第8話 金神健斗の挫折と銅鏡

 金神路健斗の父は考古学の教授、母は高校教師で夫婦の話題の多くは芸術や文化に関するものが多く、健斗も歴史や文化に自然に興味を持つようになった。両親は強要はしないものの健斗を博物館や美術館に良く連れていき展示物について健斗にも分かりやすく説明してくれ、健斗に感想を嬉しそうに聞いていた。小学校から本が大好きになり、本屋と図書館に入り浸るようになった。さすがに両親も心配して、水泳を習わせたり、山や川に連れて行って自然に触れさせようとしたが、本を読むのが何よりも好きなことは変わらなかった。外国の童話から始まり、小説や歴史書などを読むうちに、見知らぬ異国への興味がどんどん膨らんだ。普通の子供であれば、主人公の数奇な運命や活躍に感動するが、健斗は主人公のいた時代背景や作者がなぜそのような話を書いたかが気になるのだった。幸い両親は博学で健斗の質問には大抵答えてくれた。中学に入っても健斗の本好きは変わらなかった。世界史に興味があったが、世界史を理解するには宗教や哲学を学ぶ必要があった。しかし、人生経験の少ない健斗には理解できないことが多かった。両親との会話で、自分と両親の知識量、理解力の圧倒的な差を思い知ることが多くなった。「時間が足りない」読むべき本が多すぎる。読んでも良く解らない本が多すぎる。ネットで情報検索ができるようになると、いろいろな学説の出典にも目を通すようになった。外国語の文献も多くは自動翻訳できる。しかし、自動翻訳はまだ不完全だった。怪しい部分は自分で翻訳した。会話は全くだめだったが読むための語学力はどんどん向上した。健斗は自分が少しづつ世界の秘密に分け入っていることに満足感を感じることができたが、相変わらず先が見えない焦りが募っていた。

 そんな中、中学3年の時、和田風花という健斗と同じクラス委員の女子に惹かれるようになっていった。風花はおとなしい印象の子でクラス委員というタイプではなかったが、成績が良く人当たりも良いためクラスの総意で選ばれたのだった。勉強に身が入らなくなり、気が付くと視線が風花を探している。小雨の中、下校のときの後姿は柔らかい光に包まれているように見えた。風花とはクラス委員の仕事で話す機会はそこそこあったが、話の内容が深くなることはなく、どうやったら親密な関係になれるのかわからなかった。風花は自分のことをどう思っているのだろう。決してよそよそしくはないが、お互いのプライベートに近づく会話には発展しなかった。健斗は思い切って告白することにした。とは言っても「好きです。付き合ってください」とはとても言い出せなかった。第一、健斗がどれくらい風花を好きなのかを簡単な言葉で表せる訳がない。何だか古風でかっこ悪いとは思ったが、ラブレターを書くことにした。完璧なラブレターを書くために3日間を費やした。健斗は近くのポストからラブレターを投函すると誰かに見られる気がして、中央中便局に自転車で向かった。局の入口でハッとした。ガラス越しだったが風花なのは一目で判った。見慣れない男子学生と一緒だった。二人で荷物を送りに来たようだった。用事が終わって二人はこちらの方に歩いてきた。健斗は柱の陰に身を隠し様子をうかがった。こそこそしている自分が情けなかった。男子学生は中肉中背くらいで顔はあさ黒かった。サッカーか野球でもやっているのだろうか。局の出口で二人は別れた。帰る方向が反対だったのだろう。別れの際の風花の笑顔に健斗は打ちのめされた。その男子学生に向けられた笑顔はいままで健斗が見たことのない笑顔だった。「笑顔」と「笑い顔」が別物であることを健斗は初めて知ったのだった。立ち直るのに3週間かかった。諦める必要がないことは頭では分かっていたがこれ以上状況を動かす気力はなかった。

 それから暫くして、健斗が居間に入ろうとすると珍しく父と母が言い合いをしていた。政治や歴史観で論争になるのはしばしばだったが、もっと深刻な話のようだった。健斗は壁にもたれて話を盗み聞きした。

