第14話

 坂逆さかさか緖熟おうれは暑さに弱い。

 以前聞いていたが、本当にそうらしい。

 真夏の熱気が籠った室内の、狭いロッカーに、二人閉じ込められた年下の男の子は、今にも気を失いそうだ。

「塩分が欲しいんだって?」

「ぷしゅ、そうれふゅ」 

 目はぐるぐる渦巻いていて、頭は真っ赤だ。

「でも塩分て言ったってそんなものあるわけ──」

 流石の暑さに普段は汗をかかない『  』の柔肌にも、主に鎖骨の辺りに水滴が。

「いやいやまさかねえそれはさすがnぐわわわわわわわわ」

  

   ×   ×   ×


 準々決勝を勝利し、準決勝へと駒を進めた翌月曜日。

 さしもの坂逆少年も年単位のブランクは堪えるのか、試合の疲労を翌日に持ち越していた。つまりは寝坊である。

 もしも、と言う仮定の話だが、日曜に小言の多い風紀委員の顔を見ていたら多少は遅刻してはいけないと言う学校生活の規則に順じる気も湧いていた可能性はあるが、あいにくと風紀委員の女の子は外せない予定があるとかで来ていなかったのだ。

 となるともはやルールを守ろうなんて意識は微塵も無くなるわけで今日も今日とてこのままだと遅刻だな、とか思うこともなく緖熟は朝マックを堪能していたのだった。

「で、時々大幅に遅刻してるのは朝マックに行ってたからって訳なのか」

 茶髪の不良チックな同級生栂池つがいと昼食を共にすることになった問題児。最近仲が良くなったクラスメイトの女の子が作ってきた弁当をカフェテラスでつつきながら、緖熟が言う。

「学校に遅刻しながら行く朝マックの背徳感と言ったらたまらないよ」

「朝からマックはキツくないか?」

「そうかな。エッグマフィン何かイングランドの朝食に近しいものがあってペロッといけちゃうけどね。後はハッシュドポテトもいけるよ」

「へえ、朝は行ったことないからメニューはおんなじモンだと思ってたわ。今度行ってみよ」

 栂池は購買で売っているパックのキャラメルラテを啜る。

「そういや先輩から聞いたけどときどき朝に知見ちみとサッカーやってるんだってな。朝マックはその次いでに行ったりするのか?」

「日によりけりだけど行くときもあるかな。そう言えば知見さん朝はしっかり食べたいらしくて、この間はジョナサンに行ってみたよ」

「お、ジョナサンの朝食なら俺も行ったことあるぜ。あれ食べたか? オニオングラタンスープ」

「ジョナサンのモーニングで欠かさない日はないよ」

 お互い顔を見合わせてニヤッと笑う。

「オニオングラタンスープいいよな」

「オニオングラタンスープはいいよ」

 オニオングラタンスープは美味しい。

「うちは姉ちゃんが大学の研究室に籠りっぱなしで朝に帰ってくる事が多くてさ。それで迎えに行く次いでに行くことが多いんだよ。大学までの道にデニーズもあるからそこで食べたりもするな」

「デニーズは朝もグランドメニューが食べられるって聞いたけど本当なの?」

「ああ、本当だぜ。デニーズは朝から担々麺もステーキもハンバーグも頼める。だから姉ちゃんもよく行ってるんだ」

 サンドウィッチを栂池はパクっと一口で食べる。

「朝からモーニングメニューを尻目にグランドメニューを頼む……今度絶対行くよ」

「遅刻してあんまり風紀委員を怒らせるなよ」

 まるで反省していない遅刻魔に呆れたように栂池は言った。


   × × ×

 

 不注意から来る間の悪さなのか、あるいは巡り合わせか。とは言えその出来事を単純に不運と片付けてしまうのは勿体ないような、惜しいような、そんな気がした。

 ただまぁ、いずれにせよ坂逆緖熟にしてみればそれもまた睡眠不足から来る意識混濁の向こう側にいつか追いやられる記憶の一つなのだろう。もしくは、案外覚えていられるものなのかも知れない。

 そんなこんなで欠けている記憶がまず一つ。それは今日の部活動が急遽休みになったこと。サッカー部に限った話ではないため朝のホームルームで通達があったはずだが寝坊してすっぽかしていた緖熟が当然知るはずもなく。

 放課後、のほほんと鼻唄混じりにサッカー部の部室があるプレハブ小屋に赴くサッカー馬鹿は、休みのはずの部室の鍵がどうして空いているのか何て違和感に気付けるはずもなかった。

「ありゃ、俺が一番乗りか」

 と、誰も居ない部室を見て一言。折り畳まれて綺麗に並べられたパイプ椅子や、カラーコーン、ボールがたくさん入ったケージも特に誰かが動かした形跡はない。

 珍しいこともあるな、と思う。普段なら緖熟が部室に来るのは遅い方だし、ここ最近はホームルームが終わると直ぐに「去るンゴ、また明日会うンゴねぇ」と別れの挨拶を置き去りにして教室を出る幼なじみのJと放課後適当に駄弁る時間を抜きにしても、やはり遅い方だ。なので緖熟が部室に最初に訪れる何てことは天と地がひっくり返っても、朝マックのメニューからビッグブレックファストが見当たらなくなるほどにあり得ない。

 のだが、珍しいこともあるな、の一言で片付けてしまったのは、この少年の危機感の無さを象徴している。

 緖熟は空の部室を最後に一瞥して階段を上る。二階の更衣室は誰も来ていないのなら鍵が掛けられているはずなのに開いていた。と言うか、鍵が閉められているのを確認して職員室に鍵を取りに行くつもりだったので意外だ。とは言え、そもそも部室の鍵が空いていたのならそれは誰かが鍵を開けていたことに他ならず、既に部室に先着が居ることになる。

 ──何て少し冷静になれば分かりそうなものだけれど、連日の疲労で頭の回らない緖熟が気付けるはずもなく。

 躊躇うこともなく更衣室のドアを開けたので。

 下着姿の女子高生が目に入った。


   ×   ×   ×


 その後の刹那の出来事を事細かに描写する事に趣があったとして、そこに当事者への配慮は無く、倫理的に、と言うかまぁ色々どうかと思われるので事実を淡々と述べると。

 下着姿で現在進行形の着替え中であった優狩ゆうかり瑞希みずきは開かれるはずのないドアが開かれて、ドア口で現状が飲み込めぬままフリーズしている後輩とばっちり目が合った。

 人間は予想も付かないサプライズに直面すると声も出せずに腰が抜けるとSNSで見知らぬ人が呟いていたけど、半分当たりで半分外れだなと我が事ながら他人事のように思う。腰が抜けたのは正解で声が出ないのは外れだ。

