語を交えていた。イギリスから転校してきたらしく、日本語はまだあまり話せないそうだ。

「ヨロシクオネガイします」

そう言って、私の隣の席に座った。できれば目立ちたくはないのだが、このクラスには、他に適任者もいなそうだ。

「You can speak to me in English.It's nice to meet you too.」

(英語で大丈夫だよ。私の方こそよろしくね)

私がそう言うと、最初は驚いたような表情を浮かべ、それから安心したように微笑んだ。

 私が気になったのは、彼女のミドルネームだった。ダイアナって確か、イギリスの公妃の名前ではないだろうか。先週両親と見た洋画に、そんなナレーションがあったような気がする。

 ミドルネームにはいくつかパターンがあって、イギリスの場合、その家系の歴史とか尊敬する人物など、何かしらの意味が込められていることが多いらしい。気になって後日、本人に尋ねてみると、彼女はこう言ったのだった。

「I only use my middle name when I have to introduce myself in a formal way, and I don't usually use it that often. Please call me Aria.」

(ミドルネームは改まって自己紹介をするときぐらいしか名乗らないし、普段はそんなに使うものじゃないの。私のことはアリアって呼んで)

「Okay, Aria.」

(分かった。アリアさん)

英語が通じる相手が、学校には私と英語の先生ぐらいしかいないため、学校生活はかなり大変だと思う。だけど、アリアさんは美しい容姿と、飾り気のない親しみやすさを兼ね備えていた。きっと私なんかよりもすぐ、このクラスに打ち解けるのだろう。英語の発音も綺麗で聞き取りやすいし、ゆっくり話してくれる。通訳としてはありがたい限りだ。


 グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国。それが、アリアさんが生まれた国の正式名称だ。通称イギリスである。彼女はオックスフォードというところから、はるばる日本にやってきたらしい。父親の仕事の都合で、今年の1月から日本にいたそうだ。イギリスでは、9月から年度が始まる。半年ほどズレが生じる訳だが、結局アリアさんは、4月から改めて、日本の中学2年生となった。それにしてもいきなり日本の学校に転校とは、ずいぶん大変なことだ。私にできることなら、力になろう。

 しかし、ご令嬢のようなアリアさんと、小柄で平凡な容姿の私が横並びていると、アリアさんの側近か何かになったような気分だった。最初はそんな劣等感を抱いていたけど、ほとんど日本語が分からない彼女にとって、私の通訳は無くてはならないものだ。周囲の目とかコンプレックスとか、些細なことは気にしないことにした。

 私たちは、国の文化や風習の違いを話すうちに、自然とそれなりに仲良くなっていった。特に面白かったのは、イギリスにはクラスの担任の先生というものが無く、各教科の担任の先生が指定する教室に、生徒が移動するらしい。

「I was surprised to see so many different teachers coming into the classroom. I think it is normal in the UK for students to go to class, just like going to the music room or home economics room.」

(色んな先生が教室に来るものだから、驚いちゃった。音楽室や家庭科室に行くような感覚で、生徒が授業を受けに行くのがイギリスでは普通かな。)

「I see. So it generally feels like a university in Japan? Well, I've never been to university, so I don't really know much about it.」

(なるほどね。日本でいう大学みたいな感覚が一般的なんだね。まぁ、大学行ったことないからあんまりよく分かんないけど。)

「Don't universities have a class like they do now?」

(大学には、今みたいなクラス制度はないの?)

「I think it depends on the university, but I don't think there are a minority of universities that have classes like junior and senior high schools. I think my dad said something like that.」

(大学によるとは思うけど、中学校や高校みたいなクラスがある大学は少数派だと思うな。お父さんが、そんなことを言ってたような気がする。)

「Does your father know much about such things?」

(あなたのお父さんは、そういうことに詳しいの?)