「全部洗いざらい話して謝罪したほうがいいわよ。起訴されるかも知れないけど情状酌量で実刑にはならないわ。不起訴になる可能性の方が高いと思うわ」

「そんなことをしたら学者生命は終わりだ。ここまで来るのにどれだけ苦労したか知っているだろう」

「だったら、元の場所にまた埋めてくれはいいじゃないの」

「そんなことはできない。あの鏡は日本史の宝だ。これまでの学説を一変させる可能性が高い。それにもう手を加え過ぎているんだ」

「もとに戻せないの」

「年代測定の時に緑青を溶かしているし、ちょっと調べれば最近手を加えられたことはすぐに判ってしまう。発掘の時の写真はあちらにあるし、私がいろいろ分析したことはすぐにばれてしまう」

「だったら経緯はとにかく論文だけ発表して鏡は返して罪を償えないの」

「そんな論文どの学会誌にも掲載されない。手柄は他の連中に全部持っていかれる。あの鏡は調べれば調べる程新しい発見があって、また謎が深まるんだ。一生かけて研究して死んだ後に発表すればいいと思ってるんだ。鏡の歴史を考えれば数十年くらい発表が遅れたってどうってことはない」

「最近あなたはおかしくなっているわ。鏡に憑りつかれているみたい」

 健斗の祖父も考古学者だった。高名な学者で学閥のリーダー的な存在だったが、歯に衣を着せることなく他の学者の論文を批判するため敵も多かった。十年前に急性の癌で他界している。健斗の父の憲一も考古学を志し、国立大学の助手就任が内定していたが、強烈な横槍が入った。金神という珍しい苗字が災いして、祖父に恨みを持つ大御所教授がその息子の大学教員採用を知ることとなり猛然と圧力をかけたのであった。憲一の大学教員採用の道は断たれてしまい、しばらく非常勤講師と文筆業のアルバイトで生活していた。三十六歳の時、「世界史からみる日本の神話」という本を上梓した。それは学者としては不遇であったものの精進を続け世界史、日本史に精通した憲一だから書き上げることができた本であった。こつこつと資料にあたり様々な説の裏付けを試みたが、文化庁、宮内庁、市町村の教育委員会等が保管する資料を閲覧するのは容易な仕事ではない。特に宮内庁所蔵の資料は無名の非常勤講師の憲一には殆ど閲覧許可が下りなかった。それどころか宮内庁が保管を明らかにしていない資料も多数存在する。また閲覧申請から許可されるまで数カ月ヵかかることも珍しくなかった。「世界史からみる日本の神話」は徐々に売り上げを伸ばし専門書では珍しくベストセラーに入った。しかし、若い非常勤講師の本が売れたことに対する嫉妬は相当なもので、間違いの指摘や批判が相次いだ。元々、日本神話について本を出版するのは相当な覚悟と実力がいる。天皇家のルーツに触れるのはタブーであるし、天上にある高天原の神々が日本人のルーツだと固く信じていて異論は許さない人々もいる。日本の文化は全て大陸由来で借りものだという外国のプロパガンダに利用される危険もある。憲一は証拠資料を示しながら、寄せられた誤りの指摘や批判に精力的に対応し、廃刊や自主回収を求める圧力に何とか持ちこたえた。しかし、憲一の博識と謙虚で丁寧な対応を評価する人々も増えていった。憲一は有名私大に準教授として迎え入れられ、温めていた論文の多くが有力学会誌に掲載され、5年後に教授になった。

 憲一は学生を連れて九州の発掘現場を訪れていた。工場建設予定地を整地していたところ、古墳時代の遺物が発見され、地元の教育委員会を中心に発掘調査が行われていた。憲一が調査協力を申請して受理されたのであった。憲一がここに学生を連れてきたのは発掘現場を体験させるのが目的であった。九州の歴史的な遺構を見学し、最終の2日間与えられた区画を発掘調査して帰る体験ツアーのような企画だった。憲一達に与えられた区画は偶然土器が発見された場所から結構距離がある建設予定地の隅の方だった。期待が大きい場所は地元の教育委員会が担当するのはある意味当然だった。憲一は発掘の方法を一通り説明して発掘を開始した。一時間ほどした時、教育委員会が担当するエリアで新しい土器が見つかった。憲一は学生達を連れて行き見学させてもらった。現場の写真をとり状況を詳しく記録しながら慎重に回りの土を掘り進めてゆく。結構大きな土器で、現場に居合わせることができたのはラッキーだった。憲一達は自分の区画にもどり発掘を続けていると、60センチぐらいの深さから木炭が出てきた。教育委員会の担当者に報告する。

