第3話

重厚な石造りの威容を誇り、王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊の兵舎がそびえ立っている。

円筒形の塔がいくつも空に向かって伸び、それらを繋ぐように高い城壁がどこまでも続いている。

その堅牢な佇まいは、幾度もの改修を経てなお、その威容を保ち続ける古城のようであり、千年の風雪に耐えてきた歴史の重みが、ずしりと私の肩にのしかかってくるようだった。

陽光を受けて鈍く輝く石のひとつひとつが、幾多の戦いと兵士たちの息遣いを刻み込んでいるように、静かに語りかけてくる。


「何度見てもこれは凄いな」


隣を歩くヨレンタに、思わずといった調子で感嘆の声を漏らした。

だが彼女は、そんな私の感慨などどこ吹く風といった様子で、いつもの無表情を崩さず、「ですね」と短く相槌を打っただけだった。


門へと続く、磨り減った石畳を踏みしめながら、私は話を始めた。


「私が王都スタルボルグを初めて訪れたとき、父上に頼み込んで真っ先に向かったのがここだったのだ。あのときの興奮は、今でも忘れられない」


理由は言うまでもない。

この場所が、あの有名な歌劇『レグバイダー』の舞台となった兵舎だったからだ。


「第一連隊の兵舎は、およそ千年の歴史を持ち、もともとは外郭城として築かれたそうだ。ユサール王国では、我がハイザ家のソルトラン城に次いで古い建築物だと聞いている。伝説によれば、この第一連隊は王国で最初に組織された常備軍とされている。いわば、王国軍の原点にして至宝だ。ヨレンタ、貴殿も知っているだろう? あの有名な騎士物語『レグバイター』に登場する女騎士、マグネッタを。彼女が組織した騎士団こそが、後にこの第一連隊の礎となったと言われている」


