第4話
時間を潰して家に帰ると、奥から夕食の香りが漂ってきた。音を立てないように、気配を殺すように自室へと入り、引き出しを開ける。動いていない宝石を見てほっと息をつく。同時に絶望した。いつまでこんな生活を続けるのか。
罰を欲し自首しようかと考えたが、『神の町』の警察は機能停止しており難しい。警官は銃で市民を脅し、犯罪集団と笑いあって麻薬を吸う。出頭しても、留置所さえ存在しないのですぐに解放されるだろう。この町はロージャを罪から逃がさない。
不意に鏡を覗くと亡霊のような顔が映っていた。これが自分なのかと笑ってしまう。げっそりと疲れた顔は悪魔のようだった。
母は気づいているのかもしれない、と思った。ひどい顔をさらし続けていれば何かあったのかと心配する。気づいた上で黙っているのではないか。それは大きな愛だと思えた。
なんとなく顔を見たくなり、キッチンへと歩いて行く。
料理をする後ろ姿に「母さん」と声をかけると、優しい顔で振り向いた。
「もう帰ってたのかい。少し待っておくれ」
料理に戻る。てきぱきと作業を進めていた。
話題はなく、母の後ろ姿をぼーっと見つめる。家族のため身を粉にする姿に胸が温かくなった。
ロージャの居場所はこの家だけだった。ここで嘘を重ねれば、本当の自分が消えさってしまう。
つい、気が緩んだ。赦されたい思いが抑えられなくなった。
無意識のうちに、口から滑り出していく。
「僕、クラブをクビになったんだ。才能がないんだってさ」
母がピタリと料理の手を止める。火にかけている鍋がコトコトと音を立てていた。
――ぞっとした。振り向いた母は、無表情だった。
「なんて。聞こえなかった」
失敗した――。
すぐに後悔したが、後戻りできないと悟った。破滅への言葉を続けていく。
「サッカー選手は諦めろだってさ。もうクラブに来なくていいってさ」
「監督にいわれたの。あの、三流に」
「うん。あと、トライアウトにも落ちてたよ。僕の年齢だともう厳しいって」
目を合わせられない。冷や汗が背中を伝っていく。
寒い。肺が悲鳴をあげるほど、キッチンが凍り付いて行く。
すでに後悔していた。隠し通せば、この家族はずっと夢を見ていられた。楽になりたい一心で壊してしまった。
「じゃあ、隣町のクラブに申し込みにいこうかね。一流の監督なら、あんたの才能をきちんと見てくれる」
「そうだ――」
肯定しようとして、自分の心の現状を思い出す。情熱は一かけらも残っていなかった。家族の崩壊と地獄の修練。二つを天秤にかけて、前者の方がマシだと判断した。
滅びへと前進している自覚はある。それでも、口からあふれ出していく。
「――いや、もう、僕には無理だ。才能がないよ」
実際、ロージャに才能があるかは自分でも判断がついていなかった。
そんな卑怯者を、母は逃さない。問い詰めるように口を開く。ロージャの苦しみに気づいているという幻想が一瞬で消えた。母は『神の町』に住むロージャではなく、幻想の世界に住む才能あふれた救世主だけを見ていた。
「あんたは天才だよ。この家の英雄になるんだから」
「結果として、無理だったんだ」
ふっ、と母は笑った。口元を歪ませ、ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべる。
初めて見る表情だった。まるで別人だ。喉元は張り付いているのに、助けを求めるようなうめき声が腹の底から漏れ出てくる。
ごめんなさい、と本能が謝罪を繰り返していた。
「あんたはあたしの息子だったんだね」
火にかけていた鍋が沸騰し、ゴトゴトと荒々しい音を立てる。今にも爆発しそうで恐怖したが、身構える気はなかった。罰を下してほしい。楽になりたい思いが身体を破滅へと進ませる。恐怖と期待で頭が混乱した。
だが、鍋は爆発しなかった。火は消え、静かに沸騰が収まっていく。
嘲るような笑みが、悲痛な涙へと変わっていく。どちらも本質的には苦悶の表情だった。
「ごめんね、苦しい思いをさせて」
驚いて顔を見る。攻撃も覚悟していたが、母はロージャを憎んでいなかった。ただ敗北の事実に苦しんでいる。自嘲するような歪んだ笑みはさらに歪み、僅かに涙が浮かんでいた。攻撃的な憎悪は、母自身に向けられていたのだろう。
拍子抜けだった。赦されるとは思っていなかった。
「怒らないのか」
「あんたが頑張ったのは知っている。お金は何とかするよ。生きてりゃ何とかなるさ」
簡単な話ではない。ロージャに投資したすべてが消えたのだ。頼りの金がなければ財政計画は破綻する。莫大な借金もあり、破滅寸前だ。
「……ごめん」
「仕方なかったのさ。それより、あの子らに夕食が遅れると伝えておくれ。今日の夕食は、豪華にしよう」
その後、しばらく待ってから出てくる夕食は豪華だった。ロージャだけでなく、弟たちにも肉がたっぷり入っており、生まれて初めて食べる御馳走に興奮していた。
母ともゆっくり話し合った。苦しかったこと、無理だと思ったこと。
これからは、真っ当な大人として、普通の生活を送りたいことを……。
翌日からコーヒー農園で働くことになった。弟たちとは別の場所だ。初めての労働は不安だったが、サッカーの練習で体力はついていたので、すぐに気に入られた。奴隷のよう労働だと予想していたが、実際は良くも悪くも適当であり、仕事を気真面目に覚えようとするロージャはむしろ驚かれた。