「焚火の後か何かでしょうかね。灰を捨てる場所だったのかも知れない。この辺では珍しくないですが、木炭に混じって何か出てくる可能性がありますから慎重に作業を進めて下さい。まずは木炭が含まれているエリアの大きさと深さを調べて下さい」との指示があった。木炭は直径1.5メートルほどの円形に広がっており、下まで深く続いていた。木炭の層を少しづつ掘り進んでゆく。遺物は何も出てこない。どうやら木炭の層は焚火の跡などではなく、人工的に木炭を砕き砂礫と混ぜて作られているようであった。層は柔らかく掘削は順調に進んだ。80センチほど掘り進むと岩のようなものに当たった。写真を撮りながら周りの木炭を取り除くと直径80センチくらいの円形の岩であることが判った。ごつごつはしているがきれいな円形であることから人口的に削り出された可能性が高い。さらに掘り進めると岩は厚さ40センチくらいの円板のような形状であることが判った。現場は俄かに活気づいた。恐らく何かの蓋のようなもので、下には大きな遺物が埋められている可能性が出てきた。多くの人が集まっている中で円板状の岩が持ち上げられた。しかし下には同じような木炭の層が続いているようだった。岩が取り除かれ、しばらく掘削が続けられたが、木炭の層は終わってしまい、本来の地層になってしまった。円板状の岩は人手で加工された可能性が高いものの学術的価値は殆どないため他の土砂と一緒に重機で現場に埋め戻すことになり、土砂置き場に運ばれていった。しかし憲一は長い学者生活の直感であの岩には何かありそうな気がした。古代人は何かの意図で円形の穴を掘り、木炭と砂礫を混ぜて敷き詰め、円板状の岩を置いて埋めたことになる。円板状の岩の上か下に何か重要なものを埋める積りが取りやめになった可能性もあるが、円板状の岩をわざわざ木炭で包んで埋めている可能性もある。岩は泥岩のようであった。加工は容易であり、円形といってもごつごつとした形状で適当に削って作った感じではある。その夜、憲一は岩のことが気になって眠れなかった。夜明け前、浅い眠りが訪れ夢を見た。岩は内側から金色の光を放っていた。憲一は居てもたってもいられなかった。このままでは岩は埋め戻されてしまう。自分の研究室に持ち帰って分析したいが、そのためには多くの手続きが必要だ。そもそもただの岩をどうして調べなければならないかの説明が必要だ。直感では話にならない。担当者の迷惑顔が目に浮かぶ。工場建設予定地なので調査期間は限られている。学術的な価値があればどこに持って行き、どのような調査をするのか短期間に決めなければならない。憲一が持ち帰っての調査を申し入れても許可はされないだろう。文化財担当部署はどこも予算も人材も限られている。憲一の説得が受け入れられたとしても屋外の保管場所に放置されて終わりだろう。岩を割って調べたいが破壊的な調査は無理だろう。憲一は急用が出来たことにして学生を帰し、自分はクレーン付きのトラックを借りた。夜遅く憲一は発掘現場に行き、岩をトラックに積み込んだ。ついでに岩を包んでいた木炭も採集した。木炭があれば年代測定ができる。岩や木炭は無主物と言えないこともないが、発覚すれば窃盗で起訴される可能性はある。憲一は憑りつかれ始めていた。高速を飛ばし自宅の庭に岩を運び込んだ。取るものも取りあえず岩に鑿を入れると外側は固いものの内側は脆くて簡単に彫ることができた。10センチほど外側を削ると中は黒っぽい石のようだった。石を粘土のようなもので覆った構造だった。粘土は長い年月で石化したらしい。予感は当たった。憲一は夢中で鑿を振るった。数日かけて削ると中の石が姿を現した。高圧洗浄機で残った粘土を落とすと美しい楕円球の石が姿を現した。表面は滑らかに加工されている。良く見ると石の真ん中に水平に境界があるように見える。もしかしたら、上下に割れるかも知れない。ここがターニングポイントだった。今なら経緯を全て告白して謝罪すれば罪に問われないかも知れない。廃棄される岩を持ち帰って調べたところ中から美しい楕円球状に加工された石が出てきた。これだけのものであれば学術的な価値のある遺物である。しかし、これ以上破壊的な調査を勝手に行えば無罪という訳には行かない。石を市の教育委員会に返却した後のことを考えてみる。担当者は岩にある僅かな境界に興味を持ってさらに調査を続けてくれるだろうか。恐らく具体的な指示を出さない限りその後の工程には進まないだろう。憲一が自費で割って中を調べる提案をしたところで却下されるだろう。中に間違いなく貴重な遺物が入っていることを立証できれば話は別であるが。憲一は後戻りできなかった。知り合いの石工に来てもらった。石工のおやじは一目見てほうと唸った。大昔の道具でこれだけ精緻な形状を彫り上げるのにはどれだけ手間と時間がかかることか。憲一が水平の線を示すと石工も憲一と同じ見解だった。