「また『レグバイター』ですか? 貴族様ほど古典に精通しておりませんので」


ヨレンタは、私から何度となく聞かされてきたその物語の名に、内心うんざりしているのがありありと見て取れた。

それでも彼女は、あからさまな態度には出さず、あくまで事務的な口調で応じた。


『レグバイター』は、女騎士マグネッタの壮大な物語だ。

私はこの物語が大好きで、王都の劇場で上演される歌劇にも、もう何度足を運んだか分からない。

特に、マグネッタと王妃アンネリースとの、身分違いの許されぬ恋、そして戦乱の中で交錯する二人の運命は、何度観ても涙なしにはいられない。


平民の出ながら、その武勇によって騎士となり、愛する人を守るために戦うマグネッタの姿は、私にとって騎士としての理想そのものだ。


そして、この第一連隊の兵舎には、物語に登場する伝説の剣『レグバイター』が、どこかに封印されているという言い伝えもある。

真偽のほどは定かでないが、そう思うだけで、胸が高鳴るのを抑えられない。

許されるのならいつか本当に探してみたい、そう思ってしまう。


まぁ、さすがにそれを口にするほど、私は子供ではないつもりだが。


余韻に浸る間もなく、兵舎の正門に設けられた門番所が眼前に迫った。

まるで城壁の一部であるかのように、厳つい顔つきの女性門番が二人、微動だにせず立哨している。

その鎧は磨き上げられ、手にした長槍は陽光を反射して鋭く光っていた。

私たち二人を射抜くようなその眼光は、一切の油断も妥協も許さぬ、第一連隊の厳格な規律そのものを体現しているかのようだった。


時折、姉上は実家に帰った際、第一連隊の堅苦しさを愚痴っていた。

彼女たちの姿を見れば、それも無理からぬ事と思える。

イングリッド姉上は、こうした硬直した空気を何よりも嫌う人なのだ。


「シグリッド・ハイザ中尉、並びにヨレンタ・カレンタ曹長。連隊長閣下より、貴官らの到着次第速やかに出頭せよとの命令である! 遅滞は許されん!」


門番の一人が、腹の底から響くような野太い声で告げた。

その言葉には、単なる命令伝達を超えた、有無を言わせぬ威圧感が込められていた。

私は自然と背筋を伸ばし、胸を張って「承知した」と応えた。


いよいよ、姉上・・・。

イングリッド・ハイザ連隊長との再会だ。

期待と、そしてほんのわずかな緊張が入り混じった、複雑な感情を胸に抱えながら、私とヨレンタは重々しい空気の漂う連隊長室へと向かった。


長く続く廊下は、隅々まで磨き上げられ、私たちのブーツの音だけが規則正しく反響している。

すれ違う兵士たちは皆、一様に引き締まった表情で、寸分の隙もない敬礼をしてきた。

その所作の練度は第二連隊とは明らかに異なる、厳格な鍛錬の成果を感じさせるものだった。


連隊長室の扉は、他の部屋のものよりも一際大きく、重厚な木材で作られていた。

扉の前で一度深呼吸をし、私は意を決して扉をノックする。

ややあって、室内から入室を促す声が聞こえた。


「シグリッド・ハイザ中尉、入ります」

「ヨレンタ・カレンタ曹長、入ります」


一歩足を踏み入れた瞬間、隣のヨレンタが小さく息を呑む気配を感じた。

無理もない。

そこは、およそ軍の施設・・・。

それも、王国最精鋭の部隊長が執務を行う部屋とは思えぬほど、


メルヘンチックで、甘美な空間だった。


壁一面は柔らかなパステルピンクに塗られ、大きな窓には幾重にもフリルをあしらったレースのカーテンが風に揺れている。