「My dad is a lecturer at the university.」

(私のお父さん、大学で講師してるんだよね。)

「Heh, I see. He is very intelligent.」

(へぇ、そうなんだ。とても理知的な人なんだね。)

「Hmmm, I wonder. It seems to me that He is just purely interested in his research.」

(うーん、どうかな。研究がただ純粋に好きなだけな気もするけどね。)

彼女と話すのはとても楽しい。知らなかったことを沢山教わるし、いつも晴れやかな表情でいるから、つられて私も気分が明るくなる。表情の乏しい日本人の、典型例のような私でも、アリアさんと居るときは心から笑えているような気がした。中学生になってようやく、友人ができそうだと安堵していた。


 自己紹介が遅れてしまった。私は名雪唯奈。京都の某公立中学校に通っている。私がある程度英語を話せるのは、両親の仕事の影響と、幼少期からの教育の賜物だった。仕事柄よく英語を使う二人の、教育方針が功を奏したのだろう。新しい言語を覚えるうえで重要なのは、その言語を使う機会を、意識的に増やすことだと父が言っていた。特に「話す」ことは一番重要らしい。小学生の頃は、必ず両親と30分ほど、学校であったことを英語で話していた。将来必ず、何かしらの形で役に立つとは思っていたので、両親の指導に素直に従う形で英語を学んでいたのだった。こんなに早く、その成果を活かせるとは思いもよらなかったけれども。


 転校して1か月ほどが経つと、アリアさんはクラスメートや先生たちと、日常会話ができるぐらい日本語が上達していた。もともと彼女の両親が、日本の文化に興味があるらしく、挨拶程度の会話や、ひらがなとカタカナは読めていたらしい。両親が教育熱心であるという点は、どうやら私と共通しているようだ。

 転校当初は、通訳をしながら話し言葉を教えたり、授業で教科書に出てくる漢字の読み方を教えたりしていた。アリアさんと話しながら思うのは、彼女がとても頭のいい人なんだということだった。それに加え、慣れない日本語に臆することなく、積極的に日本語を学ぼうとする彼女の姿勢が、私や先生たちにもよく伝わってくる。アリアさんを知る誰もが、彼女のことを尊敬していた。

"私たちが小学校で勉強してきたことを、アリアさんは数週間で学んでいる。本当に凄いことだよ"

私がそう言うと、

"ユイナさんのおしえかたがいいからだよ。やさしいし、わからないことばひとつひとつを、ちゃんとていねいにおしえてくれる"

と言ってくれた。実際、アリアさんに日本語を教えることは楽しい。学ぶ側に熱意があるのなら、教える側もそれに応じるのが礼儀だ。


 アリアさんはたとえ言葉が通じなくても、クラスメートや先生たちと、積極的に話そうとする。とはいえ覚えたばかりの日本語では、会話は行き違うばかりだ。どちらかが困っている様子を見つけるたびに、私は慌てて通訳をする。言葉は分かるのに、人と話そうとしなかった私とは正反対だった。

"名雪さんって英語話せるんだね。知らなかったよ。ありがとう"

そんなことを先生やクラスメートに言われたのも、この時期だった。アリアさんの通訳を通じて、私は間接的に人と話すようになった。中学生になって以来、仲のいい友達ができなかった私が、ようやく学校に馴染めたのだった。

 私は、アリアさんを手助けしているつもりで、実は助けられているのかもしれない。この頃の私は、そんなことを思い始めたような気がする。将来の夢とかやりたいことなんて特になかったけど、誰かに言葉を教える仕事は、私にあっているのかもしれない。そう思わせてくれたのは、アリアさんがきっかけだった。


 母や担任の先生が言うには、私は人から誤解をされやすい人間らしい。先日の三者面談で、言われたことだった。当時の私は、思春期特有の、肥大化した自尊心を抱えた、気まぐれな人間だった。小学校のときに唯一仲の良かった女の子は、私立の中学校に行ってしまった。それ以来友達はおろか、気兼ねなく話せるクラスメートの一人もいなかった。どうしてそうなってしまったのかは、私にもよく分からない。

 話の合う同級生が滅多にいないというか、話題についていけないことがほとんどだったし、興味のない話を延々と聞かされるのが、当時の私には苦痛だった。だから友人も全然いなかったし、集団に馴染めなかった。私は基本的に、興味のないことには一切関心を向けられない。社交辞令とか、体裁だけでも興味のあるふりをするとか、そういう社会性が欠落していた。きっと、父親譲りの性分だ。それはクラスメートだけではなく、先生に対しても同じだった。

