10 ヒーロー

「もぉぉぉぉぉぉなんなのさあぁぁぁぁっっっ!?」

「ししししししるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!」

「ヴゥゥゥゥゥ!」


 あの時よりも遙かに大きな熊が、ぬるんっ、と黒の中からあらわれ、地面に着地。二人を睨みつけると一声吠え、どすどす、勢いよく足音を響かせ、襲いかかった。


「車だ、車に逃げるぞ!」

「りょーかいっ!」


 だが二回目ということもあってか、二人とも動けなくなるようなことはなく、熊を見るなり脱兎のごとくかけ出し、十数メートル先の車に向かう。




 だが。




「ヴォッフ!」


 深い焦げ茶色の毛並みを艶々と光らせながら、だすだす、地響きのような足音をたてながら、熊はあっさり、景虎に追いつく。


「はっ」


 速い。


 呟く間もなく、熊は景虎の背後に肉薄した。今にも太ももを食いちぎられそうな、二秒後にでも頭をたたき割られそうな距離。あまりの現実感のなさに、恐怖さえ湧かない。


「景虎ッッ!」


 逃げながら粉砕丸を拾ったエリスは、景虎の腿に噛みつこうとしている熊めがけ、それを投げる。柄の部分が顔に当たって少し、ヴォフ、と唸る熊。




 だが、それだけだった。




 あ。




 エリスは思った。




 だめなやつだ。




 これは、だめなやつだ。




 ツキノワグマとは違う、濡れているような焦げ茶色の綺麗な毛並み。立ち上がればきっと、二メートルを楽々越すだろう巨躯。どんな四足獣よりも太い、電柱じみた手足。楽々、十センチは超す長い爪。本州には絶対いないはずの動物。銃を持っていたとしても、簡単に負けられる、食われてしまう、めちゃくちゃにされてしまう日本最強の動物。


 ヒグマ。


「かげ」


 名前を叫ぼうとした瞬間、それが起こった。


 ヴォフ、と頭をぶるぶる振ったヒグマは、ちらりとエリスを見るだけで、景虎に視線を据え直す。ぐぃん、と音さえ聞こえそうなほど、走りながら体を撓ませる。野生の肉食獣がする、獲物に飛びかかる仕草。おそらくヒグマの体重は三百キロ超。オリンピックの金メダリストだろうが特殊部隊の軍人だろうが、もう、どうにもならない仕草と距離。


 だが、相手は景虎だった。


 五輪種目に奇行五種があれば十二年連続金メダルを成し遂げるであろう少年。特殊部隊の軍人に拷問をかけられたとしても、イヤなことは絶対にやらない、できない、つむじ曲がりの偏屈頑固な、クソキモ陰キャ。


「ぎゃらっっっ!!!」


 意味不明な叫び声と共に筋肉の使い方を知らない者特有の無茶なブレーキと回転を体にかけると、思い切り、その場で垂直方向にジャンプ。筋肉がぶちっ、という音が聞こえた気がする。骨がごりゅっ、といった気がする。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。頭の中にあったのは格闘技の映像や、スポーツ選手のイメージではなかった。ヒゲの配管工だった。金髪のエルフの少年だった。四角い男だった。けれど、それが良かったのかもしれない。腿を狙って低姿勢で飛びかかった熊は体を反らせてその現実離れした軌道を追い切れなかった。そして景虎の手が大口を開けた熊の頭、その頂点に、つく。


 とんっ。


 景虎は艶やかな焦げ茶の毛皮が覆う頭を、跳び箱にして後方に着地。コンマゼロ何秒かの間、体育の授業が自分の人生を救った皮肉に少し唇をゆがめる。だが距離は一メートルも離れていない。熊は急旋回して景虎を追う。しかし急旋回して落ちたスピードを熊が再び手にするまでのほんのわずかな時間。景虎は両手で腰のポーチを開け放つ。黒丸景虎は、こういう備えを絶対に怠らない人間だ。左手にジッポ、右手にスプレー缶を取り出し、振り向きざま、放つ。


「ヴォッッッッ!」


 突如目の前にあらわれた猛烈な勢いの火炎に、熊が一瞬怯む。


 そしてエリスはその一瞬の隙をつき、火と、その向こうの景虎に集中している熊の横を駆け抜け、一足先に車に向かう。最中、景虎と視線を交わす。




 轢き殺せ!