「これは2つに割れるね」

 石工は鑿で切込みを入れると楔を打ち込み暫く叩いたが石はびくともしなかった。

「これは4隅から丁寧に楔を打ち込まないと難しいな」

「日当はいくらでも払うからよろしく頼む」

 午後から3人の石工が加わった。2つの木の箱の間に石を載せて、4方向から楔を打ち込む。

「そーれ」。カーン。「そーれ」カーン。掛け声とともに同時に楔が撃ち込まれる。石は簡単には割れなかった。石工の忍耐強い作業は30分も続いた。パカッと石は突然上下に割れた。石工達は上の石を持ち上げて中を見たがったが憲一は押しとどめた。

「万が一、中に遺物が入っていたとしたら急に外気に触れさせてはいけないんだ。中に何か入っていたら後で教えてあげるから。石を割ったからもう外に置く訳にはいかないな。蔵の中まで運んでくれないかな。それから上蓋になっている石を持ち上げられるようにアンカーか持手になる窪みを付けてくれないかな」

 屋敷には古い蔵があった。健斗の祖父はそこに様々な歴史的資料を保管していた。蔵の1階を少し片づけてスペースを作り石が運び込まれた。木の箱はそのまま憲一がもらい受けて2つの箱の間に石が丁度良い高さに置かれた。翌日、憲一は早速作業に取り掛かった。上蓋の石を1ミリくらい持ち上げチューブを差し込んで窒素を流し込んだ。さらに持ち上げてファイバーカメラを差し込んで中を観察する。中は段差がある嵌合構造になっていてさらに蓋をもちあげなればならなかった。予想通り中は中空だった。布のようなものが見える。何か円板状のものを布で包んでいるらしい。布は草の繊維を織り込んで褐色の染料で染めたようだった。古代の布としては相当精巧に織り込まれている。憲一は思い切って上蓋を持ち上げた。まず驚いたのは石の断面である。殆ど鏡面に近かった。石を鏡面のように加工している例は古代から見られる。固い木の実や草の断面を使って気の遠くなるような時間をかけて石を磨いてゆくのである。しかし完璧に嵌合するように2つの石を磨くにはどのような技術を使ったのだろう。さらに驚かされたのは、石の段差の側面がテーパーになっており金が施されていたことである。恐らくパッキンの役割を果たしていたのだろう。現在でも金のパッキンは使われることがある。腐食に強く柔らかいため気密構造が必要な個所に用いられる。もっとも高価過ぎるので通常は他の金属が用いられるが。手袋を2重に嵌めて慎重に中の包みを取り出して机の上に置いた。ずっしりと重かった。どうやら中には円形の金属板のようなものが入っているらしい。布はまだ柔らかく千年以上の時を経ているとは思えなかった。案外新しい物であるかも知れない。憲一は軽い落胆を覚えつつも保存状態が極めて良い可能性もあると気を取り直す。慎重に包を解いてゆくと憲一は目を瞠った。見事な銅鏡であった。大きさは40センチほどもあるだろうか。これまで発見されている中では最大級だ。美しい彫刻が施されている。八角形を基調としてこれまで見たことのない文字が周囲に並んでいる。うっすらと緑青で曇っているものの美しい黄金色である。ちょっと磨けば素晴らしい輝きを放つに違いない。しばらくは呆気にとられてぼーっと眺めていたが気を取り直して裏面を確認した。曇ってはいるが素晴らしく平坦な鏡面であることは一目でわかる。石の蓋と同様、鏡面にするのは手間をかければできるが精密な平面を作るのは現代の技術でも大変なのである。憲一は夢を思い出した。岩から放たれていた金色の光の正体はこの鏡だった。初めて見る正夢だった。憲一はさらに鏡の虜になっていった。調べることは山ほどある。まず鏡が造られた年代を調べることだった。鏡の緑青を集めて含有するCO2の炭素から年代測定することは可能であるが、殆ど錆びていないため鏡に化学的処理を施して緑青を集める必要がある。鏡にはなるべく加工を加えたくない。幸い包んでいる布がある。この布の年代分析をすれば大体の年代は掴めるだろう。学会発表すれば鏡と布の年代は別かも知れないとクレームが付くだろうが。布と木炭の年代測定を依頼した。その結果は驚愕するものであった。布は紀元前212年±9年との結果が出た。木炭は紀元前113年プラスマイナス9年だった。日本最古の銅鏡は方格規矩四神鏡で西暦235年に鋳造されたものとされている。紀元前212年と言えば古墳時代を遥かに遡る。大陸で製造されたものが渡って来たものと推測されるが、歴史を塗り替える古代人からのタイムカプセルだった。