"成績は申し分ないのですが、周囲と協調しようとする姿勢を、名雪さんからは感じられません"

1年生の時の三者面談で、疲れきった表情を浮かべた、担任の先生にそんなことを言われた気がする。散々な言われようだ。仲良くなれそうなクラスメートもいないのに、どうやって協調すればいいのか。具体的な方法を教えて欲しかったものだ。

 まぁでもアリアさんの通訳をするようになってから、私が協調性のない人間だと、思う人はいなくなった。それだけでもとりあえずは進歩だろう。三者面談が終わった後の母は、少し安心したように上機嫌だった。



 アリアさんと初めて学校の外で会ったのは、梅雨入りの時期だった。父が休日出勤だからという理由で、母と普段めったに来ない、某ハンバーガーチェーン店に来ていた。そこでアリアさんと、彼女のお母さんとばったりと出会ったのだ。

 その日の店内は混雑していたし、せっかくだから同じ席で食べようという流れになった。席を確保し、一息ついたところで挨拶をする。

「Nice to meet you, I'm Yuna Nayuki in the same class as Aria-san」

(初めまして、アリアさんと同じクラスの名雪唯奈といいます)

「It's nice to meet you too, I've heard about you from Aria. It's an honour to meet you」

(こちらこそ、アリアから話は聞いています。お会いできて光栄です)

すらりとした長身は、おそらく私の父よりも背が高い。アリアさんと瓜二つといったところで、ハリウッド映画の主演女優のような美貌だ。周りに座っているお客さんたちが、ちらちらと彼女たちのことを横目に見ている。

 アリアさんはというと、私の母との話に夢中なのだろうか。口の端に、マスタードがついている。大人びた顔立ちなのに、それだけでどうしてか子どもっぽく見えた。私が指摘すると、すこし恥ずかしそうな表情をして、それから紙ナプキンで口を拭く。いつもより素の表情を見ているようで、何故だか浮足立つような気持ちだった。

 学校で給食を一緒に食べている時よりも、リラックスしていて楽しそうだ。そういえば、まだお箸を使えない彼女は、給食のときフォークやスプーンを使っていたことを思い出した。言語にしろ文化にしろ、周囲と違う点が多いと、やはり食事の時間でも気が抜けないのだろう。食事に気を遣わずに済む分、話したいことを気兼ねなく話せるのかもしれない。

 隣の席では、お互い中学生の娘を持つ母親同士、すっかり意気投合しているようだ。母の社交性が、心底羨ましい。私の母はCAをしている。海外の方の話すのは仕事から慣れているし、人と話すのが好きな性格だ。去り際には連絡先まで交換していた。私にも、母の性格が遺伝されていればと、この頃はよく思ったものだ。


 "今日はお会いできて良かったです。もしよろしければ、今度私の家に遊びに来てください"

昼食を食べ終わって、お店の前で解散するとき、アリアさんのお母さんがそう言ってくれた。両親が私に英語を教えてくれたことに感謝していた。

 帰り道の母は、珍しく上機嫌だった。学校で友人を作れずにいた、私を心配してくれていたかもしれない。彼女の転校は、最初は厄介ごとだと思っていた。だけど、人の縁というものは不思議なものだ。もしかすると、私はとんでもなく幸運なのかもしれない。そんなことを思うようになった。


 梅雨が明け、期末テストが終わった。計画的な勉強と、モチベーションの維持の甲斐もあって、どの教科も満足のいく結果となった。アリアさんも、慣れない日本の定期テストに果敢に挑み、何とか平均点以上は達成したようだ。彼女に配慮されて、問題文は平仮名と片仮名だったそうだが、それにしても大変だったことだろう。