「お前さんは真面目過ぎるよ。そんなんだと、オレまで疲れる。どーせ真面目にやっても給料は変わらないんだ。オーナーが喜ぶのはシャクだろう」
無精ひげをさすりつつ上司が言う。ロージャは困惑した。今まですべてをサッカーに捧げており、適当に手を抜く方法を知らなかった。
「こうして葉っぱでも吸って楽しむんだよ。楽しまなきゃ、何のために生きてるかわかんねえだろ。これやるからよ」
上司はニヤニヤと袋を渡してくる。知識はないが、違法な葉っぱだと理解した。アスリートとして身体によくないものを遠ざけてきたので、自然と拒否反応が出てくる。
「遠慮します。趣味じゃないので」
「そう? じゃ、オレ一人で楽しませてもらうよ」
咎める様子はなく、一人で服用して悦に浸っている。幸せそうな表情だったが、美しくないと思った。誰に罰せられなくても、罪を重ねたくない。
「そんなに固くなるな。楽しんだもの勝ちなんだ」
「ですね」
一般的な観点からすると、ロージャの労働量は相当なものだった。だだっ広い農園を上司と二人だけで任されており、逃げ出す人が多いからこそロージャは採用されたらしい。だが、トレーニングと比べると苦痛は少なく、使命感なき活動は物足りなかった。
新しい生活に戸惑う。よくわからないうちに一日が終わった。
家に帰ると、ちょうど帰宅した母と鉢合わせた。
「お帰り。夕食はちょいと待ってね」
「どこに出かけてたんだ?」
「チビ二人を売りにね。交渉が長くなっちゃったよ」
弟二人を売る、という意味がよくわからなかった。慌ただしくキッチンへ向かっていく母を呼び止める。振り向いた顔はやつれていた。
「売るって、何を売ったんだ」
「だから、あんたの弟二人だよ。借金を返せないときはそうするって約束だったんだよ」
はあ、と間抜けな声が出る。
「……で、あいつらはいつ帰ってくるんだ。もうそろそろ夕食だろ」
「だから、売っぱらっちまったよ。二度と帰ってくるわけないよ」
吐き捨てるように言う。荒れた様子でどすどすとキッチンへ向かって行った。
玄関に取り残されて、ぽつんと立ち尽くす。
母は何を言っていたのだろう。
売る、というのは人身売買だろうか。いやそんな大げさなものではない。農園で奴隷労働を強いられるくらいだろう。『神の町』では珍しくない。誘拐や殺人でないだけマシな方だ。ありふれ過ぎて悲劇とすら言えない。金がないなら当然の結末だった。
すぅっと胸にしみこんでいく。金がないから弟たちは売られた。理解した。
金がないのは、ロージャが稼げなかったから。理解した。
稼げなかったのは、ロージャに才能がなかったから。理解した。
才能がなかったから、弟たちは売られていった。納得した。
硬直していた体がようやく動き、家に入る。静かだった。カチカチと時計の音が響き、人の気配がしない。母が用意する食事は二人分だった。なるほど、昨夜は最期の晩餐だったらしい。間抜けなユダはまだ残っていた。
「あぁ……」
ようやく理解が実感へと変わり、声を漏らす。
なんだそれ。ロージャの失敗で弟たちが犠牲になるなんて、道理にならない。
だが、納得してしまう。借金には相応の支払いが必要であり、子供は妥当な取引だ。絵具をぶちまけたような色彩の『神の町』では、まっさらなまま生きられない。原因はロージャであり、母を責めるのは筋違いだ。
ふふふ、と笑いがこみ上げる。カオスな感情の奔流を吐き出すように声量は大きくなっていき、ついにはわははと豪快な声が止まらなくなった。汚れたピエロを嘲るような笑い声だ。
自分は違うと思っていた。『神の町』に暮らしていても、罪を犯さない自分が誇らしかったのに。
ロージャは、ロージャが思うより平凡だった。
認めてしまえばすっと肩の荷が下りる。汚れた身体は取り繕えない。だから、笑うしかなかった。
ただ、一つ気になることがある。キッチンへ向かい、母の背中に向かって問うた。
「なんで契約を黙ってたんだ。失敗したのは僕だ。僕を売ればよかったんだ」
契約は覆らない。今からロージャと弟を取り換えるのは不可能だ。けれど、後悔が止まらない。契約を知っていれば、ロージャは身を差し出した。自分だけが助かろうなんて思わない。むしろ、相応の罰を望んでいた。
「あたしを救えるのは、あんただけだからね」
後ろを向いたまま、淡々と言った。
奇妙な嫌悪感を覚えた。目の前の女性は本当に自分の母なのかと戸惑う。
母の言葉は小さな違和感となって胸を刺す。
「あの子たちじゃあたしを救えない。この町から抜け出せない。あんたの才能と頑張りを、正しくひいきしたかったのさ。サッカー選手を諦めても、あんたが一番有能で、一番金を稼げるだろうね」
抑揚のない声で語られ、ロージャは絶句した。
母の言葉に家族の情を感じなかった。裏切られた思いだ。絶望がロージャの足元から忍び寄ってくる。
弟たちへの厳しさは愛情の裏返しだと信じていたのに。
「自分が何をやったかわかってるのか」
「それを、あんたが言うのかい?」
皮肉に言われてどきりとした。ロージャが招いた結末だった。
暴力の衝動に駆られ、こぶしを握り締める。爪が食い込み痛かった。
けれど、振るえない。腕は震えるばかりで動かない。怒る資格も嘆く資格もないと理解していた。
ロージャは黙って受け入れるしかなかった。
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