部屋の中央には、白い猫足の華奢なテーブルと椅子が置かれ、その上には可憐な花柄のティーカップが、まるでお茶会の開始を今か今かと待っているかのように並べられていた。

部屋の隅には、私の背丈ほどもある巨大なクマのぬいぐるみが、にこやかな笑みを浮かべて鎮座している。


およそ「連隊長室」という言葉から想起される厳格さや質実剛健さとはかけ離れた、徹底的に少女趣味で統一されたガーリーな内装に、ヨレンタはただ唖然とし言葉も出ないようだった。


私はというと、姉の常軌を逸した趣味をよく知っていたため、装飾の内容自体にはさほど驚かなかった。

幼い頃から、姉の部屋は常にこのような、現実離れした愛らしさで満ちていたからだ。

だが・・・、まさかユサール王国軍、その中でも最強を誇る王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊の、しかもその頂点に立つ者の執務室までもが、ここまで徹底してガーリーに彩られているとは。


正直、想像の斜め上だった。


さすがの私もわずかな驚きと、それ以上の底知れぬ呆れを感じずにはいられなかった。

姉上の美意識は、時として常識という壁を槍を使い棒高跳びで越えていく。


「シグリッドちゃん、来てくれてありがとう。 まずは美味しいお紅茶でもどうかしらぁん?」


部屋の奥、ひときわ豪華な、天蓋でもつきそうな勢いのレースがあしらわれた豪奢な椅子に深く腰かけていたイングリッド姉上が、まるで小鳥がさえずるかのような猫なで声で私たちを出迎えた。

その甘ったるい口調と裏腹に、軍服の上からでもはっきりと分かるほどに鍛え上げられた、彫刻のような肉体とのアンバランスさが、異様なそして抗いがたい迫力を醸し出している。

姉上は、その気になれば素手で鉄格子をも捻じ曲げかねないほどの怪力の持ち主だ。


「いえ、連隊長殿。お気遣い痛み入ります。ですが、まずはご挨拶を」


私が努めて冷静に、軍人としての礼節を保った口調で返すと、イングリッド姉上は途端に、まるで捨てられた子犬のように悲しそうな表情を浮かべた。

その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。


「うぅ・・・連隊長だなんて、そんな他人行儀な呼び方、あてぃしの可愛いシグリッドちゃんが、手の届かない遠い所へ行ってしまったみたいで寂しいわ。お願い、昔みたいに、お姉ちゃんって呼んでちょうだい? ね?」


私は、わざとらしく潤む姉の瞳から逃れるように、そして込み上げてくる大きなため息を押し殺すように小さく息をついた。

この人は、いつまで経ってもこれなのだ。

それ以前に、そもそも姉上を『お姉ちゃん』と呼んだ事は一度も無いのだが。


「では、姉上。私は今、職務中です。私はハイザ家の三女としてではなく、王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊特務中隊中隊長として、この場に罷り越しております。いつものように姉上に無条件に甘やかされては、ハイザ家の七光りと陰口を叩かれかねません」


「もう、シグリッドちゃんは堅いわねぇ。ここにはあてぃし達しかいないのにぃ。あてぃしの大事な大事な最愛の妹が来てくれるっていうから、あてぃしのとっておきの最高級のお茶と、世界で一番可愛いお部屋を用意して待ってたっていうのにぃ。お姉ちゃんは悲しいですぅ。あまりの悲しさに、今すぐ窓から槍を投げてしまいそうです」


わざわざこの日のためだけに、この部屋を改装したというのだろうか?