 解放感に浸ったまま終業式を迎え、明日から夏休みに入る。ホームルームを終えると、彼女が下駄箱で私を待っていた。

「ねぇ、よかったら一緒に帰らない?」

ずいぶん流暢になったものだ。感心しながら彼女に返事する。

「うん、いいよ。帰ろっか」

梅雨が明けると、京都の夏がいよいよ本格化する。一刻も早く家に帰って、冷房の効いた部屋で休みたかったけど、夏休みに入れば、しばらくアリアさんとも会えなくなる。今日のうちに色々話しておこう。私もそんな風に思っていた。


 私たちは英語で話すときもあれば、日本語で話すときもある。ハンバーガーを一緒に食べた日からは、日本語で話すことの方が多くなった。10分も歩かないうちに、彼女の家に着いた。通学時間が短いのは羨ましい。家の前まで来ると、彼女はこう言った。

「夏休みの間、ユイナさんの都合がいい日に、私の家に来てくれないかな?夏休みの宿題をしながら、漢字をある程度読めるようになりたいんだけど、教えてくれる人が居なくて....」

「いいよ。私、基本的に暇だし。いつにする?」

「ありがとう。とりあえず今週の土曜日はどう?午後2時とか」

「分かった」

約束の後、連絡先を教えてくれないかと言われたが、この時はスマホを持っていなかった。学校にスマホを持って行くことは禁止されている。土曜日にスマホを持って行くことと、念のため家の固定電話の番号を伝え、この日は解散した。

 アリアさんたちとハンバーガーを食べた翌週に、母が私にスマホをくれた。でもほとんど使うことはなかったが、こうなることを予想していたのかもしれない。数週間ほど日の目を見ることがなかった私のスマホに、ようやく活躍の機会が来たようだ。


 来る土曜日、アリアさんの家に向かう。人の家のインターホンを鳴らすのは、なぜかは分からないが緊張する。初めて行く家なら余計だ。インターホンを鳴らすと、アリアさんが出迎えてくれる。ライトブラウンの綺麗な髪が、耳にかかるぐらいまでのショートカットになっていた。白のAラインワンピースも相まって、童話に登場するプリンセスみたいだ。

「久しぶり、髪切ったんだね」

「そうなの、日本の夏がこんなに暑いなんて思いもしなかった。思い切って短くしてみたんだけど、どう?」

「よく似合ってる。前よりもっと明るい雰囲気になった」

そういうと、アリアさんは得意げに笑っていた。早く入ってと、私を手招きする。

 まずリビングに入り、彼女のお母さんに挨拶する。冷房の効いた部屋に、シトラスの香りも相まって、天国のようだ。アリアさんは、部屋を掃除してくるからちょっと待っててと、階段を駆け上がる。

「Thanks for coming in the heat today. I'd like to help Aria with her studies, but the kanji are really difficult for her. I'm really glad you're here.」

(今日は暑い中、来てくれてありがとう。アリアの勉強を手伝いたいんだけど、漢字が本当に難しいの。来てくれて本当に嬉しい。)

アリアさんのお母さんが、こう言ってくれた。

「I'm glad I can be of service. I made a friend for the first time.」

(役に立てるなら何よりです。私も初めて、友達ができましたから。)

そういうと、彼女は微笑み、私の髪を愛でるように撫でた。聖母マリアのような慈悲深い瞳が、私を見下ろしている。

 それにしても広い家だ。できることなら、私もいつか、こんな一軒家に住んでみたいものだ。しばらく二人で話していると、アリアさんが2階から降ってきた。

「お待たせ。入ってきていいよー!」

「分かった!今行くね」

彼女の部屋に入る。まるで洋画に出てきそうな、温かみのあるインテリアだった。カーペットやカーテンの、暗めの紺色や緑色が、華やかでありつつどこか安心する。椅子に座り、彼女と向かい合った。スマホを取り出し、連絡先を交換する。試しにメッセージを送ってみる。それにしても、メッセージアプリというものは便利だ。文字だけでなく通話もできるし、画像や動画も共有できる。日本語を教えるのに、かなり使えそうだ。

 問題文が日本語なので、夏休みの宿題の進捗が芳しくないようだ。誰かの宿題を手伝うなんて、以前の私なら考えられなかっただろう。でも、懸命に日本の学校に慣れようとしている姿を見て、力になりたいと思っていた。

