リリィちゃんビギニング

暗黒星雲

第1話 囚われの少女と家庭教師

 私はこの家の敷地から出た事が無い。この家を囲んでいる高い塀の外がどうなっているのか全く知らない。


 学校に通ったことはなく、外の人との交流は無い。唯一、家庭教師の女性だけが私と交わりがある外の人だ。


 家政婦は何人もいるが、彼女達は私と必要最小限の会話しかしない。私と口を利かない。私から話しかけた事はあるのだが、全て「禁じられております」と返答されている。


 同居している兄が二人いるが、その兄と顔を合わせる事はほとんどない。食事ですら別々にとっているし、当然の事ながら会話をしたことも無い。


 父の名はギルベルト・フリッツ。ドイツ人だ。

 日本語は堪能だが、やや訛っているのは仕方がないだろう。兄二人にはドイツ人の家庭教師が付いており、日本語よりドイツ語の方が堪能だ。対して私は乳母と家庭教師が日本人女性だったため、日本語の方が得意だ。日本語ネイティブと言って差し支えないだろう。


 何ゆえ父がこのような教育を施しているのか、その理由は分からない。


「リリィさん。リリィ・フリッツさん」

「はい」

「何か考え事でもしていたの?」

「すみません」

「さあ、算数の問題を解きましょうね」

「はい」


 私の眼前には家庭教師の紀之國きのくに由紀ゆきがいる。家政婦のほとんどは中年女性であるのに対し、この紀之國はまだ若く美しい。


 今取り組んでいるのは算数の問題……文章題というやつだ。

 

 鶴と亀がいます。頭の数の合計は24です。脚の数の合計は60です。亀は何匹いるでしょうか。※鶴の脚は2本、亀の脚は4本とする。


 うん。一筋縄ではいかない。


 これをどう攻略してやろうかと考えているうちに、私は亀を見たことがあるが、鶴を見たことが無いと気づいた。亀は庭にある池にいるが、鶴は庭にいない。この家の塀の外には鶴や白鳥やさぎわしきじなどの様々な鳥がいるはずだ。しかし、私はこの家から出た事が無い……などと余計な事を考えてしまったのだ。 


「リリィさん。難しいですか?」

「はい。どう解くのか、取っ掛かりが掴めません」

「ではヒントを差し上げます。24の頭が全部鶴だったとしたらどうでしょうか? 問題にある脚の数と比較してみてください」


 あ……何となくわかった気がする。


 全部が鶴なら脚の数は24×2=48になる。しかし、問題では60。この60と48の差の分だけ亀がいるって事。亀と鶴の脚の差は4-2。


(60-(24×2))÷(4-2)=6

答え:亀は6匹


 私が書いた答案を見て紀之國が微笑んだ。


「リリィさん、よくできました。では次の問題を解いてみましょう。今の鶴と亀の応用となります」

「わかりました」


 今度はリンゴとミカンの合計の個数とそれぞれの単価、合計の金額が示してある。リンゴは12銭、ミカンは8銭、合計の個数は30個で合計金額は2円88銭だ。100銭が1円。リンゴの数を答える問いだ。先ほどと同じ要領で考えてみる。


(288-(8×30))÷(12-8)=12

答え:リンゴは12個


「リリィさん、正解です。リリィさんは一つの式で答えを導いていますが、三つの式に分けて考えてもよろしいのですよ。その方が()を使わず単純になりますから」

「ああ、そうですね」

「もう少し似たような問題を解いてみましょうか」

「はい」


 速度と距離だったり階段を登ったり降りたりして物の個数や値段とは違っていたが、基本は同じだ。難なく解くことができた。


「リリィさん、全問正解です。よくできました。少し休憩としましょう」


 この休憩時間が待ち遠しかった。私の周囲で雑談に応じてくれる人物は、この紀之國以外にいないからだ。


「紀之國先生」

「はい、何でしょう」

「私の母は誰でしょうか? ご存知ですか?」

「残念ながら存じません。リリィさんの母君は、リリィさんが生まれてすぐに病気で亡くなられたと聞いております。リリィさんの父君、フリッツ博士は再婚されておりませんので、現在、リリィさんの母親は不在となっております」


 母の事はもう何回も聞いているし、返事はいつも同じだ。しかし、これは前振りだ。私は勇気を振り絞って紀之國に嘆願する。


「だったら、紀之國先生が私の母となって下さい」


 彼女は少し驚いた表情を見せてから頷いた。


「私はリリィさんの母親となる事は出来ません。でもね。少しだけ、家庭教師の合間に少しだけなら母親の真似事をすることはできます」

「え? 良いのですか」

「休憩時間だけ。ほんの少しですよ」


 私は椅子から立ち上がって紀之國を見つめる。彼女は優しい笑みを浮かべていた。


「さあ、こっちへいらっしゃい」


 私は紀之國の膝上に座り彼女に抱き付いた。彼女の柔らかく温かい体は私をふんわりと包んでいた。石鹸と化粧水の匂いが心地よかった。


「先生……先生……お母さん」


 私は紀之國の柔らかい胸元に顔を押し付けていた。


「いいよ。今日は好きなだけ甘えて」

「お母さん……」


 その日から、休憩時間に紀之國と抱き合う事が私の日課となった。


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