第2話



第1話:心の距離




朝の図書館は、いつも美咲のものだった。開館前の静けさの中、彼女は一人で本の整理をする。でも今朝は違う。窓の外に、見慣れた人影があった。


葉月が一人で庭の手入れをしている。美咲は思わず窓際に近づいた。額に汗を浮かべながら、葉月は丁寧に植物の世話をしていた。


「おはようございます」


振り返った葉月と目が合う。いつの間にか、朝の挨拶が習慣になっていた。


「今朝は早いですね」


「ええ。月下美人の手入れがありまして」


そうか。来週の満月まで、あと五日。


「少し、見せていただいてもいいですか?」


葉月は黙って頷いた。美咲は急いで上着を掴むと、屋上への階段を駆け上がった。


朝露に濡れた庭園で、葉月は蔓の手入れをしていた。月下美人の蕾は日に日に大きくなっている。


「触れてみますか?」


葉月の声に、美咲は驚いて顔を上げた。


「い、いいんですか?」


「ええ。ほら、こうやって」


葉月は美咲の手を取り、そっと蕾に触れさせた。瑞々しい感触。でも、それ以上に葉月の手の温もりが気になって、美咲は頬が熱くなるのを感じた。


「生きているんですね」


「はい。だから、期待に応えたいんです」


期待。そう、図書館中が月下美人の開花を待っている。さくらを始め、子供たちは毎日のように見に来ていた。


「私も、手伝えることがあれば」


「実は」葉月が言葉を選ぶように間を置いた。「来週までに、この辺りの整理を」


美咲は周囲を見回した。確かに、月下美人の周りは少し雑然としている。


「開館前なら、毎朝お手伝いできます」


葉月の目が、わずかに広がった。


「でも、ご負担では」


「いいえ」美咲は微笑んだ。「私も、この子の成長が見たいんです」


この子。いつの間にか、月下美人がそんな存在になっていた。


「では」葉月が小さく呟いた。「明日も、ここで」


朝日が二人を包み、新しい一日が始まろうとしていた。図書館の時計が、開館時間を告げている。


---








第2話:初めての夜間開館




夜の図書館は、昼間とは違う顔を見せる。薄暗い書架の間に、温かな灯りが灯る。開館時間を過ぎても、まだ三十名ほどの来館者が残っていた。


「月村さん」


閉館準備をしていた美咲の背後から、葉月の声がした。


「もうすぐ、ですね」


そう、今夜は初めての夜間開館。そして月下美人の観賞会。美咲は思わず時計を見上げた。午後八時。


「案内板の設置、終わりました」


「ありがとうございます。こちらも、もう少しで」


受付カウンターには、観賞会の参加者リストが置かれている。五十名の定員に対して、四十八名の申し込み。


「月村先生!」


元気な声が響き、さくらが駆け込んできた。


「走っちゃダメですよ」


「ごめんなさい。でも、開花が始まったみたいなんです!」


美咲と葉月は顔を見合わせた。予定より早い。


「私が確認してきます」


葉月が階段へ向かう。その背中を見送りながら、美咲は来館者への案内を始めた。


「皆様、お待たせいたしました。これより屋上庭園を開放いたします」


人々が、静かに階段を上がっていく。子供たちの小さな歓声が、図書館に響く。


「美咲さん」


上司の声がした。


「私も上がりますので、ここは任せてください」


「ありがとうございます」


美咲は小走りで階段を上った。扉を開けると、夜風が頬を撫でる。


「あっ」


屋上庭園は、いつもと違う景色だった。提灯の明かりが優しく灯り、人々が静かに蕾を見守っている。葉月は、月下美人の前でしゃがみ込んでいた。


「どうですか?」


「ええ」葉月が顔を上げる。「確実に、開花し始めています」


満月が、庭園全体を銀色に染めていた。人々の期待に満ちた視線が、一つの場所に集中している。


「きれい…」


誰かの声が漏れる。蕾が、ゆっくりと開き始めていた。白い花びらが、月の光を受けて輝いている。


その時、さくらが小さな声で言った。


「まるで、おとぎ話みたい」


確かに。夜の図書館で、満月の下、人々が一つの奇跡を待っている。これは、まさに物語の一場面だった。


葉月が静かに立ち上がり、美咲の隣に来た。


「ずっと、この日を待っていました」


その言葉に、美咲は思わず葉月の横顔を見た。いつもの無表情が、今は柔らかな笑みに変わっている。


夜風が、開きかけた花びらを揺らした。この夜は、きっと誰の心にも、特別な物語として残るのだろう。




第3話:手作りの栞




閉館後の図書館で、美咲は一枚の紙を見つめていた。先ほど返却された本の間から見つかった栞。淡い青色の和紙に、押し花が添えられている。


「こんなところに」


手に取ると、裏面に小さな文字が書かれていた。

「月下美人の思い出に」


美咲は息を呑んだ。この文字、間違いなく葉月のものだ。


あの夜から一週間。月下美人の開花は、図書館の新しい伝説となっていた。特に、さくらは毎日のように写真を見返している。