 いや、アリアさんと仲良くなりたいという下心もあったのかもしれない。とにかく楽しそうに日本語を勉強するアリアさんを、自分なんかで良ければ協力したい。そう思っていたことだけは確かだった。2時間ほど経ったところで、さすがに二人とも疲れてきた。1階のリビングに行くと、彼女のお母さんが、アフタヌーンティーを用意してくれた。焼きたてのスコーンに、香りのいいダージリンが本当に美味しい。これが本場の味というやつなのだろうか。一通り食べ終えると、そのままリビングで勉強の続きをすることになった。宿題のプリントを囲み、学校の話をする。後半は3人で話すことに夢中で、あまり進まなかった気がする。それでも今日の3時間弱で、かなりの進捗になった。この調子でいけば、余裕をもって宿題は終わると思う。17時のチャイムが鳴る。夏の西日がリビングに差し込む。まだ日は明るいけど、18時には帰宅してほしいと母が言っていたことを思い出す。

「I think it's time for me to take my leave.」

(そろそろお暇させていただきます)

「Thank you so much for today. Come back and visit again if that's ok with you.」

(今日は本当にありがとう。もしあなたさえよければ、また遊びに来て。)

「Yes, I will visit again soon if you don't mind.」

(はい、よければまた近いうちにお邪魔します。)

アリアさんのお母さんにそう言って一礼する。

「また来てね!」

相変わらず外は暑いのに、アリアさんはわざわざ玄関まで来て、私にそう言った。

「うん、私はだいたい暇だから。いつでも連絡してね」

それだけ伝えて、私は手を振った。夕暮れを眺めながら、一人とぼとぼと歩いて帰路につく。次行くときは、お茶用のお土産を何か持っていこう。和菓子がいいだろうか。アリアさんも彼女のお母さんも、日本の食べ物は何もかもが美味しいと言っていた。餡子は苦手な人は、一定の割合でいる気がする。お団子なんかがいいだろうか。そんなことを考えていると、あっという間に家に着いた。早速お母さんに相談しよう。

 それからだいたい3日に1度ぐらいのペースで、アリアさんの家に行くようになった。宿題をある程度やり終えてから、アフタヌーンティーをしたり、リビングのテレビで、3人で日本の映画を見たりした。勉強熱心なところも、呑み込みが早いところも、親子そっくりだ。宿題を通じて日本語を教えたり、逆に英語を教わったり、映画を観たりした。これほど楽しい夏休みは久しぶりな気がする。

 

 アリアさんのお母さんは、元々植物に関する研究を、大学でしていたらしい。日本への引っ越しを機に、研究員をやめてしまったそうだ。今でもその名残で、家庭菜園が趣味らしく、裏庭には様々な植物が植えられていた。

 裏庭のバジルを摘んで、エビとアボカドのパスタをご馳走になったのも、この夏だった。あんなに美味しいパスタは食べたことない。夏休みの昼食は、両親とも仕事で家にいないので、基本一人で食べているからだろうか。途中からは、アリアさんの家で食べる昼食が、彼女の家に行く目的の半分ほどを占めてしまったかもしれない。今となっては時効だと思うので、素直に白状しておこう。

 

 きっとこの時の私は、アリアさんやアリアさんのお母さんが与えてくれる、安らぎとか楽しい時間に、縋りついていた。こんなことを考えてしまうのも失礼かもしれないが、アリアさんの家庭は、私の家庭よりも裕福なんだと思う。アリアさんのお父さんは仕事が忙しいみたいで、あまり家にいないようだけど、それでも都市近郊にこんな立派な一軒家を借りられるんだ。お母さんは専業主婦ができるみたいだし、この家の空気は穏やかで温かい。

 私の両親も、私のことを大切に考えてくれるいい親だと思う。だけど、二人とも生活のための仕事に追われていて、いつも疲れている。父は大学の講師だけど、世間のイメージ程安定した仕事でもないらしい。夜遅くに帰ってくることも珍しくないし、雑務ばかりで自分がしたい研究が思うように進まないと、愚痴をつぶやくことも珍しくない。家にいるときは、疲れきった目元を抑え、お湯で温めたタオルを当てている。眼精疲労が年々祟るらしい。

