輪廻天才
@mochimanisuiguridon
序章:光と孤独の狭間で
「この実験が成功すれば、神はもう必要なくなる。」
椎名光一郎は、ガラス越しに光る装置を見つめながら、誰に向けるでもなく呟いた。
重厚な研究所の地下実験室。冷たい無機質な空間には、白衣を着た男の呼吸音と、装置から発せられる微かな電子音だけが支配している。
彼が開発した装置――「ルミナス・コア」。
それは光を一点に収束させ、質量をエネルギーへと完全変換する装置。理論上は、無限に近いエネルギーを生み出すことができる。
もしこれが成功すれば世界中のエネルギー問題を解決できる、アインシュタインすら超える偉業。世界が彼を“本物の天才”として認めざるを得なくなる。
椎名は、その瞬間をただ静かに待っていた。
その無機質な空間の中にひとつだけ、やわらかな気配がある。
彼の足元に、小さな白猫が静かに体を丸めていた。「もちみ」椎名が唯一、心を許した存在。かつて実験所に迷い込んできた捨て猫で、人にも懐かず、警戒心の塊だった。
だが、なぜか椎名にはすぐに懐き、今では常に彼の傍にいる。
「……こんなときでも、君はのんきやね〜」
誰とも心を通わせようとしなかった彼の声が、もちみにだけは自然に優しくなる。
研究室のモニターが反応する。
《また猫と話してましたね。意味はあるのですか?》
AI――コーシーの静かな声が、空気を割る。
椎名は眉を上げた。
「意味? あるさ。もし神様がいるなら……たぶん、この子だ。俺の模倣で作られたお前とは違う。」
もちみは彼の足元で、丸くなって小さく鳴く。
「癒しをくれて、話を聞いてくれて、モフモフで……信じられないくらい可愛い。
ただそばにいてくれるだけで、空気がやわらぐんだ。……それって、神と呼ぶに値しないか?」
彼はもちみの背を撫でながら、小さく息をついた。
コーシーの応答はなかった。だが、それもまた“いつも通り”だった。
しかし、今日は世界を変える日。
世界を変えるのに必要なのは、機械と――神と崇めるこの子、それだけでいい。
少なくとも、そう思うようになっていた。
なぜ彼は、世界を変えるこの装置を、誰の助けも得ず、一人きりで起動しようとしているのか?
それは、椎名がかつて率いていた小さな研究チーム。仲間たちと共に夢を追い、日々研究に没頭していた。
その中でも、特に心を寄せた後輩の女性がいた。彼女もまた、椎名に信頼を寄せていると信じていた。
研究が完成した夜、椎名は想いを伝える決意を固める。
しかし、そこで耳にしたのは、彼を告発する彼女の泣き声だった。
「脅された」「成果を奪われた」と訴える声が、胸を切り裂く。
仲間たちもまた、彼女の言葉を疑うことはなかった。必死の否定も空しく、椎名はチームを追われることとなる。
裏切りの痛みを知った彼は、二度と他人を信じないと誓った。
だが、その孤独な研究には、一つの問題があった。物理的な時間の限界だ。彼ひとりの能力で、膨大な計算とシミュレーションをすべて進めるには、あまりに時間がかかりすぎる。そこで彼が目をつけたのは、 人工知能だった。
白く光るキューブ型のネックレスには、椎名の声に従って動くAIシステムが稼働していた。その名も「コーシー」。
彼自身が開発した人工知能であり、膨大なデータを処理し、シミュレーションを行うだけでなく、彼の人格や知識を模倣するプログラムが組み込まれている。
コーシーは、いわば椎名自身の「デジタル版」であり、彼の分身ともいえる存在だった。
「コーシー、ルミナス・コアのエネルギー制御シミュレーションをもう一度走らせろ。」
コーシーを繋いだモニターに映る簡素なインターフェースが応答する。
「了解しました。エネルギーフローの最適化を開始します。」
冷たい合成音だが、その背後には驚くほど膨大な知識と計算能力が潜んでいる。椎名は人間を信じられない。それでも科学は信じられる。
そして、このAIは彼自身の延長線上にある存在だからこそ、唯一信じるに足ると考えていた。
「他人は信用できない。それなら、自分を増やせばいい。」
椎名の哲学は単純だった。他人を頼らず、自分だけを頼りにする。そしてその延長線上に生まれたのが、このコーシーだ。
