第7話 5月の山形(鶴岡 温海温泉 米沢)
5月になって、山形県の『あつみ温泉』にある契約先に営業訪問することになった。以前は、温泉水が川から海へと流れ込み温めていることから『温海』と命名されていたらしい。今は、温海温泉ではなく『あつみ温泉』と平仮名で書くことが多いとネット情報があった。
修一は、山形出張の場合、新潟新幹線と日本海側を走る在来線で行くのが好きだった。東京からは、新幹線『とき301号』に乗り、新潟駅からは『いなほ1号』に乗り換えるルートだ。新潟駅では、十数分の待ち時間だけでロスタイムは殆どない。朝10時過ぎにはJR鶴岡駅に着く。『いなほ1号』は、あつみ温泉駅にも停車するのだがTレンタカーの営業所が無いのだ。
山形県営業は、日本海側の庄内と山側の最上・村山・置賜などの地域に分かれている。契約先が適度に散在しているため一泊二日と決めていた。若い営業は、庄内空港から必要な案件だけでピンポイント営業をして日帰りで戻ってくることが多い。修一は、鶴岡駅スタートで新庄-上山-米沢と周りながら2日間を掛けて県内を巡っていくことが多い。特に、山形県営業のスタートとなるあつみ温泉には、大好きな院長先生がいる小さなクリニックがあった。
いつものように、鶴岡駅前のTレンタカーに立ち寄り車を借りると一路南に向かう。コースは日本海の海岸部を走る美しい眺めがあるエリアだった。今回は、鶴岡駅前発で翌日にTレンタカー米沢駅前店に乗り捨て旅は終了となるコースだ。あつみ温泉エリアに入ると、温泉街の風情が漂ってくる。ばら園や足湯カフェなど趣のある施設もあるのだが、いつも、山形県内全域の営業プランで先を急ぐため、ゆっくり立ち寄ったことはない。
(いつか、ゆっくり宿泊でもしながら、この辺を散策してみたいな……)
といつも思っていた。
その日は、午前11時に訪問する診療所のアポを取っていた。地域にも親しまれている診療所で、待合室に畳のスペースなども用意してあり、冬場には炬燵で過ごすこともできる。院長先生は、会社ならば既にリタイアしているであろう高齢でベテランの穏やかな女医先生だった。いつも、修一の訪問を楽しみに待ってくれている。
「S社の伊藤です。11時にお約束を頂いていますが、院長先生はいらっしゃいますか?」
「お待ちしてました。どうぞ、院長室にお入りください」
院長室に案内されて、先生に挨拶をする。
「ご無沙汰しております。今回は、何かお困りごとのご相談がありましたか?」
「実はね。山形県警からAi診断に協力して欲しいという相談要請が来ているの。S社さんに時々、診断を依頼してると思うんだけど、死因究明で対応する件数を増やして欲しいと言われてるんです。暑い夏などに畑などの作業中に亡くなった方の死因究明の補助診断なんだけど、ここに運ばれても診療の合間に死体のCTを撮る訳にもいかず困っているんです。他院ではどうしてるのかしら?」
(Ai診断とは人工知能のAIではなく、死亡時画像診断Ai(Autopsy imaging)でiを小文字で書いて区別しています。勿論、世間では様々な分野のシステムでAI診断という言葉が多く使われていますが、医学分野で小文字の『i』が使われるAiは別物で人工知能ではありません)
修一は、それに返答した。
「大きな施設では、CTが複数台ある所もあり使い分けしているケースもあるようですが、普通の施設では混雑している診療時間帯であれば、ストレッチャーで白い布を被せてCT室に移動するのは控えたいようです。お昼休みや待ちの患者さんが居なくなった時間まで待つ施設も多いようです。霊安室や空室に取り敢えず待機させタイミングを見るケースも多いようです」
「県警から頼りにしてますからねと言われて、うちみたいな小さなクリニックに運ばれてもね……」
「県警の方からもメールが届いており、明日10時にアポを取っています。こちら、院長先生の状況を含めながら、Aiで何処まで協力できるのか確認してきますね。頼りにされてるんでしょうけど確かに大変ですよね」
そんな話が一通り済むと、先生からのありがたいお言葉がある。
「今日は、お蕎麦をご用意しましたから一緒に食べましょう。お昼には、調度良い時間でしょう。この近くにある蕎麦屋さんなんだけど美味しいですよ」
そう言われて、別室に案内されると豪華な天婦羅が盛られた膳が2食分用意されていた。
「えぇ……こんなご馳走して頂いて良いんですか。ありがとうございます」
「いつか、一緒にお食事したいと思っていたんです。どうぞ……」
