第37話 接触

 小野は、引き続き大公に小声で話しかけた。


「我々は、この地の精霊です」


「ふむ。この時代、まさか精霊の声を聞くとはな。あるいは旅の疲れからの空耳か……」


「空耳ではありません」


「本当に精霊なら、姿を見せてみよ」


 またこのパターンか……小野は、消えるくんのボタンを押して、大公の前に姿を現した。


 大公は、和服にリュックを背負った小野の姿を見ると、笑顔で言った。


「ほう、単なる日本の子どもに見えるがな」


「あ、いえ、精霊です」


「まあ、こんなに流暢なドイツ語を話せる少年がそう簡単にいるとも思えんしな。先程『我々』と言ったが、他にもいるのではないか?」


 しまった。うっかり言ってしまった。小野がどうしようかと考えていると、小野の右隣にワタルが姿を現した。ワタルが大公に頭を下げる。


流石さすがは大公殿下。聡明であらせられます」


「ふむ。二人とも少年の姿か。もしかすると、この前の宴席で話に聞いた『座敷童』というものか?」


「あ、そうです。そういうやつです」


 とりあえず小野が話を合わせる。ワタルもコクコクとうなずいた。


 大公は立ち上がると、小野やワタルの方を向いて座り直した。


「それで、精霊か座敷童か知らんが、私に何の用だ?」


 良かった。話を聞いてくれるみたいだ。小野が説明を始めた。


「はい、大公殿下の、そして世界の危機について、お伝えしたいことがありまして」


「危機だと?」


「ええ。21年後、大公殿下が50歳の時、殿下はサラエボで奥様とともに命を狙われます」


「ずいぶん先だな。それに私には妻もいない」


「もうしばらくすれば、最愛の女性に出逢われます」


 大公は、世界一周旅行から帰ってしばらくすると、ゾフィー・ホテクという女官と恋に落ちる。


 身分違いの許されない恋だったが、大公とゾフィーは周囲の猛反対を乗り越えて結婚するのだ。


「殿下はサラエボで……」


「失礼、殿下、今よろしいでしょうか?」


 小野が説明を続けようとしたとき、後ろのカーテン越しに声がした。大公の側近だ。


「すみません、また来ます」


 そういうと、小野とワタルはそれぞれ消えるくんのボタンを押して、部屋の隅に潜んだ。


 その後、入れ替わり立ち替わり側近や日本の役人が部屋に入って来て、残念ながら大公と話す機会はなかった。


 阿佐美によると、この旅館で大公は数時間にわたり京都の街並みを眺めるはずだったのだが……


 復原力が働いたのか、不安定化のせいか。小野とワタルは、次の機会を待つことにした。



† † †



 小野とワタルが大公と接触してから3日後、8月16日。大公の一行は箱根にいた。


 この3日間、小野とワタルは大公と再接触する機会を伺っていたが、常に邪魔が入り、残念ながら大公と話すことができなかった。


 滋賀・琵琶湖での蒸気船の旅、岐阜・長良川での鵜飼い見物、名古屋城を眺めた後の汽車の旅……小野とワタルは、姿を消したままコッソリではあるが、それなりに旅を楽しんだ。


 お互い姿が見えないので、離ればなれにならないよう、常に手を繋いでの移動だったのが何だか気恥ずかしかったが……


 道中、大公の言動を見聞きしていると、とにかく過剰な警備を嫌がっている様子だった。


 大公は、お忍びで、あるいは少人数で出かけたいという意向を何度も口にしていたが、叶えられなかった。


 この日、8月16日は、あいにくの悪天候で、大公一行は箱根の宿泊先近くの商店街で買い物をしたり、着物に着替えて写真撮影をしたりしていた。


 その後、大公は、午後いっぱい時間を使って左腕に入れ墨を彫った。竜の彫り物だ。


 大公は満足げだが、ちょっと疲れたようで、ホテルの部屋で夕食まで一人休むことになった。ようやく2度目のチャンスが巡ってきた。

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