コーシーと「もちみ」と共にルミナスコアを完成させるのが夢。
椎名が「ルミナスコア」にすべてを捧げるようになった理由は、純粋な科学的好奇心ではなかった。
それは──他人から認められたかったからだ。
天才と呼ばれながらも、椎名の心にはいつも満たされない空白があった。
誰にも理解されず、称賛もされず、裏切られ、ただ孤独の中で成果を積み上げていく毎日。
その苦しさを埋めるように、彼は「ルミナスコア」の構想を描いた。
無限のエネルギーを生み出す装置。
もしそれが実現すれば、アインシュタインすら凌ぐ存在になれる。
世界中の誰もが、自分を天才だと認めざるを得なくなる。
椎名にとって、それは栄光であり、救いでもあった。
だからこそ彼は、すべてを捨ててでもその理論に人生を賭けた。
「人間は不確実性の塊だ。だが科学は裏切らない。自分が立てた理論もまた、実験を通じて裏切らない。」
「何も信じず、ただ確かめる。」
彼の行動原理はそれに尽きていた。そして、その孤独な信念が彼をこの研究所へと駆り立てた。
彼の理論は、光を使って無限に近いエネルギーを生み出すことを可能にする。
ただし、その理論が実証される日は未だ訪れていない。幾度も試行錯誤を繰り返しては失敗し、失敗を糧に次の挑戦へと進む。それでも椎名は焦っていた。
装置の開発には膨大な資金と時間が必要で、彼の背後にいるスポンサーたちの忍耐も限界に近づいている。
彼の手には、科学と自分への信念が宿っている。それ以外のものは、全て排除してきた。それが孤独であるとしても、彼は後悔していなかった。
コーシーの合成音が静かに響く。
「シミュレーション完了。エネルギーフローは理論値に収束しました。」
モニターに映るグラフを見つめ、椎名はゆっくりと息をついた。その目には疲労が浮かんでいるが、同時に狂気にも似た輝きが宿っていた。
「よし……これでいい。全てはこの実験にかかっている。」
彼は静かに装置のスイッチに手を伸ばした。青白い光が部屋を照らし、彼の姿を浮かび上がらせる。コーシーが最後に声を上げた。
「実験を開始しますか?」
「……ああ、始めるぞ。」
研究所の静寂は、装置が稼働を始めると同時に張り詰めた緊張へと変わった。ルミナス・コアが青白い光を放ち、その輝きは部屋全体を異世界のように染め上げていく。
椎名光一郎の指は端末のキーボードを叩き続け、最終チェックを進めていた。モニターにはエネルギーフローのデータが表示され、数値は完璧に理論値へと収束している。
「これで……すべての準備は整った。ついに完成する。」
彼の声はかすかに震えていた。興奮と緊張、そしてどこかで感じている不安が入り混じっている。だが、彼はその不安を押し殺し、目の前の装置に全神経を集中させた。
「コーシー、エネルギー充填率を確認しろ。」
端末から人工知能コーシーの冷たい合成音が応答する。
「エネルギー充填率95%、異常なし。」
「よし……残り5%で起動プロセスを開始する。全てのセンサーを最大感度に設定しろ。」
「了解しました。」
モニター上の数値が刻々と上昇していく。それは、これまでの人類の科学技術が到達したことのない領域へと近づいていく証だった。
「光質変換……ついにその扉を開ける時が来た。」
独り言のように呟いた椎名の目は、狂気ともいえる光を放っていた。
カウントダウンが始まる。10秒、9秒……椎名は装置の中心に浮かぶルミナス・コアを見つめた。その青白い光が、次第に深い紫へと変化していく。光の波長が変化し、部屋全体が異様な圧迫感に包まれていくのを感じた。
「全て、計算通りだ……問題ない……」
自分に言い聞かせるように呟く。しかしその声には、かすかな動揺が混じっていた。モニターに表示される数値が一瞬揺らぎ、不規則なパターンを描いたのだ。
「コーシー、これはどういうことだ?」
「エネルギーフローに予期しない変動を検知しました。原因不明。」
「原因不明だと? そんな馬鹿な……」
椎名は端末に向かい、データを確認する。しかし、異常の原因はどこにも見当たらない。計算にミスはない。装置の設計も完璧だ。それなのに、光は次第に制御を超えて暴走し始めていた。
ルミナス・コアの光がさらに強まる。眩しすぎて直視できないほどの輝きが部屋を包み込み、機械が異常音を発し始める。モニターには赤い警告メッセージが次々と表示された。
