凡人の失楽園
@takahasimomiji
第1話
「プロサッカーは、神様に愛された者たちの戦場だよ」
監督は腕を組み、気まずそうに言った。トライアウトに落ちた翌日だった。
ロージャの「はあ」と間抜けな声が、グラウンドから聞こえるホイッスルにかき消される。普段は容赦ない物言いをする監督が、婉曲的な言い回しをする歯切れの悪さに戸惑った。
「やっぱり、年齢が厳しい。若さは才能なんだ」
監督の無念そうな瞳が、ロージャの評価を物語っている。失望ではない。育てられなかった悔しさで血がにじむほど唇をかみしめていた。
クラブハウスは静まり返り、質の悪いラジオが場違いに流れ続けていた。
ぼんやりとした頭で反論する。
「諦めるには早いですよ。遅咲きの選手だってたくさんいます。例えば、エストレラ選手とか」
「スーパースターと比べちゃいかん。遅咲きと言えど素材が別格だった。彼に憧れるのは構わんが、身の丈に合った人生計画は必要だよ」
「憧れてなんていませんよ」
ロージャの不機嫌を悟ってか、監督は困ったように苦笑いをした。
「忠告は本当に良心なんだ。サッカーを趣味で続けるなら、今みたく朝から晩まで練習するわけにはいかないだろ」
趣味、と言われてささくれ立った。不信感を抱く。五歳から毎日ボールを追いかけ、命を賭して研鑽を積んできたのだ。努力の結末がお気楽な趣味人と同じなんて耐えられない。提案した監督を少し軽蔑した。
「半端な気持ちでやっていません。まだ三回落ちただけですよ」
天才の条件は諦めないこと。成功するまで諦めなければ失敗ではない。
「だが、君自身、限界を感じているだろう」
言葉に詰まった。トライアウトで失笑された光景を思い出す。あっさりとドリブル突破を許し、仲間からため息をつかれた瞬間を思い出す。恥辱だった。
「まあ、私が決めることでもない。家族と話してゆっくり決めるのがいいだろう」
ニコニコと言われた。柔らかな口調の中に圧が見え隠れする。
もしかすると、ロージャにクラブを去ってほしいのかもしれない。迷惑そうに揺れる瞳を見て察してしまった。
「また来ますよ」
ロージャは荷物を手に取り、クラブハウスを出て行った。
ロージャは『神の町』を歩いて行く。無論、この町に神様はおらず、リオデジャネイロのような宗教的名物もない。政府に見限られて治安が悪化し、犯罪者天国となった町を皮肉っての命名だった。かろうじて教会はあるが、神父すらいない廃墟と化している。
状況が変わったのは、『神の町』出身のエストレラ選手がワールドカップの代表に選ばれてから。サクセス街道を駆け上がった彼は、『神の町』に巨額の寄付を続け、町の機能を回復させた。この町に初めて神が降臨した瞬間だった。
町のいたるところでエストレラ選手のポスターが張られ、崇められている。子供はイエスキリストより先に彼の顔を、聖書よりも彼の英雄譚を先に知る。ロージャが通うサッカークラブも多額の寄付金に支えられていた。クラブハウスにはエストレラ選手のサインが飾られている。
吐き気がするほど胸糞悪かった。
幼いころ、エストレラ選手とはチームメイトだった。二年ほどの付き合いだったが、彼と過ごした記憶は今も鮮明に残っている。ずっと、彼の背中を追いかけて練習していた。
だからこそ確信する。彼は英雄ではない。
彼の才能を認めても、代表のレギュラーは過大評価だとロージャは結論付ける。世界のスターを相手に対抗できず、ミスを連発してチームを敗退させた戦犯になっていた。周囲が彼を持ち上げるのが不可解だ。
メインストリートを歩けば彼の顔を見ない日はない。家々から漏れるラジオは彼の活躍を褒めたたえ、あちこちに張られたポスターにはシュートシーンが写されている。煌めく星の光を全身に浴びるたび、自分の影が濃く映し出されるようで耐えられない。一刻も早くプロになりこの町を出ていきたい。一流の舞台に立ってやると固く心に誓った。
閉塞感を抱きつつ帰路をたどる。『神の町』は掃きだめだ。計画性のない超密集住宅街は雑多な色彩で溢れ、家々の窓から突き出た洗濯物は不快に湿度を上げている。人が集まる街は臭い。道端に転がる性病患者も、薬で狂い果てた廃人も、眉間に風穴があいた死体も臭気のアクセントになっている。見慣れた光景だった。
だが、どれだけ不快でも疲れた顔を見せられない。『神の町』を歩けば常に路地の陰からの視線にさらされる。窃盗が専門のすばしっこい子供たちが道行く人を狙っているのだ。油断すれば鞄を持っていかれる。警察に助けを求めても、そもそも窃盗集団を率いているのが警官なことも多い。視線を感じつつ、自衛の緊張感とともに早歩きで進む。
――ふと、轟音が聞こえた。肌に重くのしかかる空気の圧は、発砲や爆発とは質が違う。聞きなれない破壊音は好奇心をくすぐった。犯罪集団が跋扈する『神の町』で危うきへの接近は自殺行為だが、先ほどの宣告で自棄になっていたロージャは破滅願望からふらふらと音源へ引き寄せられていく。
