02 生活に優先する謎はない
ホテルのロビーには、誰かが入ってきた形跡のようなものは何もなかった。テーブルの上の紙切れ以外、なにか変わったところもない。ロビーから外に出て駅前を見渡してみても同じ。
「さて……」
二人は改めて紙切れを見ながら、頭を付き合わせる。
「外から来た誰かが置いてった、か……自然と出現した……どっちにする?」
「う~~~ん……その二択?」
「それ以外になんかあるか?」
「私たちのウチどっちかが置いた、とか」
「お~、それもあるか、そうだな、見落としてた」
「ばか、ないでしょ」
「紙切れが世の物理法則を覆して勝手に出現する可能性がなくはないんなら、俺たちが誰かに操られて、もしくは相手を操るため、惑わすために置いた可能性だってあるだろ、俺たちどっちかがこの状況の仕掛け人なのかもしれない」
「あんたね~……自分を客観視するのもいい加減にしなさい、そんなこと考えてたら決定的に決裂しちゃうよ、私たち」
「そうか?」
「そうだよ、そしたらどんどんギスギスしてって、なに……ゾンビは殺しても人は殺さない、おいおい何が違うってんだ、みたいなことを一話か二話やることになっちゃうよきっと」
「ワンシーズン丸々内輪もめで使うパターンだなそりゃ……ってか、この想定は結局アレだな、今の自分は誰かの夢では? ってのと割と一緒だな」
「でしょ? だから考えないことにしよう」
「だな。じゃあ……俺たち以外の生きてる誰かか、それともスーパーパワーのなんか……」
景虎がソファに背中を預け、腕組みをしたところで。
ぐ~。
盛大に彼の腹が鳴って、二人は笑った。
「とりあえずは、メシにすっか」
「ん、だね!」
少しだけ、昨日より笑顔も態度もほぐれているように見える二人は、少しだけ、昨日より互いの距離を詰め、朝食の準備にとりかかった。
「あ、ちがっ、火は弱めないでいいから、いいから」
「え、うそ、だって焦げるよ絶対……!」
「俺が何回ポリ袋で炊飯してきたと思ってんだ」
カセットコンロの上に置かれたメスティン、アルミ製弁当箱のような飯盒は厳重に蓋をされ、ぐつぐつ煮え、ぷしゅっ、ぷしゅう、と激しく湯気を出している。
「いいか、結局のところ炊飯ってのは、火力だ」
あまりにも盛大に湯気が噴き出し、吹きこぼれ、取っ手で抑えているはずの蓋が外れそうになってしまったのを見て、エリスが弱めた火を元に戻す景虎。その動作も言葉も、自信に満ちあふれている。
「ほんとぉ……?」
エリスは思わず呟いてしまう。
料理において、自分がなんの役にも立たないことはわかっているし、昨日の一連で景虎のことは信頼しているけれど……吹きこぼれが徐々におさまってきて、ぱち、ぱちぱち、あからさまに水が蒸発し、焦げているような音がメスティンの中からしてくると、やはり焦ってしまう。
「……失敗するとしても、だ。生煮えのごにゅごにゅしたゴムみてえなご飯と、焦げ味がついちまってるヤツだったら、後者の方がまだ食えるんだよ、ってかこの方法でまだ失敗したことねえから安心しろ」
やはり、景虎の口調は経験からくる自信……到底食えないような失敗作も山ほど食べてきた、という実感に満ちていた。
とはいえ……エリスにはやはり、少し、信じられなかった。
なにせ景虎がご飯を炊くためにやったことと言えば、料理にも使える耐熱ポリ袋の中にお米を二合入れ、水を四百cc。三十分ほど吸水させた後、BBQ用の耐熱シートをしいたメスティンに入れ(なんとどちらも百均のモノだ)、袋がひたひたになるほど水を入れ、蓋を閉め、全開の強火。あとは三十分ほど炊いて、火を止めて十分蒸らして、できあがり。なんでも、鍋と耐熱皿でもできるそうだけれど……。
「ご飯って……こんな簡単にできるの……?」
イマイチ、信じられない。