いや、姉上なら本当にやりかねない。

姉上とは、そういう女性なのだ。


見渡せば、部屋の調度品はどれもこれも、まるで昨日、工房から運び込まれたばかりのように新品同様で、あまりにも綺麗すぎる。

つまりこれは、私との面会に合わせて急ごしらえで設えられたものに違いない。


その労力と費用を思うだけで、眩暈がしそうだった。


おそらく、この内装一式はハイザ家の予算から必要経費という名目で、姉上の趣味費として処理されたのだろう。

またしても、家計を預かる執事が卒倒する羽目になるに違いない。

勘弁してほしい。

愚痴られるのは、どうせ私なのだから。


「おやめください、姉上。以前、姉上がひどい八つ当たりをして、ご自宅の窓という窓から手当たり次第に槍を投げまくり、街の風車という風車を、ことごとく粉微塵に破壊した事件を、もうお忘れになったのですか? あの時の領民の怒りは凄まじく、アストリッド姉上と父上がどれだけ頭を下げて回った事か・・・」


「あら、あんな風の通り道に、壊れやすい風車なんかを建てておく方がどうかと思うわ」


「またそのような事を・・・」


イングリッド姉上が、ぷいとそっぽを向いてむくれると、部屋の隅に彫像のように控えていた女性が、軽く咳払いをした。


彼女はラーニャ・ステン。


姉上の幼馴染であり、片時もそばを離れない腹心中の腹心。

冷徹のラーニャの異名を持ち、四天王の中でも異色の存在。

姉上の暴走に唯一、楔を打ち込める“理性の番人”とも言える女性だ。

腰まで届く銀灰色の髪は一糸乱れずまとめられ、鋼色の瞳は一切の感情を映さない。

その名の通り、常に冷静沈着で鉄面皮な彼女の姿を、私は幼い頃からよく知っている。

もしかすると姉上が唯一、少しだけ使相手かもしれない。


姉上は、不満げな目でラーニャを見やった。

それは、話が本題から逸れているという、ラーニャからの無言の圧力だった。


イングリッド姉上は、長身かつ筋骨逞しい体つきをした、王国軍でも指折りの武人だ。

軍服の上からでも一目で分かる鍛え上げられた肉体は、戦場を蹂躙するためにこそあるような、威風堂々としたものだった。

にもかかわらず、その姉上が、ぷうと頬を膨らませ、「ぶーぶー」と幼子のように不満を漏らしたのだ。


はたから見れば、実にちぐはぐで、思わず二度見してしまいそうな光景だった。


実際、隣のヨレンタは、硬直したような顔で姉上を見ている。

無理もないだろう。

これが、彼女にとっての初対面なのだから。


私はといえば、あまりにも見慣れた光景だったため、特に驚きはなかったが・・・。

第三者の目から見れば、さぞかし困惑を禁じ得ない場面だっただろう。


そんな空気を、鋭い視線一つで断ち切ったのがラーニャだった。

姉上が観念したように、小さく肩をすくめると、場の雰囲気はようやく落ち着きを取り戻した。


「仕方ないわぁん。可愛い妹との愛に満ちた姉妹の睦み言は、また今度。夜通しゆっくりと楽しむとしましょうねぇ」


次の瞬間、イングリッド姉上の纏う空気が一変した。

先ほどまでの甘えを含んだ少女のような顔つきがすっと消え、一切の油断も隙も許さない、冷徹な軍人の顔へと切り替わる。


琥珀色の瞳が鋭く細まり、まるで獲物を捉える鷹のような光を帯びた。

その視線が私に注がれた瞬間、思わず背筋が伸びるのを感じる。

幼い頃から慣れ親しんだ姉のはずなのに、軍人としての彼女が放つ威圧感には、思わず襟を正さずにはいられなかった。

その変化はあまりにも鮮やかで、まるで仮面を付け替えたかのようだった。


これが、イングリッド・ハイザなのだ。


普段はひょうきんで、誰に対しても肩の力が抜けたような態度をとっている。

だがひとたび軍人としての顔を見せれば、その存在感は別格だった。

言葉にせずとも、有無を言わせぬ威圧と、確固たる指揮官の風格を放っている。


「では、シグリッド・ハイザ中尉。貴官に通達する」


それは、先ほどまでの甘えた声とはまるで別人のものだった。

低く、澄んだ声が腹の底に響き、豪奢な装飾に包まれた室内の空気を一瞬で凍らせる。

凛としたその声音には、疑念も冗談も一切混じっておらず、ただ粛々と命を下す者としての威厳だけがある。


「本日付を以て、貴官は正式に王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊、特務中隊長に任ずる。特務中隊の編制に伴い、第二大隊第三中隊所属・第四小隊を特務中隊第一小隊に、第一大隊第一中隊所属・第一小隊を特務中隊第二小隊に、それぞれ編入するものとする。両小隊の指揮・運用に関する全権限は、すべて中隊長たる貴官に一任される。本通達は、ユサール王国軍法及び第一連隊規則に基づき、第一連隊連隊長の絶対的な裁定をもって、即刻施行されるものとする。以後、貴官は特務中隊を預かる者として、第一連隊の総力を挙げての作戦行動において、その一翼を担う極めて重大な責任を負う事となる。心して任務に当たられたし」


「任命、謹んで拝受いたします。王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊特務中隊中隊長として、与えられた任務の完遂に、我が身の全力を尽くす所存であります」


私が力強く、明瞭にそう応えると、イングリッド姉上の表情がふわりと和らいだ。

先ほどまでの鋼のような厳しさがすっと引き、いつもの優しい姉の顔がそこに戻ってくる。

その変わり身の早さには、もはや驚きもしない。


「ようこそ、シグリッドちゃん。あてぃしの可愛い妹と、こうして同じ職場で働けるなんて、お姉ちゃんは夢みたいにとっても嬉しいわぁん。これから毎日一緒よぉ」


「私もです、姉上。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」


「もう、シグリッドちゃんったら、堅苦しいんだから。お姉ちゃんでしょ?」


イングリッド姉上が、子供のようにぷんぷんと頬を膨らませて拗ねてみせた。

年齢や立場を思えば、その仕草はあまりにも無邪気でどこか場違いにすら思える。

だが私は、そんな姉の変わらぬ一面に、恥ずかしさを覚えつつも不思議と心が和らぐのを感じていた。


この人が姉で良かったと、自然と思える瞬間だった。


イングリッド姉上との、ある意味でいつも通りのやり取りが一段落し、室内の空気がわずかに和らいだその時だった。

まるでその瞬間を待っていたかのように、副官のラーニャが静かに一歩、前へと進み出る。


彼女は、これまでの沈黙が嘘のように、淡々とした声で話し始めた。

感情を一切交えず、しかし軍人らしい厳格さをきっちりと帯びた、冷静で無駄のない口調だった。


「シグリッド・ハイザ中尉。明日、貴官に配属される二個小隊の各小隊長と、個別面談を実施してください。面談場所は中隊長専用室。午前・午後にそれぞれ一名ずつの予定です。以上」


