第23話 雨上がりの雲
朝一番、鐘楼の下でウーゴが手を振った。受信機の小さな画面にパストールの短いメッセージが走る――公開、完了。昨日の「雨の誓い」の映像は、教会や修道会のアカウント、幾つかの海外NGOにミラーされ、同時に政府系の匿名アカウントが「テロ訓練の偽装」と中傷を始めていた。第三者立会いの腕章も時刻札も画角に映っている。
日向は頷き、固定カメラの角度と時刻板の位置を微調整した。撃つ側に「撃ちづらい」理由を増やすのも、ここでの戦いだ。
教会の敷地に、白い板札が濡れた木肌を乾かしきれずに立っていた。Voto de la Lluvia――雨の誓い。板の下には、小さな文字で三つ並ぶ。「撃たず、奪わず、折れず」。オジーが腕組みを解き、深く息を吐く。外の空はまだ湿っていた。
不穏は昼前に来た。村外れの放牧地でヤギがよだれを流し、足をもつれさせた。風下から鼻先に刺さる匂いが届く。アヴリルは迷わず葉の裏の露を指で撫で、粒子の付着を確かめた。微細な粉が、露の面に薄く残る。日向は黒板に山の断面を描き、谷風と山風が切り替わる時間帯を書き込んだ。
「ガスは午後の山風で下りてきます。この稜線で持ち上げて空へ薄め、森では露の幕で粒を重くして落とす。人は喉と目を守ってください」
フリオがうなずき、作業指示を一気に飛ばす。
「炭布マスク、急ぐぞ。洗浄線を三カ所。教会は陽圧しろ」
男たちが木炭を砕き、女たちが布を重ねる。綿布を畳んで多層にし、砕いた木炭を灰汁でうっすらのり付けした層を挟み込む。表面は湿らせ、鼻と口を覆う。目は最優先で水洗い。酢や薬品を混ぜるなと板書きに太い×印。子供は教会の陽圧室へ。窓に湿った布を渡し、手回し送風機をぐるぐる回す。低い太鼓がゆっくり鳴り、呼吸が乱れないように合図を刻む。旗の意味が一本追加された。白に小さな布マスクの印が入れば装着。黄は洗浄線へ。
アヴリルは森に入る。樹冠に細い網を張るように、露の紋を刻む。霧を風で薄く広げ、葉と葉の間に微細な水の鏡をどんどん作っていく。谷口では日向が風核を置いた。上昇の逃がし道を作る。谷底に冷気の小さな渦を散らし、それをゆっくりひとつの芯に繋げる。手の内で回る風の重さが、少し軽く変わる。
昼下がり、空の音が変わった。中型のドローンが列を広げ、電波はざらつき、携帯は何も言わなくなった。鐘が二つ、鋭く鳴る。村人は同時に炭布を顔に当て、子どもは白い腕章の女に手を引かれて教会へ滑り込む。三打。洗浄線のバケツが水音を立て、塩水の瓶が並ぶ。青い旗が上がり、太鼓が拍を早める。
白い霧のようなガスが谷から降りてくる。最初の一波で咳が連鎖し、目頭が熱くなる。アヴリルは露幕の厚みを増し、葉の面で粒子を重くして落とす。フリオがと叫び、チコがノズルを空に向ける。水は雨になり、空から降りる粒を地面へ急がせる。日向は風核の円をひとつ強くし、稜線の上へ霧を持ち上げた。空へ逃がす。谷の動脈が吸い込み、鹿の息のように細く上昇する。
洗浄線では、黄旗の前で一列が整然と動く。塩水で目を洗い、鼻をすすぎ、皮膚は清水で流す。布で押さえ、呼吸を整える。板の図解通りに。第三者の腕章が画角に入る位置で固定カメラが回り続け、時刻札の数字が濡れた板で黒く光る。
ほどなく、咳の波は収まり、泣き顔の子どもにも笑いが戻る。ウーゴが鐘楼の下で親指を立てた。アヴリルは指先の冷えを見て、日向に目配せする。彼は頷き、風核の回転を太鼓のリズムに同期させる。負荷の波を均す。茶の旗が一瞬上がり、畦の溝がさらに深く掘り直される。道は粘土になっていく。
夕刻、刻印が灼ける匂いがした。教会の裏手に、昨日拘束された処理班の一人が連れてこられた。頬はこけ、片膝をつく。
「……夜にまた来る。神父を拉致する。貯水池に混ぜる。俺は……」
声が潰れた。オジーはすぐに第三者立会いを呼び、音声と映像で密告を記録した。密室にしない。彼の身柄は教会の庭で公開保護とする。アヴリルが水とパンを渡し、日向は短く礼を言った。彼は恐怖と良心の間で、ぎりぎりこちら側に倒れた。
夜。月は薄く、村の灯は最小に落とされた。露幕の下でアヴリルは眠り花粉の袋を確かめ、日向は風縄の結び目に指を滑らせた。「僕は貯水池側」「私は教会裏」。目配せだけで役割が決まる。フリオは少人数を配置し、残りは陽圧室と洗浄線に。鐘は鳴らさない。太鼓も止めた。森の音だけがあり、黒が黒の形を保っている。
先に動いたのは貯水池のほうだった。迷彩服が低い姿勢で柵を超え、すり足で水際へ近づく。上からはドローンがひとつ、わずかな音を残して漂う。水面に薄い天幕が張られていた。霧で作った細い膜だ。そこへ投げ込まれた小瓶は跳ね、風にあおられて網の上に転がる。日向の風が瓶をそっと横へ運んだ。
迷彩服が焦って前へ出た瞬間、足元の露が滑り、視界がぼやける。風縄が膝に絡み、身体が前につんのめる。倒れた顎に風の指が軽く触れ、意識の灯がふっと暗くなる。眠り花粉の短い眠りだ。二人、三人。水はひとしきり震え、また静かになった。
教会の裏でも、黒が黒に溶けかけていた。窓の隙間から伸ばされた手は、湿った布と内側からの押し返しに阻まれる。簡易陽圧は彼らの喉に届くはずのものを押し返した。アヴリルは露幕の陰から歩み出て、風の糸で指先のナイフをはたき落とす。蔦が足首を締め、眠り花粉が鼻に乗る。短いやりとりの後、庭には静かに寝息だけが残った。
全員を蔦で拘束し、第三者立会いの下で引き渡し地点へ運び出す。夜の記録は暗く、音は小さいが、それでいい。必要なのは、見せるべき骨の部分だ。
夜が白むにつれ、痒みと目の痛みは退いていった。洗浄線の桶は何度も水を入れ替えられ、子どもは温かい茶で喉を潤す。高齢の男が一人、長めに教会のベンチで休むほか、大事はない。パストールからのメッセージが再び届く。
「第二弾、公開」
化学散布の映像と洗浄の手順、陽圧室の運用と非戦の徹底。医師会と法曹からの反応が始まり、「非致死剤の乱用」が議題に乗り始めた。遠くで何かが動き出している。
密告者は庭の隅で座り込み、毛布にくるまれていた。武装放棄、証言、一定の奉仕。彼は短く頷き、足元を見つめた。戻る道は確かにここにある。
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