「ひゃっ、な、何でキミがここに……」

 とか驚いてみたり。

 対して後輩はと言えば、悩ましげに俯いて鼻柱をぎゅっと摘まむ。

 何と言うかこう、当然ラブコメの主人公でもないので緖熟がセオリー通りに動く訳ないのだが、もっと顔を赤らめて慌てたりだとかしても良いのでは無いだろうか。

 更衣室に入ったら見知った顔の先輩のちょっとした秘密が明かされていたわけで。

 でも、腰を抜かして更衣室の床に尻餅を突いてる自分からすればちょっと嫌な気分にさせられるぐらい緖熟は落ち着いている。優狩は結局闖入者から目を逸らせないまま、何やら熟考している緖熟を眺めていることしか出来なかった。

 とようやっと悩みが解けたのか、十数秒の思考時間シンキング・タイムの後、女性用の下着を身に付けた先輩のあられもない姿をしげしげと眺め、曇り空一転、緖熟は晴れ晴れとした笑顔になると、

「先輩、趣味はそれぞれですからね。女装だって立派な趣味の──

『僕は女の子だぁぁぁぁああああーーーーーー!』

 との怒声と共に顔に向かってやってきた大きめのスポーツバッグが、意識剥奪と言う暗い帳をもたらしてくれた。


   ×    ×    ×


「先輩、水筒が入ったままのバッグを人の顔に投げ付けるのはどうかと思います」

 仰向けになり、更衣室の天井を見上げながら、鼻頭を抑えられ、ティッシュを詰めて鼻血の止血をされていた緖熟が鼻声で言った。

「……そりゃ僕も悪かったとは思うけどさ、あの状況でよりにもよってあんなこと言うかな、普通」

「そもそもあのシチュエーションが普通じゃないですよ」

「まぁそれには同意するけどさ。でもキミ、僕の……あの格好見ても男の子だと思ってたわけ?」 

「……いや、あの、今一つ働いてくれない頭で頑張って考えた結果一番辻褄が合うのがあの答えだったと言うか、いや、もう本当に現実を認識するのを避けていたと言うか……て言うか先輩、普通に男子用の制服着てますよね?」

 更衣室の真ん中の青と白が交互になったプールサイドにあるような鍵盤のベンチに横たわった自分を見下ろす先輩の視線はさっきから刺々しく、裁縫用具箱の針山になった気分だ。

 その先輩は緖熟がブラックアウトしている間に一度脱いだ服を着直したのか、夏服の制服姿である。が、仁王立ちの姿勢はそんな涼しげな格好はどこへやら、重苦しい空気を纏っていた。

 それでも、こんな非常時エマージェンシーでも聞かなければいけないことを聞けるのは、ラブコメの主人公の適性は無いにしろミステリーの登場人物にはなれそうなものである。

「気になる?」

「まぁ、はい」

 はぁ、と長いため息を一つ、意を決した先輩はベンチに背を預けるように体育座りをする。

「卒業した去年のキャプテンの方針だよ。足りないベンチメンバーを埋められるから性別を偽って選手登録しろってね。もともとサッカー部には入部してたんだけど、やっぱり去年も登録可能人数を集めるのに困っててさ。それでこのちょっとした作戦を決行するに至った訳。幸いなことにうちの高校は男女どっちの制服も好きに選べるからそれほど苦労は無かったんだ。まぁそれに登録の方も、名簿を提出するときに性別なんて確かめないからね」

「俺とちょっと事情が似てますね」

「あ、やっぱり。キミはスカウトされて来たんだね。妙だと思ったんだぁ、あんな時期に入部してきたんだもん。まぁとかく、それでこうして北高校サッカー部の選手である優狩瑞希が誕生したのさ。さてと以上で説明終わり! こっからは僕が質問する番だよ。他の先輩から僕のこと聞かなかったの?」

「いや全く」

「……あの人たち、本当に気にしてないもんな」

 やむにやまれぬ事情とは言え、いくらかチームメイトには気を遣わせることになるだろうと初めの内は心配したりしていたのだが、彼らの気遣いとも取れる行動が、実は気にしていないと言う興味の無さから来るものだと言うことに気づいて以来、優狩が気苦労することは無くなった。

「じゃあ次の質問。キミ、今日何しに来たのさ」

 この質問は緖熟にとって想定外だった。

「? 練習があるから来ただけ、ですけど」

「……はぁ、そんなことだろうとは思ってたけどさ」

「?」

 露骨に溜め息を吐く先輩に後輩は疑問符を浮かべる。

「今日は部活が無いんだよ」

「えっ、いや、昨日の試合の後監督に明日ミーティングをやるって言われてたし」

 何だか私の下着姿を見たときよりも驚いていないか、と訝しんでみたり。

「休みなのは本当だよ。その証拠にほら、この時間になってもみんな来てないでしょ」

 更衣室の丸時計を見れば部活の開始時刻をとっくに過ぎている。

「あっ、確かに」

「今朝のホームルームで連絡があったと思うんだけどな。運動部に所属する二三年生の男子が対象の緊急集会があるから、当該する運動部の活動は本日中止って」

「……遅刻して朝のホームルーム出てませんでした」

「うん、素直でよろしい。どうして緊急集会が開かれているか知りたい?」

「……はい」

 ここは頷く他無い。

「バスケットボール部と陸上部に所属している二三年生の男子グループが他校とちょっと問題起こしちゃってさ。まぁこの際別に隠すことでもないから言うけど、合コンでのいざこざ何だけどね」

 数日前の事を思い出し、うっすら冷や汗を掻く緖熟。

「ん、ちょっと顔色悪いよ?」

「あ、や、大丈夫ですとのことよ」

「そう? なら続けるけど、その問題が教職員の預かるところとなったのが一昨日の土曜日で急遽週明けの今日緊急集会が開かれることになったわけ。その合コンにサッカー部の何人かも参加してて、まぁ巻き込まれちゃっただけだからしょうがないんだけど、サッカー部も召集が掛かっちゃったのさ。と言うわけで今日のサッカー部の練習は休止になったのでした」

 なるほどなーとこんなアンラックが生じた理由に納得を試みるものの、まだ残る疑問を解消しないことにはスッキリしない。

「じゃあ先輩は何で部室に来て、トレーニングウェアに着替えてるんですか?」

「そりゃ練習するためさ」

 至極当然の答えだ。

 優狩先輩は自主トレに来たのである。普段は別の場所で着替えているけど、今日は部室に誰も来ないしわざわざ他で着替えるのも面倒だった、と先輩は説明した。

 なるほどなーと今度こそ納得。今さらながら練習前後や試合のときに更衣室で優狩先輩を見掛けたことは一度もなかったな、なんて思い至る。ミステリーと言えばミステリーな状況にあった謎はまるっと全て解決。