その声には、私情を挟む余地など微塵もなかった。


翌日、第一連隊兵舎内の一室。

新たに私に与えられた中隊長専用室は、昨日の姉上の部屋の喧騒が嘘のように、しんと静まり返っていた。


まだ正式な配属を受けたばかりのため、室内には執務机と硬そうな椅子が数脚あるのみ。

壁は素っ気なく、床も丁寧に磨かれてはいるものの、どこか冷たさを感じさせる。

調度も装飾も一切ない。

まさに質実剛健な空間、悪く言えば殺風景そのものだ。


だが、私にとってはむしろ理想的だった。

余計なものがなく、思考の妨げもない。

これこそ、軍人にふさわしい仕事場だと感じていた。

姉上の部屋のような、派手で賑やかな空間も嫌いではないが、執務に集中するなら、やはりこうでなくては。

部屋の隅では、副官となったヨレンタが、山積みの帳簿や、文字のびっしり詰まった資料を、黙々と驚くような手際で整理していた。

彼女は何も言わず、静かに、正確に手を動かしている。

その集中ぶりには、時として感嘆させられるものがあった。


「面談って、具体的に何を聞けばいいんだろうか・・・」


ぽつりと独り言のように漏らした私の声に、隣で記録用紙を淡々と確認していたヨレンタが、手を止める事なく、ちらりと冷ややかな視線だけを寄越した。


「中隊長の裁量です」


ぶっきらぼうな口調に、わずかな皮肉がにじんでいる。

それきり、彼女は何事もなかったかのように視線を帳簿へ戻した。

相変わらず、あの無表情な横顔からは感情が読み取れない。


「裁量って言われても・・・。貴殿なら、何を聞く?」

「私は貴族様ではありませんので、そのような身分には就けません」

「そういう意味じゃなくて・・・、まあいいわ。いつか、つかせてみせるから」

「無理でしょう?」


あまりにも即答すぎて、こちらが呆れるほどだった。

私が軽く頭を掻き、弱音ともつかない言葉を口にした、その時だった。


控えめでありながら、はっきりとしたノックの音が、静まり返った室内に響いた。

返事をするよりも早く、扉がゆっくりと開く。


「特務中隊第一小隊、小隊長。アニカ・ベルグリンド騎士。入室いたします」


凛とした、涼やかな声とともに、一人の女性騎士が静かに入室してきた。

背筋を伸ばし、動きはきびきびとしていて、礼儀も隙がない。

だが、どこか控えめな雰囲気をまとっていた。


私の視線は、自然と彼女の軍服に向かう。

一見して丁寧に手入れされてはいるが、袖口や裾には微かな擦れがあり、布地には幾度となく洗濯を繰り返した跡がある。

新品ではない。

それでも清潔に保たれ、着こなしにも乱れはなかった。

むしろ、その一着を大切に着続けてきたという事実が、彼女の誠実な人柄を物語っているようだった。


きっとこの人は、平民なのだろう。


ユサール王国において、軍服は高価な品である。

貴族であれば何着も用意し、式典用と訓練用とで使い分ける事ができる。だが、平民にはそうはいかない。

実際、第二連隊では平民出身の士官たちの軍服は、色褪せ、よれよれで、ほころびすら放置されている事も少なくなかった。

だが、彼女のそれは違う。

使い古されてはいるが、ほつれ一つなく、丁寧に整えられている。

そこには、階級に関係なく、自らの誇りを服に宿すような、静かな矜持があった。


飾り気のない姿が、かえって彼女のまっすぐな性格と、胸に秘めた強さを際立たせている。

静まり返っていた室内に、ピリッとした緊張感が生まれるのを、私は確かに感じていた。


「第一小隊長、アニカ・ベルグリンド騎士。ようこそ、特務中隊へ・・・と、言いたいところなのだが」


言いかけて、私はほんの少し言葉を濁した。

昨日の今日で、特務中隊に関する情報はほとんど与えられていない。

取り繕ったところで、すぐに見抜かれるだろう。

彼女は実に賢そうだ。

ならば、最初から正直に伝えるべきだ。


「まず初めに、率直に申し上げておかねばならない。私は昨日、第二連隊から異動してきたばかりで、この第一連隊の内情についても、そして特務中隊に与えられた具体的な任務についても、実のところ、まだ何も知らされていない」


アニカ・ベルグリンドは、私のあまりにも率直すぎる。

そしてある意味では情けない告白に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


整った顔立ちに浮かんだ驚きと困惑は隠しきれず、返答に困ったように「はぁ・・・」と、ほとんど音にもならない吐息が漏れる。

わずかに肩が落ち、伏せた睫毛が小さく震えたのが分かった。

無理もない。新しく着任した中隊長が、いきなりこんな事を口にするとは夢にも思わなかっただろう。


だが、彼女はすぐに気を取り直した。

その銀灰色の瞳に再び意志の光が宿り、まっすぐに私を見据える。

忠誠心に篤い彼女は、たとえ一風変わった上官であっても、その言葉を真摯に受け止めようとしているようだった。

その切り替えの早さには、やはり第一連隊の小隊長としての矜持を感じた。


「だからまず、貴公の事を知りたい。部下の事を何も知らずに、指揮など取れるはずもないからな。申し訳ないが、貴公の経歴に関する書類も、まだこちらには正式には届いていなくてな。何分、急な異動だったもので」


アニカは小さく頷くと、一礼し、背筋をまっすぐに伸ばして姿勢を正す。

そして、落ち着いた声で、わずかに緊張をにじませながら口を開いた。


「はい。改めて、自己紹介させていただきます。このたび、特務中隊第一小隊の小隊長を拝命いたしました、アニカ・ベルグリンドと申します。私はエイキルンドル女爵領の生まれで、平民の出身にございます。王都スタルボルグの王妃近衛重装長槍騎兵第一連隊に所属し、今年で五年目になります。騎士爵を賜りましたのは、本年一月の事。そして、小隊長に任じられましたのは、同じく三月でございます」


「そういえば、先ほど入室の際にも“騎士”と名乗っていたな。平民のご出身と伺ったが、そのご経歴で騎士爵を賜るとは・・・。うん、すごい事じゃないか。私はまだこの第一連隊の事情には明るくなくてな。差し支えなければ、その叙勲に至った経緯をお聞かせ願えないだろうか」


「えっ?あ、はい。もちろんです」


アニカは、ほんのわずかに目を見開いて私を見た。

何かまずい事でも言っただろうか?

