第9話 砂塵の国境、紙の身分
樹海の匂いが切り替わった。湿った腐葉土の息吹が薄れ、乾いた埃と軽油の臭いが鼻の奥を刺す。ラベリント地峡の密林を抜けたと、睦月日向ははっきり自覚した。茂みの向こうに、むき出しのブロック塀と錆びたトタン屋根の帯が続いている。低い丘の上では発電機がうなり、一軒の売店からラジオのノイズ交じりのラテン音楽が流れていた。
ここがレナトゥス側、国境の町――リアーノ・エステレイト。
「足、止めるな。通り抜けるぞ」
前を行く匠海が短く言う。視線は明後日の方を見ているのに、足取りだけは迷いなく市場の方へ。日向も続いた。
もちろんビザはない。エステバン経由で用意できるはずだった
通りに入ると、人いきれが波となって押し寄せてくる。発泡スチロールのクーラーを抱えた少年がコーラを売り、闇両替屋が握り拳ほどの札束を扇のように広げる。路肩には「リアーノ・エステレイト行き」と書かれたボロのバンが次々と到着し、荷台から人が溢れ落ちる。逆にこの町から出ていくバス停は拍子抜けするほど閑散としていた。
「いいか、日向。ここから俺たちは陳さんだ」
匠海が歩きながら小声で伝えてきた。ここでは日本人の観光客は目立ち過ぎる。「華僑の商人」を装え、という話だった。
レナトゥスの独裁政権と中国は政治面でも経済面でも結びつきが強い。破綻国家と言われていても、この国で商売をする華僑は多いのだ。レナトゥスで東アジアの黄色人種が怪しまれない経歴は、商売のためにやって来た中国人――ほぼ一択となっていた。
「名字、陳。名前は……文でどうだ。チェン・ウェン。商材は日用品。値切りを忘れるな。癖にしておけ。スペイン語は訛って、早口は避けろ」
匠海が渡してきたのは安物の名刺束。スペイン語で印刷された社名に雑な行書体の漢字。ポケットには大きめの計算機、ビニール封筒に詰めた小額紙幣。日向は野球帽とサングラスを買い、鏡代わりのガラスに映る自分へ一度会釈した。嘘は苦手だ。けれど、守るための嘘だ。
市場の陰で匠海はごく自然に屋台へ声をかけ、焼けた肉串を二本買って、そのついでに「首都への乗り継ぎ」を聞き出していた。言葉は鋭く、笑顔は柔らかい。バスターミナルの係員、喫煙所の運転手、行き交う客引き――三人と話せば二つは情報になり、ひとつはノイズになる。その選別を匠海は呼吸するように自然とやってのけた。
「まずは中規模の町までローカルバス。そこで長距離に乗り換える。安過ぎるバスはやめろってさ。強盗が出る」
「了解です」
闇両替屋で米ドルを差し出すと、両手いっぱいの札束が返って来た。紙は薄く、端がけば立っている。数字だけが派手で手触りは頼りない。売店のテレビでは配給の列と「愛国」を叫ぶコメンテーターが映っている。ボリュームは妙に大きいのに音はどこか遠い。
バスターミナル。奥の方に停められたローカルバスは側面に花と聖人のステッカーを貼り、フロントガラスの上には手書きの行き先がぶら下がっていた。運転席の隣には鶏の入った籠。座席はふわふわの合皮だが、スプリングの感触がむき出しに背中へ伝わる。
「乗ったらすぐ現金は分散しろ。二人で持つ、小額をいくつも」
匠海の声。日向は頷き、帯状の紙幣をベルトの内側と靴底に滑り込ませた。嘘と現金。ここを通るための最低限の装備だ。
バスが唸りを上げて走り出す。窓の外、未舗装路の水溜まりが、太陽を受けてぎらりと光る。タイヤが掘った筋に沿って車体が跳ね、固いサスペンションが容赦なく尾てい骨を突いた。頭上の荷棚がガタンと鳴るたび、舌を噛みそうになる。日向は歯を食いしばり、呼吸を深くした。魔法で身体強化を――と喉の奥まで上がった衝動をぐっと押し殺す。
途中、路肩に古びた制服の男たちが立っている検問があった。銃は持っていない。運転手がバスを止め、窓越しに小さな紙片を握らせる。男はそれを胸ポケットへ押し込み、無言で手を振った。秩序と無秩序は、ここでは一枚の紙で折りたたまれている。
隣に座った老婆が十字を切ってから日向の腕を軽く叩いた。
「夜は走っちゃいけないよ。目が慣れないと、悪いものを見落とすからね」
老婆は牙の欠けた笑顔を見せた。言葉の意味は半分しかわからないが、その表情は不思議に温かかった。
◇◆◇
中規模の町に着くと、バスターミナルは思ったより整っていた。屋根の高い待合、売店、券売所。長距離バスの車体は新しく、車内にはクーラーが効いている。座席指定。それだけで人心地つくのがわかった。
切符を買うカウンターで匠海が身振りを交えながら乗り継ぎを確認する。窓口の女性は観光客がほぼいない、この国で華僑の訛りを特に気にする様子もなく、パンフレットに油性ペンで丸をつけた。