 健斗は夢を見た。自宅の蔵の2階に居た。奥の方から金色の光が漏れていた。すぐに目が覚めた。時計は午前一時を示していた。金色の光の正体はおそらく父が発掘した鏡に違いない。幸い父は出張していて明日まで帰らない。父母の喧嘩の種になっている鏡とやらを健斗はいつか見てみたいとは思っていた。家を出て蔵に行き鍵を開けて二階に登る。加湿器の動作音が静かな部屋にわずかに漏れている。2階には様々な骨董品が置かれていた。金色の光は見えなかったが、鏡のありかは何となく判った。棚の下に新しい段ボールの箱があった。上には手袋が置いてあった。開けてみるとビニールの袋に入った桐箱と袋に詰められた布のようなものが入っていた。袋には大量の乾燥剤と酸化防止剤が入っていた。手袋を付けてビニールの袋を開き、桐箱と布が入っている袋を取り出し、机の上に置いた。桐箱の蓋を慎重に開けてみた。健斗は目を瞠った。見たことのない文様が施された大きな銅鏡が入っていた。その造形の素晴らしさは健斗でも一目で判る。鏡から目が離せなくなった。いつの時代のものなのか見当もつかない。蔵の入口の電灯を点けてきたのを思い出した。母に見つかる前に蔵を出なければならない。健斗は鏡を持ち出す誘惑に勝てなかった。自分の部屋に持ち込んでゆっくり眺めてみたかった。桐箱を持って自分の部屋に戻った。乾燥剤や酸化防止剤は気になったが一日くらい大丈夫だろう。健斗は自分の部屋でしげしげと鏡を観察した。うっすらと緑青が浮いているが鈍く金色に光っている。裏も同じだった。曇っているが現在のものと変わらないくらいきれいな鏡だった。化学研磨剤を使えば美しい鏡面が復活することだろう。

 明け方、消防車のけたたましいサイレンで目が覚めた。蔵から火の手が上がっていた。消防車が何台も来たが道が狭くて蔵に近づけなかった。さらに悪いことに蔵は防火構造で中に放水するのが難しかった。外からの火災には強くても中からの火災には却って弱かった。火の勢いは収まらず中の物が完全に燃失して屋根が落ち、やっと十分な放水が可能になり、9時ごろ鎮火が確認された。父は九州に出張していたが予定をすべてキャンセルして駆け戻ってきた。蔵が完全に焼け落ちているのを見て呆然としていた。現場検証の結果、一階の乾燥器か2階の加湿器のコンセントのトラッキング火災の可能性が高いとの結論だった。翌日から健斗の父は狂ったように焼け跡から遺物を探し始めた。さらには焼け跡を掘り返しては金属探知機で探った。金属性の破片は結構見つかったが目当てのものではなかった。出てきた破片は庭の隅に小山のように積まれていた。父が探しているのが鏡なのは間違いなかった。青銅製であれば強い炎で溶ける可能性はあるが跡形もなくなることはないはずだった。