 となると、次はこの後どうするかになるのだが、

「その練習、俺も付き合って良いですか?」

「付き合ってくれるの?」

「先輩が良ければ。もともとその気で部室に来たわけだし」

「もちろん大歓迎だよ。一人で出来る練習なんて限られてるからね」

 うんうんと思わぬ成り行きに頷く先輩。

「じゃ、そうと決まれば僕先に着替えちゃうから外で待っててよ」

「りょーかいです」

 廊下に出て壁に凭れた緖熟は一言、

「赤だったな」

 と呟いてみる。

 壁一枚向こうではボーイッシュな女の先輩が着替えていて、衣擦れの音なんか当然聞こえてきちゃう。それだけでご飯三杯はいける人も居るところには居るらしいが、緖熟にそんな趣味は無く。

「どうせ誰も来ないなら俺も下で着替えれば良かったのでは」

 男の自分が先輩より着替えが遅くなるわけもなく、うっかり鉢合わせ何てことも限りなく低い可能性だ。

 先輩にドアからバッグを放り出して貰おうか、いや、もしかしたら更なる来客がある場合もとふと一階を見るとドアが開かれるのが目に入った。


   ×   ×   ×

 

 前々から薄々、ちょっとの確信を持っていたが間違いない。私の後輩の坂逆緖熟はサッカー馬鹿だ。

 優狩瑞希は緖熟とばったりエンカウントしたときの格好になると、ウェアを取る手を止めてちょっとだけ考えてみる。

「むむ、私何か忘れてない?」

 忘れ物があるとかそう言うのではなく、出来事的なニュアンスの方で何か忘れている気がする。それもちょっと前にあったサプライズのせいでだ。

「まっ、いいか。忘れちゃったことは仕方ないし」

 サッカー馬鹿なあの後輩のことは責められない。移動をめんどくさがった自分に非があるのだから。それに壁の向こうでどうせ私のことなんか、さっきのことなんか忘れてサッカーのことを考えているだろう後輩と練習できるのは楽しみでもある。

「ドリブル対決とかやっちゃおうかな」

 あの少年はもともとウィンガーなのでは? と、緖熟のボールの持ち方、ドリブルのテクニックを観察して疑問を抱いている優狩だけれど、それを解決する良い機会にもなるだろう。一対一で対峙して、確かめてやる。あわよくばボールを奪ってあの飄々とした顔に汗を掻かせるのも面白いだろう。

「ふふっ、それで行こうかな」

 聞きたいことはもっとある。あの体格で中盤でプレーできる理由とか。

 練習の予定を決めて、一人口角を上げていると、本日二度目の着替え中にドアを開けられる事案が発生した。

 

  ×   ×   ×


「ちょっ、坂逆っちなに考えてるのさ!」

 今度のは言い訳の余地が無いし、一度目の再現に優狩はシャツをガバッと掴むと隠すように身体に寄せて身を縮こませた。

「先輩、何か男子生徒がいっぱい来てますよ!」

「だ、男子生徒が?」

「はいっ、もう階段上り始めてます!」

 最初は同じ一年生のチームメイトである栂池が、先輩と同じく自主トレに来たのかと考えていたのだが、扉を開けて入ってきたのは見知らぬ男子生徒で、それも一人や二人じゃなかった。

「……ど、どうしよう」

 と、こっちの状況を露知らず扉を閉めて額に汗を浮かべている緖熟は、さっきの冷静さぶりはどこへやらといった様子。もしかしたら案外アドリブに弱いのかもしれない。言い換えると、頼りにならない。

「と、とりあえず坂逆っちこっち!」

 優狩瑞希は後輩の腕を掴んだ。 


   ×   ×   ×


「まだいる?」

「……いますね」

 緖熟と優狩は小さな声で囁き合っていた。互いの耳元で。

 男子生徒たちが更衣室に入る前に間一髪飛び込んだロッカーの中は当然のことながら非常に狭く、二人入れば朝の町屋西日暮里間ぐらいぎゅうぎゅう。

「坂逆っち、あの子たちたぶんラクロス部の一年生だよ」

「ラクロス部? うちの高校にそんな部活があったんですか」

「そだよ。去年高校のラクロス部を舞台にしたミッチー主演のドラマが流行ったのは知ってる?」

 知っているはずもないだろうと一応聞いてみたが、

「そりゃ当然知ってますよ。ミッチーが出てるドラマは全部見てますから」

「キミはどういう趣味嗜好をしてるんだ。いや、それは良いとして、まぁだからそのドラマの影響で今年はラクロス部に入部した一年生の子が凄く多かったんだって。それでラクロス部が使ってる更衣室が狭くなっちゃったからまだ空きがあるうちの更衣室を使わせて貰えないかってラクロス部の主将から相談があったんだよ」

「……こうなった理由は大体理解しました」

「? そう? まだ腑に落ちないことがあるって顔だよ、キミ」

「いや、そもそも俺まで隠れる必要は無かったんじゃないかって」

 考えてみれば普通に男子生徒な自分は隠れる理由もないし、そも、扉の外に居たんだから何かと理由を付けて追い返せば良かったのだ。

「……キミ、クローズドサークル系のミステリーの登場人物だったら細かいことが気になりすぎて要らぬことまで気が付いた後犯人に消されるタイプの人だよね」

「そんな不名誉な設定要りませんって! ただ考えてみると俺がもっとちゃんとしてればこんな状況にならなかったんじゃないかって……」

 下着姿で一つ年下の男の子と身体のどこもが密着している状況でさっきからどきまぎしているのがバレないように必死に冷静を装って居たのに、そんな緊張も忘れてつい頬が緩んでしまう。

 この少年は妙なところで義理堅く、真面目で、人がいいのだ。

「先輩、何がおかしいんですか」

「いや、別に。でも確かにそうだね。だったら今からロッカーの外に出て追い返してくれるかい?」

「俺の残りの高校生活がどうなっても良いって言うんですか⁉」

 更衣室のロッカーで下着姿の先輩と完全密着24時しているところを同じ一年生(中にはクラスで見掛けた同級生もいる)に見られたら間違いないなく高校生活残りの三年間を廊下を歩けば後ろ指差されて過ごすことになる。