「護衛がつく区間もあるらしい。だが、絶対じゃないって話だ。念のため、夜は極力眠らないで行こう」
バスに乗り込むと、隣の席に若い父親が幼い息子を抱いて座っていた。父親は日向を見ると、軽く顎を上げる。
「気をつけろよ。いきなり影の料金所が出ることがある。石を投げてバスを止めたりな」
父親はそう言って窓の外の景色を指差した。丘の向こうに、かつての給油所の跡。錆びた建物の骨が、日向の目に映る。言葉を返そうとして日向は笑顔だけにした。自分のスペイン語はまだ「聞く」には足りるが、「答える」には足りない。
バスは滑るように道路へと乗り出すと、ぐんと速度が上がった。車窓に広がるのは乾いた草原と、点々と立つ鉄塔、遠くに沈んだ貯油タンクの影。太陽が傾くにつれ、車内は青白くなり、クーラーの冷気が汗を乾かす。眠気が瞼を重くする。だが、匠海が肩を軽く突いた。
「交代で寝る。三十分ごとだ」
「……わかりました」
日向は目を閉じ、耳だけで車内の音を拾い始めた。乗客の囁き、シートベルトの金具が触れる小さな金属音、運転手がラジオのボリュームを上げ下げする擦過音。外から聞こえるタイヤの唸りに不自然な変調はない。魔法に頼らず、今は人間の耳で世界を測る。
小さな休憩所。薄暗い売店。パンと甘いコーヒー。トイレの前に長い列。匠海が外に出ると、日向はバスのステップに腰を掛け、手のひらの汗を風に当てた。見張り役のように立つ男が、こちらを一度だけ見た。敵意は、感じない――気がした。ここで《
結局、石投げも影の料金所も出なかった。窓の外で夕陽が膨れ、山の影が長く伸びる。警戒心が少しだけ緩んだ。揺れに合わせて、うとうとと意識が薄れる。
◇◆◇
首都アマネセールに着いたのは夕方だった。バスが高台を回り込むと、いきなり視界が開けた。カリブ海に面した湾が広がり、岸辺から同じ形のマンションが整然と並ぶ。その奥に古びた高層ビル群が立っていた。一昔前のデザイン、硝子はくすみ、コンクリートは雨筋を引いている。かつてオイルマネーが国を富ませて時代の遺産だ。山の斜面には色とりどりのバラックが隙間なく貼り付いている。海からの風が意外に涼しい。緯度は低いが、標高が高いせいだろう。
ターミナル前には客引きが群れ、安宿の看板がきらめく。日向と匠海は正面を外し、一本裏通りに入ってから二線級の宿を選んだ。鉄格子の扉、監視カメラ、現金前払い。部屋は狭いが、鍵は生きている。
荷物を置くと、匠海はすぐにスマホを取り出した。eSIMは購入済みだ。政府による通信の監視と検閲は日常的に行われている。VPNなしには愚痴も零せないのが、この国の実情だった。匠海は連絡先の一人にメッセージを送る。返ってきたのは場所と時間だけの、そっけない文字列。「明日、昼。旧港の倉庫群」。匠海は短く息を吐いた。
「日向はどうする?」
「……これを見てください」
日向は財布の奥から折り目のついた小さな紙を取り出した。祖母が昔、渡してくれた連絡先。色褪せたポラロイドの写真――祖母より少し若い年頃の女の人と小さな子ども。背景に斜面の家並み。墨のような黒髪。笑顔。自分の血のどこかに、その笑顔の形が残っているのだろうか。
「WhatsAppで連絡してみます」
スペイン語の短い文を打って送信。既読はつかない。電波は途切れ途切れだし、番号が生きている保証もない。この経済状況で、どんな暮らしをしているのか――日向は胸の底に小さな棘のような不安を感じた。
窓の外、落日がビルの窓に薄く反射し、斜面の
「明日はどうする? 俺のボディガードの代わりでもしてくれるか?」
匠海の提案に日向は頷いた。
「一緒に行きます。……それに祖母の親族の住む地域も当たりをつけたいですね。匠海さんの用が終わったら、そっちを回ります」
「
短い会話。言葉の数は少ないのに胸の中は騒がしい。密林を抜け、国境を越えた。ここまで来たのに足場はまだ紙のように薄い。だけど――ここから始めるのだ。祖母の血が眠るこの国で、途方もない夢の第一歩を。
窓の外へ目をやる。アマネセールの夜が始まりかけている。遠くの湾に星のような船の灯が浮かぶ。日向はスマホを伏せ、深く息を吸った。胸の奥、どろりとした迷いの中でも、たしかな熱が灯っている。
――ここから始める。理想を口にするだけで終わらせない。
薄いマットレスに背を預け、瞼を閉じる。密林の湿気はもうない。かわりに、古い建物の埃っぽい匂いが鼻に残る。耳の奥で発電機の唸りと海風と、どこかの犬の遠吠えが混じり合った。
明日、倉庫で誰に会うのか。祖母の親族はどんな顔で自分を見るのか。全てを抱えたまま、日向は浅い眠りに落ちた。
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