ひょっとして、複雑な事情があるのか?

その反応に一瞬戸惑ったが、理由は分からない。

だが、彼女はすぐに気を取り直し、背筋を伸ばして語り始めた。


「今年の一月、王都で開かれた夜会が襲撃されるという事件がありました。その際、私は連隊長閣下より特命を受けて、会場の警護に就いておりました。微力ながら、その場で多少の働きを評価していただき・・・。いえ、それが直接の理由かは分かりませんが、事件後思いがけず話題となりまして・・・。それがきっかけとなり、騎士爵を授かる事となりました」


そこまで語ると、アニカはほんの少しだけ頬を染め、視線を静かに伏せた。

その態度は実に謙虚で、どこか居心地悪そうでもあったが、

言葉の端々からは、その叙勲を確かな誇りとして受け止めている様子が、はっきりと伝わってきた。


「王都の夜会が襲撃? それは穏やかではないな」


私は訝しげに、隣で黙々と書類に目を通しているヨレンタに視線を向けた。

彼女は、まるで「どうしてそんな事もご存じないのですか。少しは世情にも関心をお持ちになったらいかがです」とでも言いたげな、実に冷めた目をこちらに寄越しつつも、口調だけはあくまで事務的だった。


「それは、アシュワース家が主催した夜会を、貴功派の一団が襲撃した事件の事でしょう。アニカ様はその混乱の中、身を挺してアシュワース家のご子息をお守りになった。その功績が広く知れ渡り、特に、貴方様のご実家であるハイザ家からの、たいへん強力な後押しもあって、騎士爵を叙されました。まさか、ご存じなかったとは」


最後のひと言には、隠しきれない呆れがにじんでいた。


「ハイザ家が後押しを?そうなのか?」


私は思わず驚きの声を漏らした。

そんな事実、まったく知らなかった。

だが、アシュワースという名前には聞き覚えがあった。


「アシュワース・・・?アシュワース家、ああ、思い出したぞ! クラリッサ・アシュワース嬢か! 」


「クラリッサ様はアシュワース家の次期当主候補でいらっしゃいます。現在は、その母君であるセシリア様がご当主を務めていらっしゃいます」


ヨレンタが、どこか得意げに口を挟んだ。

彼女は貴族を毛嫌いしてるわりに何故か貴族社会の話題に妙に詳しい。


「一度だけ、姉上に連れられて挨拶に伺った事がある。随分と派手な・・・。いかにも貴族然とした印象の方だったな。ご子息だったか?確か、クラリッサ殿には弟がおられたはずだ。名前はミハイル、だったか? 」


「ミハイル様を、ご存じなのですか!?」


それまで静かにしていたアニカが、突然、声を上ずらせた。

そのあまりに食いつくような反応に、私は思わず目を瞬かせる。

彼女にとってミハイルという名前が、単なる人名以上の意味を持つ事は、もはや明らかだった。


「うん? なんだ、知り合いなのか? ミハイル殿とは、何か特別な縁でもあるのか?」

「あ、いえ・・・。その、別に、そういうわけでは・・・ただ、少し・・・」


アニカは急に口ごもり、視線を泳がせた。

頬がみるみるうちに林檎のように赤くなっていく。

その様子は、誰が見ても一目瞭然だった。


「何故ご存じないのですか?王都では有名な話ですよ。そのアシュワース家のミハイル様を、夜会襲撃の混乱の中、アニカ様が文字通り身を挺して、それはそれは騎士らしくお守りしたという、まるで騎士物語のような話です。古典文学も結構ですが、たまには現実世界の、それも市井で囁かれる甘酸っぱい恋物語にも、ご興味を持たれてはいかがですか? 」


ヨレンタの皮肉混じりの言葉が、静かな執務室に響いた。

その声音には、どこか楽しんでいるような響きさえある。

私は「うるさいな……」と顔をしかめた。


「弟のミハイル殿は、実に男らしい品位をお持ちの方だったと記憶している。だから印象に残っていた」


そう口にした瞬間、アニカがわずかに瞬きをして、ふいと視線をそらした。

一拍の沈黙が落ちる。

その短い間に、彼女の胸にどんな思いがよぎったのか、私には分からない。

ただ、言葉にするにはあまりにも繊細で、どこか切ない感情が、彼女の中をかすめたように見えた。


まさか、私の言葉で何か誤解されたのだろうか?