「作ってみようかな」


美咲は、和紙と押し花の本を手に取った。司書として、栞作りは得意なはずだ。


昼休み、美咲は こっそりと作業を始めた。淡いピンクの和紙を選び、白い小花を配置する。でも、葉月の栞のような優雅さは出ない。


「月村さん」


突然の声に、美咲は慌てて栞を隠した。葉月が、園芸コーナーの本を抱えて立っていた。


「あ、葉月さん。返却ですか?」


「ええ。それと…」


葉月は一冊の本を差し出した。『花と暮らす素敵なクラフト』。


「この本、参考になるかと」


まさか。美咲の栞作りを、気づいていたのだろうか。


「あの、実は」


美咲は観念して、作りかけの栞を取り出した。


「私も、作ってみようと思って」


葉月は静かに栞を手に取った。


「とても、素敵です」


「え?」


「配置が、本を大切にする人の優しさを感じます」


思いがけない言葉に、美咲は顔が熱くなるのを感じた。


「でも、葉月さんの栞の方が、ずっと…」


「見つけたんですね」


葉月の声は、いつもより柔らかい。


「実は、あれは試作品でした。本当は、もっと素敵な物を」


葉月は言葉を途中で止めた。その横顔が、わずかに赤みを帯びている。


「一緒に作ってみませんか?」


美咲の提案に、葉月は少し驚いたような表情を見せた。


「私が押し花を用意して、月村さんがデザインを」


「二人で、ですね」


微笑み合う二人の間に、淡い色の和紙が光っていた。それは、これから始まる小さな物語の、最初のページのよう。




第4話:雨の日の相合傘




どしゃ降りの雨が、図書館の窓を叩いていた。美咲は心配そうに空を見上げる。葉月が、まだ屋上にいるはずだ。


「やっぱり、様子を」


傘を手に、美咲は階段を上がった。扉を開けると、雨の音が一気に大きくなる。


庭園の向こうで、葉月が急いで植物をカバーで覆っているのが見えた。白いシャツが、雨に濡れて透けている。


「葉月さん!」


声が、雨音にかき消されそうになる。でも、葉月は気づいて顔を上げた。


「お手伝いします!」


美咲は傘を差したまま、葉月の元へ駆け寄った。二人で黙々とカバーを広げていく。手が触れるたび、雨粒が弾ける。


「これで、最後です」


最後の鉢を覆い終えた時、雨足が更に強くなった。


「私の傘で」


美咲は葉月の方へ傘を寄せた。葉月は一瞬躊躇ったように見えたが、静かに傘の下に入ってきた。


「ありがとうございます」


近すぎる。肩が触れ合うほどの距離で、葉月の吐息が聞こえる。美咲は心臓が早くなるのを感じた。


「あの、階段まで」


一歩を踏み出した時、葉月の手が傘の柄に重なった。


「私が持ちます」


「え、でも」


「月村さんの肩が、濡れてしまいますから」


確かに、傘は葉月の方が背が高い分、上手く差せる。美咲は黙って柄を譲った。


階段までの短い距離。雨音だけが、二人の間を満たしていた。


「明日は、晴れるそうです」


突然、葉月が呟いた。


「え?」


「天気予報で。晴れると」


「そう、なんですね」


会話らしい会話のない二人。でも、この距離は、どこか心地よかった。


階段の扉の前で、葉月が傘を返してくれた。


「これからは、私も傘を持ち歩くようにします」


「いえ」


美咲は思わず声を上げていた。


「また、雨が降ったら。その時は、私の傘で」


葉月の目が、わずかに広がった。そして、小さく頷いた。


「では、また雨の日に」


それは約束のような、願いのような言葉だった。美咲は扉を開けながら、密かに空を見上げた。明日は晴れるという。でも、少しだけ、また雨が降ればいいのに。




第5話:植物図鑑の整理




「これは、アジサイの古い図鑑ですね」


美咲は、葉月が持ってきた一冊を手に取った。表紙は色褪せ、頁も少し波打っている。でも、中の植物画は今でも鮮やかだ。


「整理の時に見つけました」


葉月が言う。二人は閉館後の図書館で、園芸コーナーの本を見直していた。


「この図鑑、素敵ですね」


美咲がページをめくると、押し花のような形の栞が滑り落ちた。


「あ」


二人が同時に手を伸ばす。指先が触れ合い、美咲は思わず手を引っ込めた。葉月が栞を拾い上げる。


「これは…」


栞の裏には、達筆な文字で日付が書かれていた。「1994年 夏」


「30年前の」


「まるで、タイムカプセルのようですね」


葉月の言葉に、美咲は思わず微笑んだ。本の中に残された誰かの思い出。それは、図書館という場所の魅力でもあった。


「他の本にも、何か残っているかもしれません」


そう言って、美咲は棚から本を取り出し始めた。葉月も静かに手伝う。


「あ、これも」


今度は植物の写真。その横に添えられた走り書きには「図書館の屋上で」とある。


「この景色」葉月が写真を覗き込んだ。「今と同じ場所です」


