第21話 8月の山口(防府市 宇部市)
8月になり、職場の営業の大先輩が、担当している契約先を紹介したいので同行して欲しいと言ってきた。実際には厳密な施設の担当という区分は決まっていないのだが、各営業は自分が成約した施設への思いや相性などから訪問者が固定される場合も少なくない。その当時は、殆どの企業が定年退職は60歳で一度は区切りを付けるようになる。その後は、会社の再雇用を選ぶか自分の地元に戻り適当な職場を見つけゆっくりするかという選択になる事が多い。民間の会社では、公務員とは違い自分の誕生月で退職を迎えることが多く、大先輩のK課長も9月で退職となるため引継ぎの準備をしていた。
山口県の契約先は1施設だけで、K課長が成約した施設のみ。殆どの営業担当は、このエリアに行った事がない。修一もこの時まで、山口県の営業訪問をしていない。山口県への移動は飛行機利用になるが、K課長もJAL派で行き帰りの航空会社の選択で発着時間に悩む必要はなかった。引継ぎのための日帰り旅だった。その当時は、山口県の飛行場は山口宇部空港のみで県全体の位置から見ると西側に片寄っている。後になって、山口県東側の利便性のため岩国錦帯橋空港が出来たらしい。それでも、羽田から山口宇部空港への便数は増えていない。
羽田から山口宇部空港への到着時間は、一番早い便でも午前10時位になってしまう。それでも、契約先が1件だけなので問題ないようだ。席は別々に確保して同じ便で搭乗した。K課長は、車の運転が趣味でB級ライセンスを持っていて、時々レーシングコースを走っている。今回は、修一が運転する心配は要らなかった。午前9時50分、山口宇部空港に到着するとゲートで合流しTレンタカー山口宇部空港店に向かった。今日の修一は、受付も含めて特に何もする必要がない。車に着くと助手席に座らせてもらった。
「今日は済みません。運転から全てをお任せしてしまって……」
「防府(ほうふ)市の〇〇病院は、僕が契約を取った大切な施設だからさ、今時の若いドライな営業には任せたくなかったんだよね。もう、契約して10年位になるけど続けて貰いたい施設だから……今日は伊藤君に来てもらったんだ。契約先は防府の1件だけだから、終わったらゆっくり宇部周辺の案内するからね」
そう言うと、契約先のある防府市までナビ設定後に車を走らせた。目的地までは50分前後掛かるようだ。さすがにB級ライセンスを持っているだけあって、車の走りはキビキビしている。ハンドリング捌きやアクセル・ブレーキの扱いが小気味良いのだ。レースに出るとこんな感じで運転してるのかなと思った。コンビニに寄ってお互いに飲み物を補給した。走り始まると営業のT君の話題になる。
「伊藤君、技術のT君と何度か出張に行ってるみたいだけどさ、僕も1度だけ一緒に行った事があってね……。その時は、時間が無くて急ぐから山道を通ったんだけど、空港に着くまでに彼が酔っちゃって参ったよ」
「彼は、普段運転しないペーパードライバーですからね。K課長の運転は、切れ味良すぎて耐えられなかったんでしょう。私は、気持ち良いですよ。私の場合は、運転がのんびりしてますからね……鹿児島の山道では大丈夫でしたね。今日は、マイペースで運転して頂いて大丈夫ですよ」
「その時は、本当に搭乗時間がギリギリでタイヤ鳴らしながら飛ばしたからね……」
そんな会話をして笑った。本気になると運転は、どんな風になるんだろうかと少し興味があった。午前11時位には、その病院に到着した。K課長が受付に話をして事務長室に案内してもらう。部屋に入ると事務長とシステムの運用担当が待っていた。K課長が挨拶をする。
「ご無沙汰しております。私も来月で60歳の定年になりますので、次の営業担当と一緒にご挨拶に来ました。引き続きよろしくお願いします」
「まだお若いのに、定年後の延長再雇用はされないんですか?これから、どうされるんですか?」
「私の出身は青森なんですけど、田舎に帰ってバードウォッチングでもしようかと思いまして……」
「良いですね。私も早くそういう身分になりたい。これからは、悠々自適じゃないですか……」
「畑を耕したりして、質素にのんびりしますよ」
そんな流れの中で、修一の紹介もされて引継ぎの挨拶は終わった。病院を出ると11時50分になっている。昼食という事で、出発前に好みを聞かれたが『何処でも良いです』と答えたので、K課長は車で10分位の店に付けた。どうやら、中に入るとお好み焼の店のようだ。