そんなつもりは毛頭なかったのに・・・。


私はひとつ咳払いをして、気を取り直すように彼女の方へ向き直った。


「話を聞く限り、貴公は平民の出身でありながら、騎士としての爵位と品位を兼ね備えた、実に得難い人材のようだ。私も、我がハイザ家も貴公のその恋路を応援しよう。ようこそ、アニカ・ベルグリンド小隊長」


私が右手を差し出すと、アニカは一瞬、戸惑ったような表情を見せた。

けれど、すぐに晴れやかな笑顔を浮かべて、その手をしっかりと握り返してきた。

その手は、騎士らしく鍛えられながらも、どこか温かく、優しさを宿していた。


その後、私とアニカは特務中隊第一小隊の現状について具体的な話し合いを行った。

人員構成、兵士たちの練度や出自、現在の訓練状況、部隊全体の士気、装備品の充足具合。

さらに、今後想定される任務に向けた運用方針に至るまで話題は多岐にわたった。

アニカは、緊張を滲ませながらも、すべての質問に対して的確かつ丁寧に答えてくれた。

その誠実な姿勢は、深く私の心を打った。

私もまた、中隊長としての責任を意識し彼女の言葉に真摯に耳を傾けた。


やがて、窓からの陽光が傾き、時刻は正午を迎える。

アニカは最後に丁重な礼を述べると、どこか晴れやかな表情で退室していった。


彼女の後ろ姿を見送りながら、私は思う。

良い部下を持てたかもしれない。


その後、私とヨレンタは、がらんとした中隊長室で簡素な携行食の昼食をとった。

調度品も装飾も何ひとつない、静かで殺風景な空間。

けれど、それがむしろ私には心地よかった。

余計なものがないぶん、思考が澄みわたる気がした。


食後、短い休息を挟んで、午後の面談の時刻が、刻一刻と近づいてくる。


その時だった。


バァァァァァン!!


ノックの音もなく、突然、扉が蹴破るような勢いで開け放たれた。

昼下がりの静けさを切り裂くような轟音と共に、一人の女性騎士がまるで嵐のように室内へと飛び込んできた。

そのあまりにも唐突で乱暴な登場は、先ほどまでの静寂と強烈な対比をなしており、私もヨレンタも、一瞬あっけに取られて声も出なかった。


その騎士は、身長およそ一九〇センチはありそうな大柄な女性だった。

全身はまるで筋肉の鎧をまとったかのように鍛え上げられており、ただ立っているだけで空気が圧されるような威圧感がある。

赤銅色の髪は無造作に短く刈り込まれ、鋭い青玉色の瞳が獲物を睨む獣のように爛々と光っていた。

顔や剥き出しの腕には無数の戦傷が刻まれており、その一つひとつが彼女の戦歴を雄弁に物語っている。

着崩した軍服に、乱雑に巻かれたベルト、手入れなど気にした様子のない髪。

そして何より、その尊大で傍若無人な態度が、彼女の本質を物語っていた。


常識がないというよりは、周囲の空気など最初から意に介していない。

良くも悪くも豪放磊落、そんな人物である事が、一目で分かった。


そして開口一番、その騎士は、腹の底から絞り出すような大声で、不満を露わに叫んだ。


「中隊長殿!! なぜ、この私、アラウネ・ヴァッシェンが第一小隊ではないのですかッ!?」


「え、えぇ・・・?」


あまりの突然の剣幕に、私は完全に面食らい、間の抜けた声しか出なかった。


「私はこれまで、第一連隊・第一大隊・第一中隊・第一小隊の小隊長を務めてまいりました! その私が、なぁぁぁぜぇぇぇッ! 第二小隊の小隊長などとッ!それだけではなく、あのような、どこの馬の骨とも知れぬ色ボケ女に、一番の座を譲らねばならんのですかッ!!」


「お、落ち着いてくれ、ヴァッシェン小隊長。貴公も重々ご承知の通り・・・。その、部隊番号に優劣はないはずだぞ?」


「然り! ですが、それはあくまで建前、形式的な話にすぎません!」


「数字とは、人を惑わす魔物! このアラウネ・ヴァッシェンに“1”以外の数字を与えるなど!たとえ制度上、序列に意味がなくとも、世間の者どもは私を“二番手”と認識するでしょう! それは断じて、受け入れられません! 私は常に“一番”でなければ気が済まないのですッ!」