確かに。古びた写真の中の植物たちは、今も屋上庭園で育っているものばかり。


「不思議ですね」美咲は写真を光に透かすように見た。「同じ場所で、違う時代の人たちが、同じように植物を愛していた」


葉月は黙って頷いた。その瞳に、何か懐かしいものを見るような色が浮かんでいる。


「私たちも、何か残していきませんか」


思わず口にした言葉に、美咲は自分で驚いた。でも、葉月は優しく微笑んだ。


「それは、素敵な提案です」


二人は、また本の整理に戻った。でも今度は、ただ本を並べ替えるだけじゃない。この図書館で、これから紡がれていく物語の一ページを、そっと挟んでいくような気持ちで。


夜の図書館で、二人の呼吸だけが静かに響いていた。時々、指先が触れ合う。でも今度は、慌てて離れたりはしなかった。




第6話:誤解と着信




「葉月さんって、付き合ってる人いるのかな」


その声に、美咲は手元の作業を止めた。近くの書架で、二人の女子高生が話している。


「えっ、どうして?」


「だって、この前見たよ。誰かと電話して、すっごく優しい声で話してたの」


美咲は思わず耳を澄ませた。


「へぇ。あの無口な人が?」


「うん。『今日も、元気に育ってます』って」


ああ。美咲は小さくため息をついた。きっと、あれは──


「月村さん」


突然、背後から声がした。振り返ると、葉月が立っていた。スマートフォンを手に持っている。


「ちょっと、見ていただきたいものが」


画面には、今朝撮影したという月下美人の新芽の写真が映っていた。


「この子たち、新しい芽が出てきたんです」


葉月の声は、確かに柔らかい。女子高生たちが聞いたのは、きっとこんな声だったのだろう。


「あ、あの」


美咲は迷った。でも、伝えておくべきかもしれない。


「葉月さんに、噂が」


「噂、ですか?」


「はい。電話の相手のことで」


葉月は少し考え込むような表情を見せた。そして、スマートフォンをポケットにしまった。


「母です」


「え?」


「毎日、庭の植物の様子を報告しているんです。母は、病気で寝たきりなので」


美咲は言葉を失った。


「実家の庭を手入れできなくなった母に、代わりに図書館の植物たちの成長を伝えています」


その言葉に、美咲は胸が熱くなるのを感じた。


「素敵な関係ですね」


「ええ。母は『植物は、人の心も癒してくれる』といつも」


葉月の表情が、柔らかく緩んだ。


「今度、写真を見せていただけませんか?実家の庭の」


「はい」葉月は小さく微笑んだ。「母も、きっと喜ぶと思います」


書架の向こうで、女子高生たちの話し声が遠ざかっていく。誤解は解けないままだけど、それはそれでいい。大切なのは、この瞬間に交わされた本当の言葉なのだから。




第7話:結城さんの助言




「恋は、図書館にもよく訪れるものですよ」


美咲は、その言葉に思わず顔を上げた。結城さんは、司書歴25年のベテラン。今日も着物姿で、優雅に本を整理している。


「え?」


「ほら、さっきから窓の外ばかり見ていましたから」


窓の外では、葉月が庭園の手入れをしていた。美咲は慌てて視線を逸らす。


「い、いえ。そんな」


「私も、この図書館で出会ったんですよ」


結城さんは懐かしそうに微笑んだ。


「25年前。当時の私も、今の月村さんみたいな年頃でした」


美咲は思わず、結城さんの左手の指輪に目が行った。


「でも、なかなか進展しなくて」結城さんは続けた。「二人とも、本の中の恋は詳しいのに」


その言葉に、美咲は自分の姿を重ねた。確かに、恋愛小説は読んできた。でも、実際の恋は──


「あの、結城さん」


「はい?」


「どうやって、気持ちを」


結城さんは優しく微笑んだ。


「私は、好きな本を薦めることから始めました。その人の好みそうな本を」


「本、ですか」


「ええ。本を通じて、少しずつ心が通じ合っていったんです」


美咲は、自分の机の引き出しを見た。そこには、葉月に薦めようと選んでいた園芸の本が入っている。


「まだ、早いでしょうか」


「いいえ」結城さんは首を振った。「時には、本も人も、めくるページを間違えることがある。でも、それも物語の一部なんです」


その時、カウンターに人影が近づいてきた。葉月だった。


「月村さん」


「は、はい」


「この本、返却します」


受け取った本の中に、見覚えのある栞が挟まっていた。美咲が作った栞だ。


「それと」葉月は少し言葉を選ぶように間を置いた。「もし、おすすめの本があれば」


美咲は思わず結城さんを見た。結城さんは、さりげなく微笑んで立ち去っていく。


「実は」美咲は机の引き出しを開けた。「この本を」


物語は、時に思いがけない場所で、新しいページを開くのかもしれない。




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