パスタはともかく、炊きたての白いご飯、という……料理の中でもエリスが最上と信じるものが、こんな状況でもできてしまうなんて……無人島で椰子の実を開けたらカレーやカツ丼が入っていた、ぐらい、都合が良すぎる話じゃないだろうか? 土鍋で炊いたご飯がおいしい、とは、エリスも聞いたことがあったけれど……それにはやっぱりきっと、プロの技が必要で……一般家庭でそれを得ようと思ったら、高価な炊飯器を買うしかなくて……。
「そりゃオマエ……レシピってのは常に、人間の知恵の集積の、その最新最先端だぜ。ラクして炊きたての白いご飯が食べたい、どんな時でも、って考えたセンパイ方のおかげで、耐熱ポリ袋で白いご飯が炊けるんだ、感謝しとけ」
「あはは、誰だよセンパイ方って」
「避難所でも炊きたてのお米が食べたい、電気が止まってる時でも暖かいご飯が食べたい、とか思ってたセンパイ方だよ」
「……ず、ずるいよそういうの、否定しにくい」
「でも、間違いないだろ」
「だろうけど……」
そして数十分後。
「ほぁ……!」
つやつや、ぴかぴかの白米が、湯気を立てていた。
「二合で……足りる、よな……? たぶん……?」
ポリ袋を切り開き、大皿の上に盛っていく景虎は、どこか不安そうだった。以前だったら二人で二合なんて……ちょっと多めの間食、程度にしかならなかったのだが。
「お、おかずに……おかずによる……?」
涎を垂らしそうな顔で、期待に満ち満ちた目で、景虎を見上げるエリス。
「…………しゃあねえなあ……」
景虎は彼女のそんな顔を見ると少し、嬉しくなって、勢いよく缶詰を開け、調理に取りかかる。
「しかし……オマエ、その……山で暮らしてる時に、料理はやんなかったのか?」
ホテルのカウンターを簡易的な厨房にしてまな板を広げ、とんとん、小気味よい包丁の音を響かせながら景虎は尋ねる。
「あ~、アンタ、なんかすごいのを想像してるでしょ、煮炊きは全部囲炉裏で、お風呂は五右衛門風呂、みたいな」
エリスは景虎から言われ、集積した物資の数を数え、スマホにそれを打ち込みながら答える。
「違うのか? 自給自足だったんだろ」
「お爺ちゃんヘンな人でさ、そこにこだわりはなかったんだよね。電気ガス水道光ファイバーちゃんと引いてたし……あはは、お風呂とか、浴室乾燥機に、自動で浴槽掃除してくれるやつついてたもん。モニタもあってさ、お風呂でユーチューブ見れたよ」
「はぁ? お風呂でユーチューブ?」
「お風呂でユーチューブ」
「そんなことできるのヒカキンだけだと思ってたぜ」
「あはは、場所はマジで山奥の一軒家だったんだけど、お爺ちゃん、なんかの仮想通貨の初期メンだったらしくて大金持ちだったから。その家、私を引き取る数年前に五億で建てた、って自慢してた」
「なんなんだオマエのじいちゃん……? 偏見を逆手に取るのが快感な人なのか? その上で、自給自足?」
「そうそう。規模的には専業農家の人ぐらいやってたけど、食べる分以外は大体人にあげるかネットで売るか。で、料理も自分でやってたけど……スゴいんだよ、低温調理器とか、スチーム調理器とか、電気パン釜とか、スタバにあるみたいなコーヒーのやつとか炭酸水出すヤツとか……なんか、調理器具買うのが趣味でさお爺ちゃん、冷蔵庫なんて、レストランみたいなあの、壁一面の銀色のヤツだったし」
「なんか山のお爺ちゃんってより……趣味人の叔父様、って感じだな……ほら、コーヒーにこだわる感じで、部屋に行くとおそらくレコードプレイヤーがあって、なんかアコギのムカシの曲が……」
「あー、近いかも。よくレコード聞いてたし……ふふっ、釣りの針……ほら、なんか、ケバケバのルアーみたいなやつ?」
「毛針?」
「そうそう、それ、毛針とか手作りしてたし。趣味人~って感じじゃない? まあでも、週に半分ぐらいは山の中に泊まってたから、野宿のあれこれ、火起こしとか小屋作りとか、そういうのはやったけどさ、私も。でもこだわり強くてさ、料理はやらせてくんないの。農作業も狩猟もバリバリ手伝わせるクセに、料理はガキのやるもんじゃねえ、とか言って。お味噌とかパンとかは私にも作らせてたのに……何の基準だったんだろ」