 任しとけ!


 


「ヴォッフ」




 熊は景虎からエリスに狙いを変えた。




「は?」




 スプレー缶の即席火炎放射から、あっさりと目を背け、エリスに鼻先を向けた熊を見て、景虎は間抜けな声を漏らす。


 熊からしてみれば……正体不明の火を使う妙な男より、徒手空拳で、柔らかそうな肉をつけた女の方が、獲物としての優先度は高かったのかもしれない。




「へ」




 どむんっっ。




 走ってきた熊があっさりと自分に追いつき、地響きのような音を立て自分の脚に飛びつき、食いつき、爪と牙をたてるのを、エリスははっきりと見た。くっきりと、その網膜で捕らえた。




 あ。




 そっか。




 死ぬんだ。




 焦げ茶の毛並みに自分の体が飲み込まれ、押さえつけられ、むわっ、とする獣臭が自分を包み、ぢゃむ、ぐりゅ、がりゅん、みたいな音が聞こえて……太ももが、内側から破裂したように思った。よくよく見てみればそれは、熊が今まさに自分の太ももに噛みついているところで、ぐりゅ、がりゅん、という音は、丸太のように太い熊の手と爪に押さえつけられた肘とくるぶしが、地面に押し倒され、皮膚の内側で砕ける音。


「エリスッッ!!!!」


 景虎の声が聞こえる。熊の、がふがふ、という声も聞こえる。地面で暴れる手がそこに落ちていたバールをつかみ、釘抜き状になっている方を口の中に突っ込もうとするも、あっさり払いのけられた。がちゃん、がらん、乱暴な音を立て、バールは地面に転がっていく。


「っ、ぁぐっ、ぃ」


 痛さは不思議と、そこまで感じなかった。ただ、背骨がごりゅごりゅと動かされているような、途方もない違和感と不快感の方が大きかった。痛いより、熱くて、臭かった。ぢゃむ、ぢゃむ、ばゅりん、ぐちゃっちょ、むちゃ、むちゃ、みたいな下品な音が、体の中を伝って鼓膜を内側から揺らしている。自分の太ももをかみ砕いてる熊の頭。それでもなんとか抵抗をしようと、力を振り絞り、指を立て熊の目を突く。当然のようにはずれ、時に猟銃さえ弾く熊の頭蓋骨の分厚さ、頑丈さを指先で感じて、さらに熱くなった。よくよく見れば目を突こうとした中指と人差し指があらぬ方向に折れ曲がっていたけれど、今のエリスはそれに気付かなかった。




 ここで、おわるんだ。




 エリスは思った。




 ああ、ここで、おわりなんだ。




 あはは、ばっかみたい。




 せっかくかわいくなったのに。




 せっかく、やせたのに。




 せっかく、すきなひとに、すきって、いって、もらえたのに。




 しんじゃうんだ。




 あーあ。




 やだな。


 


 だが突如。




「”#$%’!!!!」




 一瞬エリスは、自分を食べている熊が実は宇宙人で、肉のうまさで感動の余り母星の言葉を漏らしてしまった、なんて思ってしまった。けれど、それは熊の声ではなかった。




「ヴォッッッッッッ!!」




 熊の声は、その妙な声の、後にした。




 夢中でエリスを貪っていたヒグマは、まるで火がついたように飛び上がり、エリスの体から離れた。




「エっ、エリっ…………っっっ……」




 熊がどいてようやく、地面に転がるエリスの体を直視する景虎。そしてもう、そこには、ほとんど命が残っていないことを直感的に把握する。ばきばきに折れた骨がのぞく太ももの傷口からはどぶどぶ、赤黒い血が流れ、辺りに血だまりを作っていて、エリスの体はそれに浸されはじめている。




 ああ、あったかい。




 けど、さむい。




 薄れていく意識の中でふと、妙な叫び声をあげながらどすどすと暴れ回る熊の姿が目に入る。その背部……というか臀部に、バールが飲み込まれているのを見て、瞬間、ふっ、と笑いが出た。それはまるで場違いな笑みだった。まるきり、自分の死が避けられないことを知った人間が浮かべるものに見えた……景虎の目には。