 仕事から帰ってきた父の目元は、中学1年の頃の担任の先生のそれとよく似ていた。教育に従事する人たちの待遇が改善されることは、どうやらまだ先のことらしい。アリアさんに勉強を教えるのは楽しいけれど、将来の仕事にするかどうかは考えものだ。

 母は私が中学生になったタイミングで、キャビンアテンダントに復職した。それでも過酷な上に、お給料もそれほどもらえないみたいだ。

 去年の夏休みは、家で一人本を読んだり、ピアノを弾いてばかりだった。外は暑いし、一人の方が気楽だったけど、その分味気なかった。だけど、今年は違う。叶うことなら、毎日のようにアリアさんの家に行きたいぐらいだった。

 そういえば、私が時々持って行った和菓子を、アリアさんも彼女のお母さんも心底喜んでくれた。私がみたらし団子と、緑茶のティーバックを持って行ったときは、意気揚々と準備をしてくれた。みたらし団子は大変好評だったが、緑茶特有の苦みや渋みは、どちらかというと困惑していたように見えた。お湯で薄めにするぐらいが、彼女たちには飲みやすいようで、それでも慣れ始めるとこれはこれでありだと言ってくれた。もし、読者の皆様が、外国の方に日本のお土産を渡す機会があれば、和菓子は個人的におすすめだ。

 アリアさんが宿題を全て終えたころには、2学期が始まろうとしていた。相変わらず猛暑は続いている。もうすぐ学校に行かなければいけないのかと思うと、ちょっと憂鬱だった。文化祭やら体育祭やらのイベントが、私はどうも苦手だ。文部科学省の学習指導要領というものがあるらしく、参加は必須らしいが、せめて任意性にして欲しいと願っている。同調圧力というか、誰かが勝手に決めた目標に向かって、みんなで頑張らなければいけないみたいな雰囲気が、私には性に合わなかった。各自好きなことをして、頑張りたいことだけ頑張ればいいと思うのは私だけだろうか。

 8月31日はだいたいこんな気分になっている。私は小学校の友人と同じ、私立の中学校には行けないし、両親や先生の言うことには素直に従わないといけない。明日になれば猛暑の中、歩いて学校に行かなければいけないし、好きな時間に好きなことを気ままにできるはずもない。憂鬱なことをぐるぐる考えていると、余計に目が冴えてしまう。ふと、アリアさんの声が聞きたくなった。明日彼女に会えることだけが、唯一の気休めになるような気がした。


 夏休み明けの初日の登校日、ショートカット姿のアリアさんは、クラスの女子たちに囲まれていた。この時には、私の通訳が必要ないぐらい、日本語を話せるようになっていた。

 夏休み期間、私の気象時刻は10時前後だった。猛暑の中歩いて、教室にたどり着くのが、私にはやっとだった。朝から楽しそうに会話できる彼女たちが羨ましい。

 アリアさんはクラスの女子たちと意気投合して、文化祭の実行委員をすることになったようだ。私の学校では、文化祭は合唱をやることになっている。放課後に机を下げて練習するのが面倒だと思っていたら、今年は私が伴奏を依頼された。このクラスでピアノを弾けるのが私ぐらいしかいないらしい。まぁ、歌わずに済むならそれでいいか。小学校のときも、何回かピアノの伴奏は経験がある。"私でよければ"と了承し、その日から伴奏の練習をするようになった。音楽室でも、家でも、暇があれば合唱曲の練習をしていた。時々アリアさんが様子を見に来ては、こんなに指が早く動くものなのかと不思議そうにしていのが、ずいぶん面白く思えた。ちょっと得意げだったのかもしれない。