「ははは、冗談だよ勿論。まっ、もう少しの辛抱だよ」

 いつもの頼れる先輩に戻った優狩は、至近距離にある可愛い後輩を安心させるように笑った。

 後はラクロス部の一年生が着替えを終えれば万事解決なのだが。

「いや、ラクロス部の一年生何人居るんだよ」

 入れ替わり立ち替わり入ってくるラクロス部の新入部員たちに終わりは見えない。外の階段じゃ次郎系ラーメンの行列みたいになってるんじゃなかろうか。

「さっき言ったドラマすごーく流行ったじゃない、あれでどこの学校も例年の二十倍ぐらい入部希望者が増えてるんだって。まさにトップガン公開翌年のアメリカ空軍だね」

 効果の再現を期待したアメリカ空軍がトム・クルーズに早く第二作をやるよう頼んでいたのは有名な話だ。

「そのおかげでこうして追い詰められてるんですけどね」

 いやはや、バタフライ効果とはよく言ったものである。

 緖熟の泣き言にやれやれと優狩が笑ってから十分経過。ロッカーに隠れてから二十分が経ったことになる。

「ん、キミ、ちょっと顔赤くないか?」

 ここにきて今さら興奮している訳でもないだろう。

 緖熟はずっとなるべく身体が当たらないようにしていたし、特にそんな様子は見られなかった。

 しかし、緖熟の頬は風邪を引いた人のように赤みを帯びている。

「キミ、凄い汗じゃないか! 大丈夫なのかい⁉」

「……ちょっと、まずい、かもしれない、です」

 長居する場所でもない更衣室に当然エアコンなど付いていないし、更に通気性皆無の狭いロッカーに二人で閉じ込められているのだ。

 ロッカー内は灼熱のサウナ状態と化していた。

「そう言えば暑さに弱いって言ってたっけ」

 細く横に空いた穴から優狩は更衣室内の様子を覗いてみる。

「……さっきより減ってきているし後もう少しの我慢だ。それまで耐えられそう?」

 ただ暑さに当てられてるだけならいいが、脱水症状なのなら少々まずい。

「う、塩分が、欲しいれフィル・ジョーンズ」

「塩分が欲しいの?」

「ぷしゅ、そうれふゅ」 

 目はぐるぐる渦巻いていて、頭は真っ赤だ。

「でも塩分て言ったってそんなものあるわけ──」

 いまいち視線の合わない虚ろな目をしていたけれど、ゆっくりと緒熟の視線が一か所に定まっていく。

 流石の暑さに普段は汗をかかない優狩の柔肌にも、主に鎖骨の辺りに水滴が。

「いやいやまさかねえそれはさすがnぐわわわわわわわわ」

 大声あげて気付かれるわけにもいかないので、優狩は咄嗟に口を緖熟の肩に押し付けた。

 ──何があったのかは二人の名誉のためにも詳しくは描写しないでおこうと思う。ただ言えるのは坂逆緖熟の思考力が暑さのせいで著しく低下していたこと。

 以下、会話を一部抜粋。

「ちょっキミ! そんなところ舐めちゃ駄目だって! あうあぅ、いや、ダメ、お願い本当に、ねえちょっとそこ腋──」


「君たち二人して何やってるんですか」

 いつまでたっても職員室にラクロス部の部員が鍵を取りに来ないことを怪しんだサッカー部顧問瑠璃るり叶火きょうかが一つだけ閉じているロッカーを開けると、片方は頬を紅潮させ恥辱に身悶え、もう片方は暑さに目をぐるぐるさせて湯気だっている二人を見付けたのだった。


   ×   ×   ×


「ぐすん、僕、もうお嫁さんにいけないよ……」

 更衣室に正座させられ、みっちり監督に絞られた後、下校時刻のチャイムにどちらからともなく二人は帰路に付いていた。

「…………」

「もう、責任取ってよね」

 涙目で言う先輩の雰囲気が冗談では無さそうなのがより一層、事態の重さを深刻に、物語っていた。

「分かりました。結婚しましょう」

「いや、どうしてそうなるのさ‼」

 いきなりのアッパーに、普段は天然不思議子ちゃんを装う私もツッコミに回らずを得ないのかと痛感する。

「いや、お嫁さんにいけないのならそう責任を取るしかないじゃないですか」

 真剣な顔で人生で初めてのプロポーズをされてしまった。

「……キミ、気を付けないと将来夕方五時のニュースに速報で流れる事件の被害者でしたーなんて成りかねないよ」

「どーして先輩は俺にそんなに不幸属性を見いだすんですか」

「どこかの無自覚系巻き込まれ型一般男子高校生に自覚してもらうためだよ。とにかくけっ、結婚は却下です」

「でも他にどう責任を取れば……」

 意気消沈する後輩。

「……まぁ、やっぱり元を辿れば原因は僕にあるわけだし、責任云々の話はちょっとしたジョークと言うか落とし所を探していただけだから。それにさ、どうせキミ何があったのか覚えてないんでしょ。」

 緖熟は申し訳なさそうに小さく頷いた。

 当然、疲労困憊熱中症verの緖熟に記憶は無く、だから、より一層の罪悪感が募るばかりなのだ。

「……はぁ、まあキミが覚えていないのなら後は僕が綺麗すっぱり何があったのか忘れれば、忘れれば……忘れれ……ううわわわああああああああああああああ」

 何があったのかを思い出したのか、再び頭を抱えて悶絶する一つ年上の女の先輩。

 本当に自分は何をしたのだろうか、緖熟も一緒に身悶えそうになる。

「うう、やっぱり、お嫁さんに貰ってもらうしかないのかな。……何だか変な性癖に目覚めちゃいそう……」

 本当に自分は何をしてんねん。

 記憶は無いが、数十分前の自分を殴り飛ばしたかった。

「いや、あの、本当に申し訳ないです」

 先輩の様子を見て、緖熟は自分に非がないと到底思えなかった。

「……キミは変なところで真面目だからなぁ。よし、じゃあ僕のお願いを一つ聞いて貰おう。それでもうこの話は終わり、お互いもう忘れ、わ、忘れ……忘れよう」

 今度は言い切る優狩先輩。

「先輩がそれで構わないのなら何でも聞きます。それで、お願いって?」

「結局キミと練習出来なかったからね、ちょっと付き合って欲しい場所があるんだ」


  ×   ×   ×


 それぞれ一度自宅に帰った後、駅前で待ち合わせしていた優狩先輩に連れられて来たのは、市営のフットサルコートだった。付近に住宅が無いため、夜間も開放しているそう。

 先輩曰く、ワールドカップでの日本代表の躍進をきっかけに起こったサッカーブームの影響で、全国各地に作られたとのこと。

「かくいう僕もワールドカップに影響されてサッカーを始めたうちの一人なんだ」

 ネットが張られたコートを囲うようにある楕円形の段差に緖熟と優狩は腰掛ける。

「あ、先輩も何ですね。俺もそうなんですよ」

 いつの時代もスポーツ選手が将来の夢の上位に入るように、スポーツと言うのは人気になりやすいものなのだ。

 ましてや世界の競技人口一位のサッカー、その優れた競技性も相まって日本国内での人気は爆発的な広まりを見せた。

「ここではね、毎週火曜日に二人ペアで勝ち抜き戦が行われてるんだ。今晩は僕と一緒に出場してもらうよ。それがお願い。じゃあ緖熟君、更衣室はあそこの掘っ立て小屋だから着替えておいで」