 瞬間。


 今までの人生で一番大きな怒りの発作が、景虎を襲った。


 先ほど、エリスが飛びつかれ、食いつかれた時の、数十倍の怒りだった。あの時はその怒りにまかせ、熊の尻穴にバールをつきたてたが、今度は向かう先がなかった。脳みその中でなにかがぶちぶちと千切れていくのがわかる。視界が真っ赤に染まっていく。心臓がニトロをぶちまけられたように速く、強く脈を打ち、体中が燃えそうなほど熱くなる。そして体をその怒りに委ねようとして、しかし、思う。




 違う。




 エリスは、違う、エリスは、壊れてなんかない、エリスはモノじゃない、エリスは、エリスは俺の、俺の好きな子で、俺を好きと言ってくれた子で、俺がこの先ずっと一緒にいる子で、俺が、俺と……。




 がちっ、と、奥歯を噛みしめ、それから、吠えた。




「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」




 人間の、声だった。




 尻穴をバールに刺されのたうちまわっていた熊は、その声に撃たれたかのように体をびくつかせ、よたよた、どすどす、頼りない足取りでその場を足早に去って行った。


「逃がっっっ」


 すかよてめえ、と叫ぼうとして、しかし思い直しエリスの元に駆け寄る景虎。今は一分一秒が惜しい。


「エリス、エリス、おいエリス! まだ生きてるよなエリス!」


 ポケットから例の、クリアを祝ってくれたありがたい紙を出し、彼女の顔の前で広げる。


「帰るぞ、家に、帰るんだ、そしたら」


 ここにこんな紙がある理由、それがこんな風に光っている理由、書かれた残り時間があと一分を切って、着々とカウントダウンが進んでいる理由、そんなものはさっぱりわからないままだ。けれど、備考欄に書かれていた意味は、わかる。




【備考】

プレイ状況は次回に引き継がれますが、homeを選択した場合、状況はリセットされ、その時点でプレイ終了となります。報酬選択期限をオーバーした場合も同様です。




 プレイがなんなのか、リセットがなんなのかは、さっぱりわからないけれど。


 おそらく。いや、確実に。


 家に帰るのを選べば、あのホテルで目覚めてから、今にいたるまでのことは、なかったことになる。ひょっとしたら覚えてさえいられないのかもしれない。そう想像すると、真っ赤になっていた目の前が、今度は真っ暗になった。


 初めての夜も、二度目の夜も、三度目も、今も、この気持ちも、記憶も、何もかも、きっと消えてしまう。だからエリスは言った。


「や……だ」


 真っ白くなった顔を、力なく横に振る。


「なっ、ばかなことっ」

「ぜったい、や、だ」

「う、うるせえ、いいから、帰るからな! このままじゃ、このままじゃ……!」


 景虎の声が、泣きわめく子どもじみて引き攣れる。けれどエリスはそれを聞いて、にやにや、笑う。紙は残り三十秒を告げているが……それよりも、あと三十秒以上、エリスが生きていられるのかもわからない。


「……りせっと、され、る……いや、だ……」

「なっ、おまっ、わ、わがまま言うな! オマエが、オマエが死ぬのは、絶対、ぜったい……っっ!」

「いやだ……ぜったい…………この、きも、ち……なく、なる、なんて……」

「なっ、ぁ……え、えり、すっ……」

「それ、に……」


 ぼろぼろと涙をこぼす景虎に、しかし、エリスは笑った。




「あんた……と……なら…………テコ入れ、されたって……」




 エリスの腕が持ち上がり、ぷるぷると震えながら、紙の一点を示す。


 震えのせいでまるきり、意図したところに腕がいってくれなかったけれど……景虎は、気付いたらしい。




 はっ、と我に返り、あの時エリスと話した馬鹿みたいなことを思い出す景虎。

 そして……そして。

 二十秒、十秒、終わりが近づく。




「ばっ……ばか、やろぉっ……イカレ、すぎだろぉ……」


 エリスの手を掴み、二人でそこに、紙の上の一点、一列に近づける。


「お互いさま……でしょ……ふっ、ふふ……賭け、よ……」




 微笑んだエリスと一緒に、そこに触れた。そして。




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00:01:70


【報酬】に【すごい異能】を選択しました。


次ステージをロードします……




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