「ふ~ん……なんか……すげえ人生送ってんな、オマエ……」
「あはは、そうだよ、猟銃でツキノワグマ仕留めたことあるもん、私。解体は何十体もしたし」
「はぁ?」
「あはは、全然熊が出る山だったからね~。木とツルで担架作って、家のガレージまで運んで、ホースで水出しっぱにしながら解体して……服は洗濯乾燥機に入れて、シャワー浴びて、クーラー効いた調理室でさばいたクマ肉シーラーで真空パックして、デジカメで写真撮ってネットで売る。けっこー人気だったよ」
「うーん……山暮らしもハイテクにできるのか……」
と、そんな話をしているウチに料理はできあがり。
「へぁ……」
テーブルに並んだ料理を見て、エリスは酔っ払ったような声を出した。
ぴかぴかの、ほかほかの、炊きたての白米が茶碗に盛られ。
その横、焦げ茶色の、お好み焼きじみたおかずは……。
「こ、これ、なに……? え、開けてたの、鯖味噌の缶詰だよね……?」
なんとも食欲をそそる焦げた味噌の香りと、魚の香ばしさが入り交じり、湯気を立てている。少々大きめのつみれか、やや小ぶりなハンバーグ程度の不思議な大きさ。しかし、ソースもタレも見えないのに、焼きおにぎりのような、いかにも食欲をそそる濃い茶色。わずかについている焦げ目がまた、見ているだけで腹を減らしてくる。おまけにその上にあろうことか、ネギがかかっている。少しとろりとした、白い露を纏った緑の葱。昨日一日、街を歩いて物資を集積しまくっても、見られなかった野菜の鮮やかな緑。一体全体、どこから収穫したんだこいつ……? とエリスが涎を我慢しながらも尋ねると、景虎は得意満面。
「鯖味噌缶のなめろう風、の、焼いたヤツ。だからまあ、鯖味噌缶のさんが焼き、ってとこか」
「なめ……ろう……? さんが、やき?」
言葉の響きに何か不吉なものを感じて一瞬、エリスが顔をしかめる。
「あ、そうか、山の人かオマエ」
「なに、山にはないもの?」
「アジとかなんか、刺身を包丁で叩いて叩いて、味噌と薬味と混ぜて、そのまま食うやつ。地球で一番白いご飯に合う。さんが焼きはそれを焼いて、なんかハンバーグみたいにして食うやつ」
「へー……あ、漁師さん料理?」
「だな、まあ……鯖味噌缶のなめろう風は食うとはちゃめちゃにがっかりするんだけど、焼くとそうでもないんだ」
「にしても……ねぎ、このねぎ、あんた、どっから……?」
「瓶詰めのヤツ。中華の
後半はもう、エリスは聞いていなかった。なにせそのサバ味噌缶のさんが焼き風の横には、湯気の立つ味噌汁と、海苔さえあるのだ。
「……味噌汁はたぶん、ちょっと風味とか飛んでるだろうけど……」
「え、ううん、全然味噌汁じゃん!」
朱色の塗り椀の中には、まるでCMで見るように見事な味噌汁が揺蕩っている。ぽてぽてしたキツネ色のお麩に、艶めかしい緑を見せるワカメがゆらゆら。まるでCMかと思うほど見事な姿だった。ここが本当にホテルとして営業していて、朝食で出てくるような味噌汁に、エリスの目には見えた。
「……そうかぁ? ん~、そうか、フリーズドライはやっぱ、戻してみねえとわかんねえな、賞味期限的には瓶詰めと同じぐらいなんだが……」
くんくんと鼻を鳴らすと、ただただ腹が空いていく。
エリスは改めて朝食と、景虎を交互に見つめ、思った。
世界が崩壊して。
誰もいなくなって。
缶詰をかき集めて。
お風呂にも入れずお湯で体を拭くだけなのに。
炊きたての白いご飯。
見ているだけで唾が沸いてくるおかず。
ほかほかのお味噌汁に海苔。
豪華なメニューが、でん、と机の上に乗っている。
やっぱり自分は、とんでもなく、幸運なのかもしれない……。
「さて、食っちまおうぜ。今日はやることも考えることも山盛りだ」
「……うん! いっただきまーーーーーーーすっっっっ!」
しかし景虎が声をかけると、全神経は食卓に集中して余計な考えは雨上がりの雲のように吹き飛んだ。食欲のみに澄み渡った心は箸を持つや否や、がぶりっ、さんが焼きにかぶりつく。
