第3話『決断』
あれから半年が経ったが、清貴との生活は何も変わらなかった。
清貴は相変わらずだった。仕事、パチンコ、そして私の作った夕飯。何も変わらない。私が風呂に入り、洗った服を着る。……まるで、私が彼を生かすために存在しているみたいに。
ただ、一つだけ変わったことがある。
私はもう、彼の浮気を知っても何も言わなくなった。
知っている。でも、知らないふりをする。それが、私の精神を安定させる唯一の方法だった。
そしてあの日も、そんな”いつも通り”の生活が続いていた。
清貴は、何の前触れもなく言った。
「実家に五日ほど帰るわ」
「実家?」
私は反射的に聞き返した。
「急にどうしたの?」
「ちょっと親の様子見に行こうと思ってな」
彼は曖昧に笑いながら、適当な理由を並べた。
……嘘だ。
彼が実家に帰るなんて、今まで一度もなかった。少なくとも、私と一緒にいるこの数年間では。
「それでさ、新幹線代と実家にお土産買っていきたいから……十万、貸してくんね?」
――十万。
私はすぐには答えられなかった。
もう、彼に貸したお金は二百万円を超えていた。だけど、それは「貸した」のではなく、「あげた」も同然だった。清貴が返す気のないことなんて、とっくに分かっていたから。
それでも私は、財布から十万円を取り出した。
理由は、彼のスマホの画面に映った一通のメッセージだった。
――「旅行楽しみだね」
送信者の名前は、見たことのない女の名前だった。
……知っていた。
最初から、分かっていた。
清貴の「実家」は嘘。彼は、浮気相手と旅行に行くのだ。
それでも、私は何も言わなかった。
何も知らないふりをして、十万円を差し出した。
「……ありがとう」
清貴は軽く笑って、私から金を受け取った。
私はただ、彼にバレないように、静かに泣くのを我慢した。
――これでいい。何も言わないことで、私は自分を守れる。
そう、自分に言い聞かせながら。
***
その翌日、会社の同僚"
「たまには息抜きしようよ」
そう言われて、私は少し迷った。でも、その日は清貴が「実家」に行く日だった。どうせ一人で家にいたら、また考えてしまう。
――だったら、少しでも気を紛らわせたほうがいい
私は、その誘いを受けることにした。
そして、その日が訪れた。
仕事を終え、待ち合わせの場所へ向かう。飲み会の会場に入ると、和やかな雰囲気が広がっていた。
私はそこまで社交的なタイプではなかったけれど、美穂たち同僚が気を使ってくれたおかげで、なんとかその場に馴染むことができた。
そんな中で、グループ会社の男性――"
「木下さんですよね? 初めまして」
彼は私より二つ年上で、若くして部長を務めるやり手だった。落ち着いた話し方で、仕事の話はあまりせず、私が話しやすい話題を自然な流れで振ってくれた。その気遣いが、今の私には心地よかった。
「普段、お酒はよく飲まれるんですか?」
吉永さんの問いに、私は小さく笑って答えた。
「いえ……あまり。強くないので」
「そうなんですね。じゃあ、無理しないようにしましょう」
そう言って、吉永さんは店員に「この人には飲みやすいカクテルを」と注文してくれた。
些細な気遣い。それだけのことなのに、私はどこか胸が温かくなるのを感じた。
私は次第に緊張がほぐれていき、吉永さんとの会話を楽しんでいる自分に気づいた。
――でも
そんな心の軽さを、すぐに打ち消す思考が浮かぶ。
こんな素敵な人が、私に興味なんて持たないだろうし、もし持ったとしたら、私という人間ではなく、私の持っているものが目当てなのではないか。これまでの男達がそうだったように――
そう考え始めると、会話の内容が耳に入らなくなった。胸の奥に冷たいものが広がり、手が震えそうになる。
――ダメだ、まただ
何もかもが溢れ出しそうになり、私は堪えきれずに目頭を押さえた。
そして――涙が零れた
吉永さんは驚き、すぐに私の前に身を乗り出した。
「木下さん、大丈夫ですか? もし、仕事のことで何かあるのなら、話してもらいたいんだけど」
私は慌てて首を振る。でも、涙は止まらなかった。
こんな場所で、泣きたくなかった。
「……ごめんなさい、ちょっと……外に出てもいいですか」
「じゃあ、少し外の空気を吸いに行きましょう」
吉永さんはそう言い、私が立ち上がると、周囲の視線を気にするようにさりげなく私の後ろを歩いてくれた。
店の外に出ると、夜の風が頬を撫でる。少し歩いた先に、小さな公園があった。
私は静かにブランコに腰を下ろし、深呼吸する。
「落ち着きました?」
「……はい。すみません、急に」
吉永さんは、ブランコの隣の柵に寄りかかりながら、優しく微笑んだ。
「話してくれますか?」
私は一瞬、迷った。でも、話したいという気持ちのほうが強かった。
清貴には決して言えなかったこと、誰にも言えなかったこと。
――私は、ここ最近の出来事をすべて話した
話していると、自分がどれほど酷い環境にいたのか、改めて実感した。
清貴の浮気、金銭的な依存、離れられない自分……。
全て話し終えると、吉永さんは少し考えてから、静かに言った。
「それは、大変だったね」
「……でも、僕の意見を言うことはしないよ」
その言葉に、私は戸惑った。
「どうして……ですか?」
「だって、それは木下さん自身が決めることだから」
吉永さんは、真剣な目で私を見つめた。
「ただね、君がどう決断しても、僕は君を応援するし、君の人生が良い方向に進むことを願ってるよ」
――その言葉は、私の心の深い部分に届いた。
“あなたの人生は、あなたが決めるべきものだ”
"誰かに決めてもらうのではなく、自分自身で考えて、選ばなければならない"
そう言われているようだった。
今までの私は、いつも相手に決断を委ねていた。自分で考えることを放棄して、流されるままだった。
――でも、それでは何も変わらない
このままでは、ずっと私は同じ場所で立ち尽くすだけだ。
吉永さんの言葉が、私の胸の奥で確かな”気づき”となった。
――変わらなくてはいけない
このままでは、私は一生、自分を失ったままだ。
私は、小さく息を吸って、微笑んだ。
「……ありがとうございます」
吉永さんは、ただ静かに頷いた。
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