 ピアノにしろ英語にしろ、教育熱心な両親が教えてくれたことが、こんな形で役に立つ日が来るなんて思いもしなかった。黙々と打ち込めることがあるのはいいことだ。

 この学校では、体育祭と文化祭が連続2日間開催される。夏休みが明けてすぐに、2週間ほど準備期間が設けられ、体育祭と文化祭を1日ずつ行う。確かにその方がイベントを一度に済ませることができるし、保護者の方も参観しやすいのかもしれない。それでもこの猛暑の中、グラウンドと教室を往復するのはかなり体力を消耗する。日本の夏に慣れていないアリアさんは、体育祭の練習の時に、一度熱中症になりかけてしまった。急いで保健室に行ったので軽症ではあるようだ。正直このイベントは11月ぐらいにやるのがいいのではと思ってしまう。

 保健室のベットで横になるアリアさんを、パイプ椅子に座って見ている。今日は特に暑いようで、もう一人具合の悪い生徒がいるようだ。こんな猛暑日なら、屋外に出るのを中断すればいいのに。養護教諭の方は忙しいみたいなので、しばらくアリアさんの様子を見ていることにした。グラウンドに戻るのが嫌なのが半分、アリアさんが心配なのが半分といったところだ。

「ごめんね唯奈さん。心配かけちゃって」

「いいよ、無理に起き上がろうとしなくて。私もさぼりたかったし。こんな暑い日に外で運動させようなんて思う方が異常なんだから」

私がそういうと、彼女は少し微笑んで眠ってしまった。透き通るような真っ白な肌が、今は少し赤くなっている。この学校への順応が早かったからか、時々彼女が外国人だということを忘れてしまう。奥二重の瞼と長いまつ毛を、ただじっと見つめていた。しっかり者のアリアさんが、私に弱っている姿を見せてくれる。それが、どうしてか少し嬉しかった。この気持ちは、母性本能と呼ぶだろうか。間違いなく、人生で初めて抱く感情だった。

 公立中学校の指導なんて、どこもこんなものなんだろうなと、半ば諦めたような気持になる。炎天下の中グラウンドで運動しなければいけないのも、たいして好きでもない曲のピアノ伴奏を練習させられるのも、先生に絶対的な正義があって、生徒はそれに従わないといけない。まぁ、ピアノの伴奏はそれなりに楽しいから別にいいけども、せめて気温が30℃以上を超えたら、屋外の運動は自由にするとかにした方がいいんじゃないか。当時はそんなことを考えていた。ちなみに大学生になってから、ふと思い立って検索してみると、そういうガイドラインがつい最近できたそうだ。もっと早くこうなっていれば、アリアさんはこんな風にならなくて済んだのかもしれない。

 20分ほどベットで横になっていたら、一応回復したようだ。大事をとって早退することを養護教諭の先生に勧められると、"この後合唱の練習があるから、教室に戻りたい"なんて言い始めた。熱心なのは結構だが、今は休養を優先して欲しい。まだ本番まで時間はあるから、今日は休んでほしいと、何とかアリアさんを説得した。

 翌日以降、彼女はサングラスに防止、アームカバーなど万全の対策をして準備に参加していた。一見すると、子どものスポーツ観戦に来たお母さんみたいなファッションだけど、アリアさんが同じ格好をすると、モデルのオフショットみたいに見える。このまま某アパレルメーカーの広告に起用しても、何の違和感もない。意味もなく派手な水色の、この学校のハーフパンツを着こなせるのは、もはやアリアさんぐらいかもしれない。

 昨日のことが、よほど悔しかったのだろうか。そんなに頑張ることのほどでもないのに。きっとアリアさんは、こういうイベントごとが好きなのだろう。合唱の練習をしているときも、体育祭の準備をしているときも、いつになく生き生きとした表情をしている。去年は消極的だったけど、今年は楽しんでみてもいいかもしれない。彼女を見ながら、そんなことを考えていた。

 

 こういう行事っていうのは、準備期間は果てしなく長いように感じるけど、終わるのはあっという間だ。私が文化祭で伴奏をすると言うと、母は忙しい中休みを取って見に来きた。子どもながらに、親に勉強以外でいいところを見せられて安心していた。クラスメートや先生たちにも、それなりに感謝された。運動音痴な私は、体育祭では散々足を引っ張ったようだけど、自分なりに努力はしたつもりなので、どうか大目に見て欲しい。