 先輩が指差す方には簡易的なプレハブ小屋がある。

「先輩は?」

「僕は下に着てきてるから♬」

 凄いだろうと言わんばかりにユニフォームの透ける胸をポンと叩く先輩。

 プールの時の小学生ですかと言う突っ込みも、先輩の弾けんばかりの笑顔の前では口に出来ようもなかった。

 プレハブ小屋には何人か、如何にも夜のフットサルコートバスケットボールコートに集まりそうな陽キャが(大学生も混じっていただろうか)いたが、社交性ある陽キャよろしく絡まれた。

(Jの奴がいたら殺虫剤を撒いてたな)

 適当に話を合わせておき、緖熟はさっさと着替える。

「ん、早かったね」

 先輩は既に練習着姿だった。

「あれ、緖熟っちそのユニフォームは?」

 悪魔をあしらった胸のエンブレム、Team Viewerのロゴ、赤を基調としたユニフォームカラー。

 背番号は9。昨年のバロンドーラー。

「アントニー・マルシャルのユニフォームです」

「気合い入ってるね、まだ始まるまで時間あるからゆっくりしてよ、色々あってちょっと疲れちゃったし」

 確かに色々あった……。

「またやられに来たのか?」

 現在進行形でまだまだ色々あるらしい。

「……何だ、君か」

 緖熟は優狩がこんなにも暗い声を出せるとは思いもしなかった。

 声のする方、顔を見上げると、いわゆるヤンキー然とした高校生の姿。

 耳にはピアス穴。チャラチャラしたネックレス……未成年飲酒をしていたとしてもむしろそれが当然だと思えるぐらいの不良姿。

 緖熟もイングランド滞在時代、こう言う夜のコートに行った経験はあるし、どんな連中が来るかも知っている。

「男連れか、コンペ、出る気なのか?」

「君には関係無いことだ」

 優狩は目も合わせようとしない。

「どうせ出ても吹っ飛ばされるだけだ。怪我する前に止めとけよ、女のお前でもチームに取っちゃ大事な何だろ」

 緖熟が最初に抱いた感想は内部事情に詳しすぎるだろうと言う驚きだった。自分だって優狩先輩が女性であるのは今さっき知ったばかりだと言うのに。

「忠告有り難う、でも僕たちは出るよ。いいじゃないか、思う存分吹き飛ばせばね」 

 優狩はの方へ顔を向けるとした。

「へっ、どうなっても知らねえからな」

 捨て台詞を吐いてヤンキーは去っていった。

「……」

「彼、僕の幼なじみなんだ。名前は国森くにもり周磨しゅうま

「……」

「彼はね、インターハイ国立三連覇中の全国最強の高校で一年生のときからレギュラーの座を奪い取っているんだ」

 強いよ、そう優狩先輩は付け加える。

「年代別ナショナルトレセンにも選ばれているし別華君、頼安君を抜いたら世代最強格だろうね「チームメイトと二人で出ていてね、東北圏内を荒らして回ってるんだ。ここの大会でも出るときは毎回優勝してるよ「昔は僕も彼と中盤でコンビを組んでいたんだけど、中学に入って彼がプロクラブのユースチームに選ばれてからはそれっきり」

「上手いんですね」

「キミほどじゃないけどね」

 優狩先輩は優しく笑う。

「僕の個人的な事情だ。巻き込んでしまってごめん。今ならやっぱり止めたもいいよ」

「まさか、俄然やる気が湧いて来ましたよ」

 嫌味な奴に一泡吹かせたいのだろうか、そう推測してみる。

「いや、あの人、上手いんでしょ? 退く理由がありませんよ」

 退く理由? 嘘だ。受けて立つ理由だろ。優狩は理解していた。

 優狩の目には、はっきりと、不敵な笑みを浮かべる緖熟が見えた。


 ここでルールを説明しておこう。大会参加者は開始時刻までに申し出たペアで、アプリケーションを使ってトーナメント表を作る。

 試合形式は2対2の7分間。延長戦はゴールデンゴール方式。またシュートは敵陣内に入ってからで、サイドラインはコートを覆うネットに設定されている。

 敵陣内に入ってからはドリブルとシュートのみ、つまりパスが禁止だ(敵陣から自陣味方へのパスはあり、自陣から敵陣へのパスは禁止)。ボールを失えば自陣に戻ってからのスタート。

 つまり、2対1のドリブルゲームなのだ。

「やっぱり強いな」

 高校生の二人組を圧倒する、国森とチームメイトのペア。相方はDFなのか、主に国森が攻めていた。

 相手が自らコースを空けているかのように容易く交わす国森。

 ドリブルの上手い選手は上体フェイントだけで交わせてしまう。

 例えば、だ。テレビでサッカーを見ると、時々DFが無抵抗で交わされているように見えるだろう。

 まさにあれだ。DFは決して無抵抗なんかではない。ドリブラーのテレビの画面には映らない巧みなボディフェイントに惑わされているのだ。

 だから、生で見るとその凄さに驚くことも多い。

 観客は皆国森のドリブルに一様に感心していた。

「僕だってあれぐらいは出来るさ」

 感心した様子の緖熟に拗ねるように優狩は言った。

 とは言えだ。いくらドリブルが上手いと言っても2対1。全く接触無く交わしきるのは不可能だ。

「…………」

 国森は、タックルを仕掛けてくる相手を意図も簡単に弾き返していた。

 守備では相方のDFが相手を吹き飛ばす。

 国森の忠告通りだ。身体の軽い優狩では

 何となく、緖熟は優狩が何をしに来ていたのか、理解していた。


「よろしく」

 試合前の握手。手が自分よりも二回りは大きいだろう。相手は大学生、背丈は頭一個半は差があった。

「緖熟っち、最初は僕が仕掛けさせて貰うよ」

 宣言通り、優狩はボールを持って敵陣内にドリブルする。

 まずは一人目。身長は170ぐらい。だが優狩よりも背も体格も大きい。

 身体を当てられたら終わる。だから接触を避けるようにドリブル。

 相手は優狩が女の子だと知らないのだ。情け無用のタックルはまともに食らえば怪我の危険も大いにあるだろう。

 とは言え逃げ道はない。ここはそう言う場所なのだ。ルール上は確かにバックパスが認められている。しかし、バックパスするものは一人もいないし、一度でもやったら笑い者だ。