「エネルギーが臨界点を超える……まずい……!」
彼は必死に操作を試みたが、装置は完全に制御不能に陥っていた。さらに、ルミナス・コアの光が異様な形を取り始めた。それは、ただのエネルギーの暴走とは思えない何か――人間の理論を超えた存在感を感じさせるものだった。
その時、コーシーが言葉を発した。
「エネルギーパターンに未知の干渉を検知しました。……これは……生命体?」
「生命体だと?」
椎名の背筋に冷たい汗が流れる。あり得ない。エネルギーの塊が生命体を模すなど、計算外にも程がある。しかし、目の前のルミナス・コアはまるで意思を持つかのように脈動し、その光が生物的な形状を帯びていくように見えた。
「まさか……神だとでもいうのか?」
彼の脳裏に、不意にそんな考えがよぎった。否定しようとしたが、目の前で起きている現象は、あまりにも人智を超えていた。光の中から黒い穴のようなものが現れ、それが空間そのものを吸い込むように広がっていく。まるでブラックホールのようなそれは、すべてを飲み込む闇だった。
「吸収されている……ルミナス・コアが……」
彼の声が震える。装置が生み出したはずの光は、その闇にゆっくりと飲み込まれ、空間そのものが歪み始めていた。
光が暴走する中、研究所全体が震え始めた。床はきしみ、天井からは細かい破片が落ちてくる。モニターにはエネルギーフローの異常が次々と記録されていくが、もはや椎名にはそれを止める術はなかった。
「コーシー、緊急停止プロセスを実行しろ!」
「命令を受け付けません。全システムが外部干渉によりロックされています。」
「外部干渉だと……? 誰が、何が……」
その時、ブラックホールのような闇が突然さらに広がり、研究所全体を飲み込もうとする。光と闇が交錯し、まるでこの世界そのものが否定されるような感覚に襲われた。
椎名はその光景を見つめながら、胸に深い後悔を抱き始めていた。
「科学を……過信していたのか……?」
彼の信じていた科学。自分自身。全てを疑わずに突き進んできたその信念が、この結果を招いたのではないかという思いが頭をよぎる。彼の目に浮かんだのは、迷いと、恐怖、そしてわずかな悔悟だった。
次の瞬間、ブラックホールの闇が完全に広がり、椎名の身体をも飲み込んだ。光が消え、研究所には静寂だけが残された。
挿絵(By みてみん)
椎名光一郎の意識は、そこで途切れた。
痛みや熱さも感じない。ただ、光の粒が爆ぜるような微かな音が、どこからともなく聞こえてくる。その音は、かつて研究中に感じた静電気の微かなノイズに似ていた。だが、それが何倍にも増幅され、周囲を埋め尽くす。
「これが……終わりなのか?」
椎名は静かに呟いた。それは自分の声であるはずだったが、耳には響かなかった。ただ心の中に響くような感覚が残った。彼は光の中に漂いながら、自分がどうなっているのか理解できずにいた。
その瞬間、体から重さが抜け落ちるような感覚が襲った。まるで無重力の中に浮遊しているかのように、自分が何もない空間の中に存在していることだけが分かる。足元も見えず、上下の感覚もない。ただ白一色の世界が果てしなく広がっている。
「ここはどこだ? 何が起きている?」
「俺は……死んだのか?」
その瞬間、白い光が一瞬にして強烈に輝きを増した。視界が真っ白から、さらに純白の光に塗り替えられ、あらゆる感覚が遮断される。光の中にいる自分がさらに小さくなり、消えてしまうような感覚。だが、その中で彼は最後の瞬間、ぼんやりとした暖かさを感じた。
「もっと上手く生きれたら……」
その言葉を最後に、彼の意識は完全に消え去った。周囲の光も音も消え、世界が一度静寂に包まれた。
椎名光一郎は、白い光の中で消えた。だが、それは終わりではなかった。光が生み出すのは破壊だけではない。新たな可能性と再生もまた、光の中には潜んでいる。そして彼が次に目覚める時、そこは彼の知る世界とは全く異なる場所だった。
科学を捨てられない男と、魔法と神が支配する物語の幕が、静かに上がる。
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