 そういえば、アリアさんは体育祭で大いに活躍していた。クラスのリレーでも順位を二つほど上げていたし、個人種目では1着だった。

「私テニスやってたし、体を動かすのは好き。本当は部活もやってみたかったんだけどね」

「やってみたらいいんじゃない?今からでも遅くないと思うけど」

「うーん、今はまだいいや。勉強しなくちゃいけないことも多いし、運動するだけなら、部活じゃなくても今はいいかな」

体育祭の時、応援席でこんな話をしていた。彼女の学習速度を考えれば、別にこの学校の部活をしたぐらいでは、問題ないと思う。ここ半年ぐらいで、日常会話はほぼできるようになったし、漢字の読み書きも、小学校低学年レベルなら遜色ないレベルだ。もともと賢い人なので、私が知らないようなこともたくさん知っているようだし、数学や理科の知識に関しては、私より長けている。

「もし日本の高校に通うなら、高校でやってみればいいんじゃないかな。アリアさんならきっと楽しめると思う」

そう言うと、彼女は少し驚いたような顔をした。

「唯奈さんってどこの高校に行こうとか、考えてるの?」

「あんまり考えてないけど、たぶん××高校かな。このあたりの公立高校なら一番進学実績のある高校だと思うし、私の家からも近いからね」

「私でも行けるかな?その高校」

「今のペースで勉強してたら、きっと大丈夫じゃないかな。定員も多いし、倍率も高くないから。私でよければ、多少力になれるし」

「じゃ、お願いしようかな!唯奈さんは教え方が上手だから」

中学2年生の頃から受験を意識している人は、この学校ではきっと少数派だ。彼女はもともと頭がいいし、飲み込みも意欲も高い。内申点がどう影響するのかはよくわからないけど、アリアさんと同じ高校に行けるなら、私としても心強い限りだ。

「行けるといいね、同じ高校」

私がそういうと、彼女は少し驚いて、それからにっこりと笑った。


 体育祭のテントを片付けるアリアさんを、遠目で見ていた。ライトブラウンのショートヘアが、夕暮れの涼しい風に揺れている。京都の夏なんてろくでもない。気温も湿度も高いのに、大会だの体育祭だのと理由をつけて、なぜか皆運動したがる。私のようなインドア派な人間からすれば、到底理解できない。

 だけど、こうやってアリアさんの新しい一面を知ることができるなら、夏も案外悪くない。そんな風に、考えてみることにした。


 私と高校受験の話をした日から、アリアさんはより一層熱心に勉強に励むようになった。定期テストの時は、よくアリアさんの家に行って一緒に勉強した。休みの日は日本語を勉強するために、図書館で本を借りたり、日本語の映画を字幕付きで見たりしているそうだ。冬休みの宿題も手伝ったし、彼女が塾に通い始めたのもこの時期だった。

 アリアさんと過ごす時間は、去年とは比べ物にならないぐらい、あっという間に過ぎていった。授業を受けて、休み時間は一人で本を読んで、休みはほとんど部屋で過ごしていたあの頃よりもずっと楽しかった。

 アリアさんがクラスメートと仲良くなっていく様子を見て、自分が興味のないことでも、知ろうとする姿勢を相手に見せることが、案外重要なのだと気づいた。言葉も文化も習慣も違うのに、むしろ違うからこそ互いに歩み寄ろうとする相手に、人は自然と心を開こうとするのかもしれない。そうなれば理解や共感なんてものは、後からついてくる。

 中学1年生は、間違いなく私の氷河期だった。思い返せることと言えば、教室で本を読んでいたことと、家で好きな曲を弾いていたことぐらいだ。基本1人だったし、誰かとの思い出というものが存在しない。気楽だったけど味気なかった。だけど、アリアさんがこのクラスに転校してきてくれたおかげで、今は毎日が少しづつ光に照らされている。私も、アリアさんを少しは見習おう。一人でいることは気楽だ。だけど、面倒でも他人を知ろうとすることは、それなりに有意義なはずだ。彼女を見ているとそんな気がする。

 

 私の氷河期は、緩やかに終わりを告げた。彼女は、私の夏だった。

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