 ただ、そんなことは優狩も分かりきっている。だからこうして何度も何度もこのドリブル自慢が集まるフットサルコートに足を運んだのだ。

 のいなしかたぐらい、心得ている。

 まずはウォーミングアップ代わりに二発叩き込む。

「キミもやるかい?」

 相手のドリブルを簡単に止めた後、優狩が後輩に提案する。

「いいですよ」

 実のところ、この試合通じて、緖熟は初めてボールを触った。攻撃は優狩に任していたし、守備だって相手は一人目のDFである優狩を交わすことすら出来ずにいた。

 優雅に飄々とプレーする優狩の相方はどんな奴なのか、注目が集まる。

 イングランド時代、何度も浴びた視線。プレッシャーにも似たそれはしかし、緖熟にとっては心地よかった。

 まずは一人、緖熟の好きな限定のフェイント、エラシコで相手の股を抜く。一瞬の動きですら膝には負担が懸かるがそんなリスクは百も承知だ。相手は微動だに出来ずにいる。

 ドリブル自慢が集まる──つまりはフェイントスキルの見せ合いなのだ。

 緖熟のスキルに歓声が上がる。

 それから二人目。

 からのタックル。

 ある種油断していたとも言えるだろう。

 この大会で一人のドリブラーに二人懸かりでいくことはまずない。なぜなら交わされたら終わりだから。

 だから、相手は真正面から来ると思い込んでいた。

 捨て身。

 スポーツウェアもシューズも揃えている辺り、大学でもサークルなんかでサッカーをやっているのだろう。或いは部活に所属しているかも知れない。そんな自分が、自分よりも背も歳も小さい高校生にいい様にやられていることに対する鬱憤。

 緖熟よりも背も体格も大きい大学生が、横から思いっきり緖熟に体当たりして、

 地面に尻餅をつく。緖熟は冷静にゴールを決めると、まだ尻餅を着いている大学生に手を貸した。

「大丈夫ですか?」

「あ、ありがとう」

 誰の目にも大学生の反則だったことは明らかだった。にも関わらず、高校生か疑わしいほどの見た目の少年に弾き返されている。

 会場は波を打ったように静まり返っていた。


「あいつ、やるな」

 全国最強、岩手県にある私立弥勒学園サッカー部三年生の炎木ほむらぎ星実せいじつは素直に感嘆の声を漏らしていた。

 あの体躯で、当たり負けせずに、痩せ型ではあるにせよ一回りもサイズに違いのある大学生をむしろ跳ね返す身体の強さ。

 それにドリブルのテクニック。経験者なら一目で見抜ける上手い人特有の間合い、ボールの置き方。

 眼前の衝撃的な光景を、コンビニに行った相方に教えようかとも思ったが、止めることにした。

 どうせ当たる相手。自分らの前では手も足も出まい。

 全国最強を誇るチームの守備の要として、炎木には絶対の自信があった。


「はあ、キミ本当に身体強いよね」

 緖熟と優狩は、観客席代わりの石段に並んで座る。

「それなりに鍛えてますからね」

「それなりってどれぐらいさ」

「最近はもうやってないですけど昔は1日5時間トレーニングしてました」

 成長期に伴い、フィジカルは維持できているが、緖熟はアカデミーを退団して以降、フィジカルトレーニングは。腹筋だってスクワットだって腕立て伏せだって。

 だから、今の緖熟の体幹の強さは、過去に培った財産なのだ。

「1日5時間って……はあ、僕もそれぐらいトレーニングしたら身体、強くなるのかな……」

 、曲線を帯びた自身の身体のラインを見て、優狩はため息を吐く。

「なるとは思いますけどおすすめはしませんよ。身体壊しますから。俺はしばらく睡眠障害に悩まされました」

「……緖熟っち」

「はい」

「キミ、僕の弱点分かってるでしょ?」

「……」

 優狩先輩の声は真剣だった。

「駄目なんだ。こんなんじゃ駄目だ。僕は過度に接触を避けている……身体をぶつけられるのが怖いし、それでボールを失うのはもっと怖い」

 優狩のポジションはボランチ、ボール失えばすなわち失点に直結する。

「僕、どうすればいいのかなあ」

 数試合経て、緖熟は理解していた。優狩は、身体的接触ボディコンタクトを嫌っている。

 素人なら、簡単に交わすことが出来る。でも、相手に心得があれば途端に駄目なのだ。国森が指摘していた通り、軽く弾かれてしまう。

 相手にちょっと体系的な経験があるだけでこの有り様。部活動で日々凌ぎを削っている男子高校生相手では、どうしようもないだろう。

「先輩、これまでの試合でも普通にプレー出来てたじゃないですか」

 緖熟は言った。問題では無いと。

 だが、事実、これまでの練習試合インターハイ予選通じて、優狩の言うそれが弱点として問題になったシーンは一度もないのだ。だから監督は優狩を好んでボランチとして起用していた。

「分かってるくせに、ここから先はもう無理だよ。今までの相手とは訳が違うもの。接触を避けたりなんかそんな誤魔化しが効くような相手じゃない」

「……」

「緖熟っち、キミが何かしらの事情を抱えているのは察しがつくし、だからあえて追及したりしないよ……キミさ、正直温いでしょ」

「……」

「今までの相手、キミにとっちゃ全然物足りなかったでしょ」 

「……はい」

「でも、ここから先は違う。キミでも少し無理をしなくちゃいけない相手になっていく、それこそ片足で、大して走らずにいなせる相手じゃなくなっていく。そんな相手に、僕はやっていける自信がない」