「ここ好きなんだよね。お好み焼は、広島風と普通のがあるよ。他に、焼きそば、もんじゃ焼きもあるから、好きなの頼んだら……。自分で焼くとドリンクサービスが付くけど、お店の人に焼いてもらって良いよね?」
「もちろん良いですよ。プロに焼いてもらった方が美味しいと思うので。僕は広島風にします」
結局、広島風お好み焼を2つ注文し、店の人に焼いてもらう事にした。その方が上手く焼けるだろうという事もあるが、それよりも出張の昼食の一時に自分で焼く気にはなれない。焼く所を見ていると、広島風お好み焼は、普通のお好み焼のように混ぜた物を広げるのではなく、具材を重ねて焼いて行くスタイルのようだ。焼き上がると鰹節と青海苔をタップリ載せてくれた。修一は、それにマヨネーズを掛けて貰った。細いマヨネーズの筋を何本も網目のように掛けるのは、どうみても店の人に頼んだ方が美しく出来ると思ったからだ。
出来立ての広島風お好み焼を頬張ると焼き方や味わいが絶妙で美味しかった。出来立てを食べると口の中にソースとマヨネーズの味が広がってくる。口の中が熱くなり、冷たい水を飲んで落ち着けた。メニューに載っているお好み焼はいずれも800円台と安い。今日のランチは、ボリュームも有ったので大いに満足できた。
午後は、特に周る所もなくK課長が以前から目を付けていたという商談施設の横を通りながら教えてもらう。宇部市では、空港の近くに常盤池というエリアがあり、ときわ公園やときわ動物園など、水辺の休憩スペースもある。噴水も見える水辺の駐車場で休みながら、午後の時間をのんびり過ごした。羽田へ戻る便は、夜7時発なので夕方5時には空港に戻りたい。K課長は4時前になると、Tレンタカーの宇部空港店に向けて車を走らせた。車を返却し空港には5時前には着いた。食事処を探していると海鮮系のレストランが有ったので入る事にした。
出張夕食代2,000円を考えながらメニューを見る。『ふくの天婦羅』『ふくの珍味3種盛り』『とらふくのひれ酒』などがあり、計算すると合計で調度良い金額になる。その組み合わせで注文する事にした。K課長は、ふぐは山口に来た時に食べているからと、『刺身の盛り合わせ』『焼きおにぎり』『生ビール』を注文していた。注文した品が揃ったので乾杯するとK課長から言葉があった。
「今日は同行ありがとう。これで安心したよ……後は、よろしくね。出発まで時間はあるからゆっくりしよう」
「ご指名頂いて、ありがとうございました。山口の日本海側にも契約先が出来たりしたら大変そうですね」
「そんな事があったら良いね。またT君と1泊で来てみたら。羽田から1時間半だから意外と近いでしょう?」
「そうですね……頑張ります。ところで、こっちでは『ふぐ』のこと『ふく』って言うんですか?知らなかったです。山口って言ったら、やっぱり食は『ふぐ』ですよね」
「山口では、『ふく』って言って濁らないらしいよ。午前に訪問した事務長に聞いた話なんだけど、『ふく』は『福』で縁起が良いんだってさ……。山口県は『ふくの国』って呼ぶらしいよ」
そんな話をしながら、『ふくの天婦羅』を口に運ぶと淡泊な味わいで美味しい。揚げ物でも罪悪感がない。3種盛りの内容は、ふく皮(ふぐの皮:別名で鉄皮-てっぴと言うそうです)-ふく馬関造り(ふくまかんづくり:塩辛)-ふく白造り(ふくのしろづくり:ふぐの胴の部分だけの塩辛)という内容。『ふく皮』はコリコリして食感が美味しい。『ふく馬関造り』は唐辛子が効いてピリッとしている。『ふく白造り』は、イカの塩からが『ふぐ』の白身に置き換わったような味わいだ。そんな事で、『とらふくのひれ酒』を飲みながらのふぐ三昧にはすっかり満足した。
搭乗時間が来て飛行機に乗り、夜の8時半には羽田に到着した。それほど、遅くない時間だった。
1ヶ月後、K課長は退職日を迎え青森に戻った。たまたま、フェイスブックでK課長のページを見付けたのだが、たくさんの綺麗な小鳥が撮られていてページにアップしている。趣味と生活も充実しているようだった。
『青森の出張に来たら 一度、遊びに来てみたら……』と言われていたので、いつか訪ねてみようかと青森の季節感を考えていた。修一は、自分がリタイヤしたら何をしているんだろうと考えていた。同時に、Webでの先輩の元気な姿を発見して嬉しく感じていた。
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