じゅぅ……っ……。
口の中でまだ少し音を立てる、熱々の鯖味噌。
歯が熱を感じるそれをかみ切ると、魚の脂と味噌が、じゅわっ、と口の中に溢れ、暴力的なまでの旨味が舌の上で爆発する。元が缶詰の鯖味噌煮とは思えないほど、味噌と魚が渾然一体。まるで元々、内臓に味噌を詰めている魚なのではないかと思うほど。景虎が言うには、魚の缶詰は年月が経つと熟成する、らしい。猫が顔を洗うと雨、並の迷信だろうと思っていたエリスはしかし、その考えを改めた。塩辛さもくどさもまるで感じられず、ただただ、溺れそうなほどの旨味がある。味噌の味とも魚の味とも異なる、魚の味噌煮の味。強火の力で両者が一体となっている。寝起きの体、細胞の一つ一つがはっきり、覚醒していく。そしてその目覚めた細胞の一つ一つが、強烈にエネルギーを欲している。だから……。
すかさず茶碗を持ち。
はふっ、はすすっ、と、吸い込むように白飯を塊で口の中へ。
少々の行儀の悪さはこの際、景虎への賛辞だと思って許してもらえるだろう。甘辛い味噌味、その中を揺蕩う鯖の味、そこに、じゃきっ、じゃくっ、と心地よい食感と味を加える葱醤が漂うエリスの口の中、白米がなだれ込んでいく。味噌と魚と米。おそらくこの列島で千年以上、一緒に食されてきた三体は、今日も今日とて、聖なる三位一体を少女の舌の上に
きっと日本人の脳みそには魚と白米を食べると幸せ物質が流れる仕組みがある……などとエリスは思いながら、ただただ噛みしめる、噛みしめる、噛みしめる。自動的に、まるでベルトコンベアーがあるかのように、喉の奥に滑り込んでいってしまう白米たちを追いかけるように、豪快に椀を掴み、味噌汁を流し込む。ずずッ、と汁物を啜るさっぱりとした音と同時、口の中が落ち着き、心が満ちていく。暖かな汁物が喉を滑り落ちていく感触はまるで、修学旅行から帰ってきて、自分の部屋の自分のベッドに、帰ってきた服装のまま寝転んだ時のように、何よりも心を落ち着かせてくれる。旨味に沸き立っていた心はそれで平衡に戻り……そしてまた、箸が、伸びる。左手は茶碗から離れられない。
「……おいおい……落ち着いて食えよ……」
少々呆れた口調ながらも、景虎はにまにまとした笑みを隠しきれないままで言った。
「おいひっ、おいしいっ! すごっ、あんた、ほんと、まじ、なんなの!?」
言いながらも、箸が止まらないエリス。
「…………ウチの父親はやることなすこと全部間違えてる上に、自分でそれにまったく気がついていない挙げ句、間違ってるぞと指摘されると逆ギレしてオマエが間違ってるんだと言い張る、希有な人材だったが……一個だけ、いいことを言ってたよ」
「……なに?」
「つらい時はうまいものを食え、ってさ」
はふはふ、はすすっ、ずずずーっ。
「…………うん、いいこと、だね」
「……だな」
二人は顔を見合わせ、頬を歪めるようにして微妙な笑顔を交わし、それからはただひたすら、朝食に集中した。
※今日から使える防災知識※
ポリ袋炊飯に使用するポリ袋は !!必ず!! 調理に対応したモノを使いましょう。パッケージに調理対応かどうか、たいてい書いてあります。具体的には、高密度ポリエチレン製で、耐熱温度100℃以上。直接火にかけるわけじゃないしお湯の中だし大丈夫、とナメてると、溶けたポリ袋と焦げた米の混合物を前に途方に暮れることになります(一敗)。
作中ではメスティンと調理シートを使用していますが、鍋と耐熱皿さえあれば簡単に試せますので、ゼヒ皆様一度お試しアレ。その際は、水の節約を意識して無洗米で、焦げるより生煮えになることを恐れた方が、たいていうまくいきます。鍋肌に直接ポリ袋が触れないようにするのがちょっとコツがいりますが、炊飯器と比べても全然遜色なく炊けます。
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