 そう言う先輩の視線の先には、コートでプレーしている国森の姿。屈強な相手にタックルされてもびくともしない。

 先輩は無表情だ。

「でも先輩はどうにかしたくてここに来てるんでしょ?」

「そうだよ、それでどうにも出来なかった。だからキミにもアドバイスを求めてこうして付き合って貰ったんだけど……」

 優狩は間近で改めて緖熟のプレーを見て、実感した。ああ、本当に彼は異質なんだと。

 多分、自分とは何もかも違うのだ。異性だけど自分よりも背の低い後輩。なのに、自分よりも大きい相手に身体をぶつけられても平気な顔をしている。

 坂逆緖熟は、優狩の理想像だったのだ。

 緖熟と優狩の名前が呼ばれる。

 次は決勝戦、相手は全国最強の私立弥勒学園サッカー部の二人組だ。


「怪我しても知らねえぞ」

 国森はニヤニヤ笑っている。その笑みは普段からニヤニヤ笑うことになれている人間がする、自然なニヤニヤ笑いだった。

「そっちこそ、吠え面掻いても泣きつくなよ」

「いやいや緖熟っち、キミが挑発に乗ってどうするんだよ」

「いや、食堂の端にいても殴りたくなるぐらい腹の立つ顔だったので」

 国森の顔が一瞬歪んだ。

「キミ、チャンドラーを読んでるのかい……」

 炎木はじっと腕を組んだまま。

「ボールはそっちからでいい。始めよう」

 誰かが言わなくちゃいけない。そしてこの四人ならばそれは炎木の役目だった。

 それぞれ自陣に散り、緖熟・優狩ペアの攻撃でスタート。

「……」 

 ボールを持った優狩がアイコンタクトを送る。

「緖熟っち、僕が攻めるよ」

「……あの人、多分本気で来ますよ。怪我するかもしれません。それでもやるんですか?」

「そうだよ。僕がやる」

 そう言っていた先輩の意志は、ダイヤモンドのように硬かった。

 だから、緖熟は先輩の合図に笑って応える。

 身体を半身にし、右足の爪先でボールを少しずつ運ぶ。そしてハーフラインを越えた。ここから先はバックパスしか出来ない、つまり、前進望めばドリブルあるのみ。

 一人目のDFは国森だ。

 そして、二人目のDF炎木はコート隅でじっとしたまま。まるで一人で十分だとでも言いたげに。

 (ターミネーター2のシュワちゃんかよ)

「いやあ!」

 金切り声にも似た悲鳴は観客席から発せられた。恐らくは男に連れられてきた女性のものだろう。

 気持ちはよく分かる。緖熟も悲鳴を上げたかった。

 優狩は国森に弾き飛ばされていた。

 まるで軽自動車にぶつけられたかのように転々と地面を転がる優狩。

 緖熟は慌てて駆け寄り、先輩の華奢な身体を抱き抱える。

「だ、大丈夫ですか⁉」

「う、うん、少し痛みはあるけど受け身は取れたから……」

 緖熟ははたと気が付いてゴールの方を見た。

 無人の自陣には誰もいない。

 相手陣地、国森はボールを持ったまま微動だにしない。

「もうお仕舞いか? へっ、だから言っただろ、女のお前にゃ無理なんだってな」

 幸いギャラリーには誰が流しているのか、英語のヒップホップが爆音で流れていて、国森の言葉は届いていないようだった。

「……まだだ」

 先輩は差し出した緖熟の手を借りず、立ち上がる。

 それを見て国森は

 ギャラリーに広がるどよめき。

 言ってしまえばこの大会を根底から否定する暴挙。

 しかし、非難する声はない。

 何故ならこの場でルールすら無用にするほどの圧倒的な実力を持つのはコートにいる彼らだから。

「こいよ」

 挑発。優狩は受けて立つ。

「キャッ!」

 二度転倒、しかし七転八倒九立、人間は意志さえあれば、最後には立ち上がる生き物だ。

 優狩は立ち上がる。

 三度目のドリブル。

 しかし、倒される。正当なタックルで。

 起き上がった優狩の膝は摩りきれ、肘からは出血していた。

「止めねえのか」

「……?」

 国森はボールを足裏で止めたまま、緖熟に言った。

「お前、坂逆緖熟だろ、マネージャーから聞いてる」

「……」

 国森は緖熟との距離を縮める。

「サッカー上手いんだろ、なら気付いてんじゃねえのか、あいつにサッカーは無理だってことがよ」

 一瞬、我を忘れた緖熟は国森の横っ面を張り飛ばしていた。

「いい」

 少しの間呆気に取られて、直ぐ様緖熟に向かって歩き出した炎木を制止するように、国森は手のひらを向ける。

「どういう意味だ」

 自分でも、怒っているのは理解していた。

「身体はよえー、ボールは遠くに蹴れねえ、そんな奴に何ができんだ」

「出来ることは何だってある。サッカーは無理だって? 訂正しろよ」

 慣れていない感情、最後に怒ったのはいつだったか。

 ……昨日ユナイテッドが負けてタブレットを布団にぶん投げたのを思い出した。

「いいんだよ緖熟っち。勝てない僕が悪いんだ」

「まだ決まってませんよ先輩」 

 袖を引く先輩に言った。振り向いて見た先輩の顔は暗く沈んでいる。

 そりゃそうだ。

 いつだって現実は残酷だ。

 ずっとずっと先輩は苦しんでいたはずだ。

 身体をぶつけられる度に、地に伏せられ、泥の味がする苦渋を嘗めさせられる度に。

 覆せない現実。

 どう頑張ったって身体の骨格は変えられないし、どう足掻いたって先輩がフィジカルでは勝てないと言う現実は覆せない。

 だから今の挑戦だって無謀なのだ。

 後何十回、何百回挑んだって先輩は負ける。ただの一度も勝てることなく。

 先輩は交わせないし、弾き飛ばされる。


 でもだから何だって言うんだ。


「勝手に先輩のこと決めつけてんじゃねえよ。お前ら、強いんだってな。俺らがやってるのは11人制のだぜ。一対一のこんなお遊びじゃねえんだ。インターハイまで上がってこいよ。そこで勝負しようじゃねえか」