 健斗は自分が鏡を持ち出していることを言い出せないでいた。無事な鏡を見せたら父はどんなに喜ぶだろう。健斗は怪我の功名で褒められこそすれ、叱責されることはないだろう。しかし健斗は鏡に憑かれ始めていた。健斗はまた夢を見た。健斗の押し入れから光が漏れていた。

「我、其を選びし。かへすことなかれ」

 と声が聞こえた。すぐに目が覚めた。押し入れの奥に隠した桐箱をそっと開いた。手袋をして裏の鏡を覗き込んだ。健斗の顔があったが健斗ではないのは直感でわかった。

「深淵を覗く時、深淵もこちらを覗いているのだ」

 哲学者ニーチェの格言を思い出した。しかし、ニーチェが言った意味とは全く違う。ニーチェは「困難な悪の課題に没頭し過ぎると、自分自身が悪に飲み込まれてしまうので心せよ」と言っていると現代では解釈されている。しかし、今の状況は言葉の意味そのままだった。結局健斗は鏡を返すことは出来ず、押し入れの奥に隠し続けた。時たま取り出してしげしげと眺めた。そして梵天で丁寧に埃を払った。鏡から要求されている気がした。

 火災から一月が経ち、金神家には平穏がもどりつつあった。ぎくしゃくしていた父母の仲も元にもどりつつあるようだった。健斗も時折鏡の手入れをするようになった他は勉強に専念する毎日が戻っていた。

 健斗に次の挫折が訪れたのは高校1年の春だった。そろそろ数学をしっかり勉強しようと思い立ち、代数学を勉強し始めた。実用数学は大体マスターした気でいた。しかし、代数学の奥深さに踏み込むと圧倒されてしまった。簡単そうな定理を証明するまでの膨大な思考、どのようにして浮かんだのか想像もできない解決へのアイディアの数々、天才だけが辿りつける境地を垣間見て絶望するしかなかった。天才たちは健斗くらいの年齢ですでにこの境地に立っていたはずだった。数学の才能がないと諦める他なかった。しかし、まだ知らないことは他にも山ほどあった。高一の頃には健斗は論文を書かない学者のような生活を送っていた。専門書を読み漁り、資料を取り寄せ、納得できるまで調べる。ネット検索ができるようになり、健斗の勉強の効率はさらにアップした。さらにAIが現れて学習はさらに効率が上がった。

 しかし、直ぐに次の挫折が訪れた。AIは最初の頃は検索エンジンに毛が生えた程度の性能だった。間違った推論も多く、所詮ツールだと割り切って使っていた。しかし、数年のうちにAIの性能が格段に向上した。例えばプロテスタントとカトリックの違いは?といった質問をすると、最初はそれぞれの宗派の起原や教義を説明するだけだったが、程なくしてそれぞれの宗派の違いを教義の観点から論じたり、歴史的背景、現在の信者の動向など縦横な知識を基に議論を展開するようになった。健斗は最初は熱狂してAIと向かい合っていたが徐々に大きな疑問を抱くようになった。これまで自分が学んできたことは、何か意味があるのだろうか。どんな問にもAIが的確な回答ができるのであれば、知識などさほど必要ではないのではないだろうか。高校1年の終わり、健斗は突然虚無感に襲われるようになった。

 鏡の手入れは毎日続けていた。鏡の向こうに薄ぼんやりと自分が写る。鏡に向かって問いかけみる。

「僕はどうしたらいい」

「お前はどうしたい」

「僕は何者かになれるの」

「お前は何になりたい」

 鏡は答えないで問いを返す。

「父のように何でも解る人間に」

「父を真似ればいい」

「それだけじゃいやだ。僕は僕だ」

 鏡に向かう時間は健斗が自分自身と向き合う時間になっていた。今まで無我夢中で学問に取り組んで来ただけだった。知らないことは山ほど残っているが良いではないか。実践や体験がまだ足りていない。そして何よりも高校生活を楽しむのだ。

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