路地裏で交通事故が起きていた。『神の町』でまともな自動車を買える者は犯罪者と娼婦だけ。ポンコツ車による事故やひき逃げは見慣れていたが、今回は違った。高級車らしきものがレンガ造りの家屋に突撃し、黒い煙を吐いている。ボンネットが見事にひん曲がっていた。ロージャはほくそ笑んだ。
どんな間抜けが死んだのか、と車に近づき顔を盗み見る。
絶句した。凍り付いたように身動きが取れなくなった。
血だらけで輪郭が歪んでいるが、毎日のように見た顔を間違えるはずがない。
エストレラ選手が、助手席で気を失っていた。
額から血を流し、前方に倒れこんでぐったりしている。ニュースでよく見る端正な顔つきが苦しそうに歪んでいた。
世界がひっくり返る思いだった。目の前の現実が写真のように切り取られ、遠く離れていくようだ。脳が凍り付いたように動かず、「いつ地元に帰ってきたのか」「なぜこんな場所で事故を起こしたのか」と余計な思考で埋め尽くされていく。喜びや悲しみはなく、ただ傍観者として立ち尽くしていた。
茫然としていると、エストレラ選手の胸のわずかな上下運動に気づいた。呼吸は止まっていない。はっと現実感を取り戻し、助けなければ、と使命感に突き動かされた。複雑な思いを抱いていても、元は仲間なのだ。
鍛え抜かれた蹴りで窓ガラスを突き破り、空いた穴から手をさしこんで鍵を開ける。衝突で歪んだドアは簡単には開かなかった。腰を落とし、渾身の力を込めてこじ開ける。右足に刺さったガラスの破片が強烈に痛むも、彼を失いたくない一心が突き動かした。シートベルトを外し、彼を抱えようと両手を広げる。
だが――不意に身体が動かなくなった。
エストレラ選手の首に、ネックレスを見つけた。サッカー選手なら珍しくない。胸元で光る小さな宝石は、それ自体が光源かと錯覚するほど純粋な輝きを放っている。教養がないからか、価値はわからなかった。まぶしすぎる光を直視できず、宝石の輪郭がぼやけて見える。
なぜか、ショックを受けた。善性の情熱に燃える身体にためらいが生まれた。苦しむ彼の前で、時が止まったように動けなくなる。
何を迷っているのかわからず混乱する。かろうじて自覚したのは、この逡巡が悪性であることだけだ。
エストレラ選手は悪いことをしていない。彼の才能に正当な報酬が払われるのは当然で、金の用途に文句を言う筋合いはない。助けない理由になり得ない。見捨てるのは、悪だ。
理屈はわかっていた。それでもエストレラ選手の散財を許せなかった。
善意が急速に鎮火していく。炎の中でなお一等星のように輝く宝石を前に、両腕の力が抜けていく。彼に対して一方的に抱いていた理想像が崩れていく音が聞こえてきた。
人生のすべてをサッカーに注ぐ者のみがスーパースターとなる資格がある、とロージャは考える。少なくとも、同じチームだったころのエストレラ選手にはそのストイックさがあった。宝石という俗世の価値に囚われた虚飾をまとい、サッカーの神様にすべてを奉仕できない凡人の振る舞いをする人ではなかった。失意が胸を満たし、衝動的な善性が闇に覆われていく。ルサンチマンがロージャの内側を満たした。
ああ、と納得する。この事故はサッカーの神様が引き起こした罰なのだ。才能に胡坐をかき、過大評価を実力だと思い込み、高級車や宝石を持つ男に対する怒りなのだ。
神様の運命を妨げるべきではない。腐っても神様に愛され、才能に満ち溢れた男なのだ。罰を全うし、穢れを落とした魂を神様は収穫したいのだろう。ロージャがするべきは救出ではなく、彼の天国への道を舗装することだ。
彼の罪の象徴たる胸の宝石は奪うべきだろうか。悩んでいると、蛇にそそのかされたように言い訳を閃いた。虚飾を身に着けたまま神様の場所へ行けば怒られるかもしれない。ここは取り上げるのが彼のためだろうと思い、ネックレスを外してロージャのポケットに入れた。チェーンがちゃらちゃらと立てる音を聞くと、肺を掴まれたような息苦しさに襲われる。いたたまれなくて急いで踵を返した。
「ロー……ジャ? お前、か」
うめき声が聞こえて思わず振り向くと、エストレラ選手が目を開いていた。意識を取り戻したのだろうか、ゆっくりと虚空に向けて手を伸ばし、口をパクパクと動かしている。
目が合った。思わずそらした。
すべてを見透かすような瞳に貫かれて叫びそうになった。スーパースターに懐かしい声で名前を呼ばれた嬉しさや、彼を助けたい使命感もわずかに生まれたが、ポケットの宝石を中心に生まれた爆発するような焦燥感に身体を支配されていく。悲鳴をあげないようこらえるので精いっぱいだった。
彼の目に光が宿っているのかすらも判断できない。焦点の合わない瞳はロージャを見ているのか。宝石をポケットに入れたとき、エストレラ選手の意識はあったのか。感情と思考が脳を埋め尽くし、宇宙の混沌に叩き落されていく。
ロージャは本能的に走り出した。もしプロの窃盗屋が見ても驚くであろう、最高クラスの脚力による素晴らしい逃亡だった。毎日の走り込みの成果が存分に発揮されていた。
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