 ああ、思い出す、この煮えたぎる感覚。久しぶりの感覚。

 緖熟の口調はイングランド時代に戻っていた。その時は英語だったけど。

 緖熟が言いたいのは一対一で勝ったからって何だと、そう言う事なのだ。

 フットボールは11人でやるスポーツだ。一対一で勝ったって何にもなりゃしない。

 優狩が選手として国森にいくら劣っていようが、優狩がいるチームが国森がいるチームに勝てばそれでいいんだ。

 フットボールで何よりも大事なことはチームの勝利だ。それだけが大事であってそれ以外はどうでもいい。

「……国森、そこまでにしとけ。いいだろう、君たちがインターハイ本選まで上がってきたら、その時決着を付けよう。ただ坂逆君。まだこの試合の勝負は終わっていないよ」

 冷静そのもの、まるで動く冷蔵庫かのように、或いはターミネーター2のシュワちゃんかのように落ち着き払って炎木は言った。

「そうですね」坂逆緖熟はいつの間にか国森から奪っていたボールを無人のに思いっきり蹴り飛ばし、ネットに当たって足元へ戻ってきたボールをトラップすると言った。

「残り時間は一分ちょっとあります。もしその間に俺たちが決められなかったらそっちの勝ち、決められたらこの勝負は引き分け、これでどうですか?」

 二人とも頷く。

 それを確認した後、緖熟は振り返って、目の前の出来事に呆気に取られた先輩に言った。

「先輩、俺に策があります」

 十数秒の作戦会議の後、ボールを持って敵陣に侵入する。

 国森は嘲笑を浮かべていた。

 ああやっぱりそうか。お前もそうだよな。あいつじゃ勝てないって分かってるんだもんな。

 緖熟はボールを前に運ぶ。しかし、国森の寄せに、サイドへと追いやられてしまう。

 時間は後二十秒。

 ニヤリと笑って、緖熟の足元のボールへ国森が足を伸ばした──が、


 緖熟はボールを持っていなかった。


 どこへいったと国森が一瞬困惑するが直ぐに見付かる。そして、更に困惑した。

 ボールは、緖熟の斜め後ろを転がっていた。

 逆サイドのハーフラインぎりぎりに立つの方へと。

 つまり、坂逆緖熟はバックパスしていたのだ。踵でボールを蹴って。

 ルール上はありだが、不文律として、誰もやらないバックパス。何故ならここに来ている人間はドリブルを見せびらしたいから。

 でも、坂逆緖熟は違う。だから選べた選択肢。

 サイドからサイドへのパス。そうすることによってこの試合、初めて生まれた優狩と国森との絶対的な距離。

 優狩はドリブルを開始する。直ぐに国森が距離を詰める。

 さっきまで、優狩は国森と真正面から静止した状態、つまりゼロ速度で対峙していた。だから国森は容易に優狩にタックルする事が出来た。

 しかし、此度は、優狩はスピードに乗っていた。

 今までのように身体をぶつける事は出来ない。

 だから、国森のタックルは優狩の真横、つまりはファールになる位置でぶつか──


「なっ」 


 そのうめき声はネットに突っ込んだ国森が洩らしたものだった。

 優狩は

 スピードの急速な緩急チェンジオブペース。 

 その動きに国森はついていけなかった。

 別に、この試合は一人で攻めなければいけないわけではない。

 国森を、優狩は緖熟と共に攻略したのだ。

「あのバカ」

 慌てて炎木がゴールへのコースを消しながらプレスする。

 それを見た優狩はドリブルして、また止まり、同じヘマを繰り返さないようにと止まった炎木の前で、足を動かさせるよう左足でボールを跨いで、足をクロスさせたそのまま右足インサイドでボールを蹴り出し、誘導された国森の左足と右足の間──股の間を通して、ゴールを決める。

「ピピピッピピーー」

 試合終了を告げるタイマーがなった。結果は

「勝負はお預けです。またインターハイで決着をつけましょう」

 にっこり笑顔で、優狩は言った。

「……」

 炎木はグラウンドに膝を着けたまま、動かない。

「じゃ、緖熟っち、帰ろっか」

 優狩と緖熟は出口へ歩く。

「お、おい待てよ!」

 国森の声に優狩が振り返ることはなかった。

「ちょっと君たち、まだ延長が」

 係員の制止に優狩が言った。

「この試合は引き分けです」


「先輩、俺、マンチェスターユナイテッドのアカデミーに居たんです」

 先輩の奢りで来たジョリーパスタで、緖熟がシーザーサラダを食べてると、フォークを止めて唐突に言った。日本に帰国してからひた隠しにしてきた事を。

「へっ?」

「走れなくなったのを理由に今はもう退団してるんですけどね。俺も昔はもっと走れたし、自慢じゃないですけどチームでも一番早かった。でも怪我が原因で早く走れなくなった。アスリートらしい能力が求められるようになった現代フットボールなら身体が小さくても世界一過酷なプレミアリーグでやっていけると思ってたんですけどね。でも唯一の武器が無くなったんです。だから俺は血の吐くようなトレーニングをして必死に身体を鍛えました」

「……」

 緖熟の話すトーンは真剣だ。

 前菜盛り合わせを食べる優狩の手も止まる。

「先輩、もし俺がまだ走ることが出来たら多分、と言うか絶対あんなに鍛えなかったと思います。だって必要ありませんから。だから先輩、先輩も無理に完璧を目指さなくてもいいと俺は思いますよ。先輩は身体的接触を避けているって言ってましたけどそもそもそんなの当たり前何です。俺だって避けてますもん。だって身体ぶつけられたって怪我のリスクがあるだけですから」

 じゃあ、このままずっと身体的接触を避けてプレーしろと言うのか?

「そうですよ」

「でも、キミさ、そんな選手を起用したいと思うかい?」 

 北高校サッカー部の選手起用を決めているのは坂逆緖熟ではなく、監督の瑠璃叶火だ。だから、優狩が言ったことは、そんな弱点のある自分を見掛けによらずシビアなあの監督が使うのかと言う問いに他ならない。

「思いますよ。その弱点を補って余りあるがあればね」

 だから瑠璃叶火は優狩を起用しているのだ。むしろを最大限活かすために同時起用するキャプテンの騎院を潰し屋に徹しさせてまで。

「じゃあキミは僕に、僕の武器を見付けろって言いたいのか」

「はい」

「緖熟君」

「……」

「ありがとう」

 坂逆緖熟がマンチェスターユナイテッドのアカデミーに居たと言うことには、驚いた。けれども色々納得できたと思う。どうして坂逆緖熟はあんなにサッカーが上手いのか。

 それにそんな彼が、だからこそ言うそのアドバイスにはいくばくかの説得力が感じられた。

 優狩も気付いていた。どう頑張ったって、自分にフィジカルコンタクトにおいて勝ち目はないと。けれどもその事実が認められずに無茶をしていた。

 ただ、改めて、緖熟に言われて踏ん切りがついた気がした。

「参考になったら嬉しいです」

「うん、凄い参考になったよ。と言うか気持ちに区切りが付いたとも言うべきなのかな。まあでもこれからも筋トレは続けていくことにするよ。一応ね、無いよりは少しでもあった方がいいと思うしさ。1日5時間はちょっと無理かもだけど」

「あ、鍛えるなら俺も手伝います」

「ふふ、じゃあお願いしちゃおうかな」

 付き合いの良い後輩にこの日一番の笑顔で先輩は答えた。

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