私は心の底から困り果てていた。

部隊の編成番号を決めたのは私ではないし、彼女を第二小隊長に任命したのも、当然ながら私ではない。


「では、姉上・・・、失礼。第一連隊の連隊長閣下に、貴公自身が直接進言されるが良い。私は第二連隊から着任したばかりで、貴公の事も、その豪快さも、まだ何も存じ上げない。その豪快さに、果たして実力が伴っているのかどうかも。私はまだ知らないのだ」


「知らない? 知らない、ですと? それは少々ッッ!いえ、かなり驚きですな! この私、アラウネ・ヴァッシェンの事をご存じないと!」


アラウネは肩を大げさにすくめ、芝居がかった仕草で続けた。


「ですが私は、よぉぉぉぉく覚えておりますよ。何年か前、ハイザ公爵家が催された夜会にてお見かけしましたとも。イングリッド連隊長閣下の背後に、ひっそりと身を潜めておられた、それはそれは初々しいご令嬢の姿を!まぁ、さすがは公爵家のお育ち。我ら下々の者の顔など、いちいち記憶に留めておられぬのも無理はありません。ですが、下の者を見ずして、隊を預かる資格があるのでしょうか? 中隊長殿」


「ヴァッシェン・・・。ヴァッシェン家か。確か、ソルトミルル子爵家の縁戚の家だったな」


「然り! 我がヴァッシェン家は、代々ソルトミルル子爵ヘストベリ家の剣として仕え、幾たびかの戦役にてその名を王国に轟かせて参りました。名門ハイザ家の威光には及びませぬがな! ですが!!そうですともッ!! 親の名にすがって任を得るような真似をォォ! 我がヴァッシェン家では“恥”と呼びます! 然り! ゆえにッ! 私ならば、そのような道は断じて選びはしません!」


彼女の言葉は、明らかに私と、私の家に対する皮肉だった。

私はわざと嫌そうに顔をしかめ、冷たく言い返す。


「私にその実力があるか否かは、今後、貴公自身が判断してくれ」


「では、そうさせていただきます!フンッ!」


アラウネ・ヴァッシェンはそれだけ言い残すと、来た時と同じように、嵐のような勢いで部屋を後にした。

実務的な話など何ひとつできず、ただ一方的にまくし立てられただけの面談だった。

本来であれば、中隊長と小隊長の間で協議しておくべき、部隊運用の方針や任務内容の確認、指揮権の範囲といった重要事項が、何ひとつとして消化されないまま終わってしまったのだ。


あまりの展開に、私はただ呆然とし、深い落胆と戸惑いを覚えるしかなかった。


先ほどのアニカ・ベルグリンド小隊長との面談では、初対面ながらも落ち着いた雰囲気の中で、誠実に、整然としたやりとりが交わされた。

静かな礼儀と確かな実務、そして丁寧に紡がれる言葉の一つひとつが、こちらの信頼を自然と引き出してくれたのだ。


だが今回のそれは、嵐のように押し寄せ、雷鳴のように鳴り響き、何も残さず通り過ぎていった。

まるで礼儀や会話の成立など最初から放棄されたかのような、面談とは名ばかりの荒波。


静まり返った室内に、ヨレンタの冷静な声が響く。


「扉、壊れてますね」


その現実的すぎるひと言に、私は力なく項垂れた。

私の新しい中隊長室が着任して早々、破壊されてしまった。

面談が失敗に終わった虚しさと、ようやく愛着が湧きかけていたこの部屋への哀れみが同時に押し寄せ、私は深い脱力感に包まれた。


「彼女は、“ソルトミルルの猪”と呼ばれているそうです。まあ、有名な方ですよ」


ヨレンタが、いつも通り淡々とした口調で付け加える。


「あれが猪?暴れ馬より酷いじゃないか」


思わず漏らした私の呟きに、ヨレンタが涼しい顔で返す。


「貴方も、私に同じ事をしましたけどね」


その一言に、私は思わずカッとなった。


「私は、もう少し理性がある!」

「そうですか? 気が合いそうですけどね、あの方と」


ヨレンタは肩をすくめ、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

私の力ない呟きは、誰に聞かれるでもなく、がらんとした部屋に虚しく響いた。

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