ヒツジさん! この先【奇怪領域】です。

深川我無

プロローグ

第一夜 日辻菖蒲は不幸体質

 大学四回の秋、内定が決まったわたしにたかしは言った。

 

「俺、自分の店を持とうと思うんだ。菖蒲あやめ……! 力を貸してくれないか? 俺と結婚してほしい。苦労をかけるかもしれない。でも、それ以上に、菖蒲のこと幸せにするって誓う」

 

 わたしはそのプロポーズを受けた。

 

 単純に嬉しかった。

 

 卒業してからはフランス料理店で修業を始めた彼に代わり、せっせと働きお金を貯めた。

 

 わたしの会社はブラック企業だった。

 

 でも家に帰って孝の作る料理を食べると頑張れた。

 

 とうとう開業資金が貯まり、孝の店をオープンさせた。

 

 幸せだったし、誇らしかった。

 

 誰かの役に立ちたい。

 

 そう思って生きてきた。

 

 そんなわたしのために、小さなレストランの一角には専用のカウンセリングコーナーも設けられた。

 

 小さなお悩み相談所である。

 

 誰もいない店内でその席に座り、今悩みに押しつぶされて吐きそうになっている。

 

 

「やられた……終わった……」

 

 たった一つ取り残された丸テーブルの上には書置きがしてあった。

 

『ごめん。菖蒲も逃げてくれ。お幸せに』

 

 そう書かれた置手紙。

 

 厨房機器も備品も全て取り去られた店内と、置手紙を見て菖蒲は瞬時に理解した。

 

 これはまずい……と。

 

 彼がギャンブル好きなのは知っていた。

 

 ここのところ何時も上の空だったことにも気づいていた。

 

 つまりそういうことだ。

 

 闇金か何かに借金を作っていたのだ。

 

 そして逃げろということは、連帯保証人は十中八九自分である。

 

「とにかく逃げないと……」

 

 ふらつく足が現実を拒絶していた。

 

 頭の中では過去の思い出が走馬灯のようにくるくる回っている。

 

 幼稚園の遠足では動物園の触れ合いコーナーで頭から馬糞を浴びせられたっけ……

 

 小学校にあがるころ、注文した制服がなぜか出鱈目なデザインで、ピンクのスカートで入学式に行ったな……

 

 奇異の目で見られてしばらくずっと揶揄われた。

 

 浮気相手と同姓同名だったせいで、見ず知らずの女子から出会い頭にビンタされたこともある。

 

 しばらく鳴りを潜めていたと思ったら……

 

「チャージしてたんだな……不幸を……」

 

 菖蒲は自嘲するように自身の不幸体質を嗤った。

 

「へへっ……」

 

 孝と選んだアンティークの扉からは、キラキラと陽光が差し込んでいて、ステンドグラスを透過した七色の光がモルタルの床に美しいしるしを映し出す。

 

「逃げよ……」

 

 焦点の合わない目で扉を見上げると、そこにスッ……っと黒い影が差した。

 

 リンリン……

 

 頭の中で鈴が鳴る。

 

『不幸がお出でになりました~♪』

 

 誰かが明るい声で言った。

 

 終わった……

 

 菖蒲の予想を裏切らず、扉は難なく開き、黒スーツを着たスキンヘッドの男が入り込んできた。

 

 その手には借用書。


 連帯保証人の欄には当然のように『日辻菖蒲ひつじあやめ』と書いてある。

 

 しかもそれは自分の筆跡だった。

 

 あの時のサインはこれか……

 

「日辻さんでんな? いさぎよい顔してはるから助かるわ。ほな行きましょか?」

 

「いくらですか……?」

 

「は?」

 

「その、孝の借金っていくらなのかなって……」

 

「なんや? 知らんずくかいな? あのアホ、ほんまに最低なやっちゃな」

 

 男は剃り上げた頭をさすりながら顔をしかめて契約書類を掲げて見せた。

 

 一、十、百……え? ええ? えええええええええ⁉

 

「まあそういうこっちゃ。あのアホ、ネットカジノで大損こいてうちに泣きついてきよったんや。このままやったら上海マフィアに殺されるー言うてな。利息がこんだけ、元本がこんだけ、しめて一億円! 大当たり!」

 

「む、無理無理無理……! こんなのどうやったって返せないじゃないですか⁉  だいたい、こんな法外な金利……」

 

「同情するけど仕方ありませんわ。あれを選んだお嬢ちゃんの見る目が無かった。心配せんでええ。ちゃーんと仕事はうちで紹介するさかい」

 

 スキンヘッドは仏のような優しい笑みを浮かべた。

 

 リンリン……不幸がお出でになりました♪

 

 ヤバい……!

 

 逃げ出そうとする菖蒲より、男の方がずっと早かった。

 

 慣れた手つきで菖蒲の口をテープで塞ぎ、菖蒲が抵抗しようと伸ばした腕を結束バンド縛り上げると軽々と肩に担いでしまう。

 

 流れるような手際でトランクに菖蒲を放り込むなり、男は黒塗りのベンツを発進させた。

 

 終わった……風俗とかそういういかがわしいお店で働かされるんだ……

 

 車内に流れる八代亜紀の演歌が沁みる。

 

 いつのまにかツゥ……と涙が頬を伝っていた。

 

 二時間ほど経ったころ、車が不意に停車する。

 

 怯えていると男がガバリとトランクを開けて顔を出した。

 

「お嬢ちゃん、飯にせんか?」

 

 そう言って男は菖蒲の口を覆うガムテープを引きはがした。

 

 痛みで再び涙が零れる。

 

 見るとそこは山の中らしい。

 

 逃げ出す心配はもうないということだろう。

 

 男は結束バンドを切ると、助手席のドアを開けて入るように促した。

 

「梅と鮭どっちがええ?」

 

「梅で……お願いします……」

 

 助手席に座りコンビニのおにぎりを受け取った。

 

 包みを開けておにぎりをかじるも、いつまで経っても梅が姿を現さない。

 

「梅……入ってませんでした……」

 

「はあ?」

 

 男は運転しながら目を見開いて言う。

 

「梅、入ってなかったんです。わたし、小さいころから運が悪くて、最近は収まってたんですけど……おにぎりに具が無いのも一度や二度じゃないんですよね……はは」

 

 男はしばらく険しい顔で何かを考えていたが、やがて自分のおにぎりを差し出してつぶやいた。

 

「これもやるわ」

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