先生から勧められ、感謝しながら目の前のご馳走をいただいた。それからは、先生が大学病院から熱海温泉に戻り診療することになった経緯や、温海温泉の四季の風情などを聞きながら過ごした。出発する時間が来たのでお礼を言いながら診療所を後にした。昼休みの時間帯という事もあるのだろうが、玄関まで院長先生と受付の女性が出て見送ってくれる。こんな事は通常はない。後ろ髪を惹かれながらあつみ温泉を出発した。
庄内地域の契約先を周りながら、午後3時を過ぎるとノルマが終了した。次は、ナビを宿泊先の新庄市のビジネスホテル〇〇イン新庄駅前に設定する。新庄の宿泊では、外に出て食べることは少なくホテル内のレストランで食べることが多い。新庄駅を見下ろしながら旅情を味わえるのと、旅費夕食に裏技を使う事ができたからだ。通常ならば、外食で2,000円の領収書を切ってもらうのだが、予約する宿泊費が安く予約」できた場合、領収書内にホテル内での夕食代を含め宿泊費にしてもらうのだ。そうする事で、普段より数千円ほど高めの夕食を味わえるからだ。
ホテルの高層階の窓からは、山形新幹線の最終地点となるJR新庄駅が見下ろせる光景も好きだった。チェックインして大浴場に入り夕方6時になると、1階にある食事処〇〇亭にはいる。何度か来ているのである程度のメニューは分かっているのだが、何を食べようかと今日の腹具合に聞いてみた。メニューの写真を見てみると、味噌鳥皮ホルモンと串カツ盛り合わせが美味しそうに見えたので、その2品に加え焼きおにぎりと生ビールを注文した。せっかく山間部に来たのだからと、海ではなく山の幸を味わいたい気分になっている。流通事情の良い今の時代なら、海でも山でも変わらないかもしれないが気分の問題だった。修一は、ホルモンは普通に食べるのだが鶏皮の食感が好きだった。特に焼いた皮のパリパリ感が大好きなのだが今回は煮込み風で柔らかいタイプ。
串カツは、ウズラの卵や豚肉・レンコン・蒲鉾などの4本が付いていて豪華に見える。口に運ぶと揚げたてのサクッとした食感がとても美味しかった。
(こんなのが好きだから、いつも健診で中性脂肪が高いんだよな……)
と思いながら
(普段の酒席では、米類を口にしないようにしていますが焼きおにぎりは別物です)
日本酒は、ホテルのオリジナルブランドらしく銘柄の記載はなく辛口とだけ書いてある。元の酒造会社は分からなかったが、その冷酒の豊潤な甘みと香りがとても美味しかった。今日は、夕食代の領収書を切らずに自室に戻る。就寝前に窓の外を見ると、閑散とした新庄駅周辺とホームが見える。テレビで明日の天気予報だけを見て眠りについた。
朝5時半、目が覚めてホテルの窓辺から明るくなった新庄駅を見ると、始発の山形新幹線『つばさ』が出発準備で停車中なのが分かる。その光景は何とも言えない旅気分だった。もう空は明るく、朝食のバイキングの6時半が待ち遠しかった。時間になり1階の朝食会場に入ると朝一番なので人は少ない。殆どがビジネスマンらしく、朝9時頃までにチェックアウト出来れば良いからだろう。修一は、朝食のバイキングでは、和食系のご飯にすることが多い。和食の方が、品揃えが多いような気がするからだ。部屋に置いてある案内メニューには、30種類以上と書いてあったので期待しながら朝食会場に入った。
魚フライやメンチカツ・イカ・ホタテなどの揚げ物系、魚の焼き物や厚焼き玉子・オムレツ・シューマイ、野菜炒めやカレー、焼きそばまで有り、食べたい物を全てトレイのお皿に載せるのは不可能だった。悩みながらお皿に少しずつ取りながら種類を増やしたが、それでも皿一杯の山盛りになってしまう。諦めてご飯と味噌汁を付けて席に着いた。最初は足りなかったら取りに行けば良いと考えていたが、食べ終わるとお腹が一杯になっている。もう食べられないと残念に思う自分がいた。仕方なく、コーヒーとオレンジジュースを注いで、ゆっくりする事にした。最後の未練で、デザートを一品だけ持って来るとコーヒーと一緒に味わった。
チェックアウトは8時過ぎにする。フロントに部屋の鍵を戻したが、いつもと違う夕食代込みの領収書の記載をお願いする。
「チェックアウトお願いします。宿泊代と昨日の夕食代を合わせて領収書の記載をお願いします」
「はい、分かりました。合わせて11,800円になります」
「カードでお願いします。ここから、山形県警の本部に行きたいのですが、どのくらい時間がかかりますかね?」
「お急ぎでしたら、この時間帯なら有料道路で行けば1時間くらいで県警本部に着くとおもいますよ」
そんな返答が有ったので、有料道路利用のルート案内を利用することにした。
(最近は、都市部も地方もビジネスホテルの料金が極端に上がった様ですね……)
車が動き始めると、まずはコンビニを探すのが習性になっている。ホテルで飲んだコーヒーとは別な次元の飲み物で、営業に行く前の気分を引き締める実弾だと思っている。朝の通勤時間帯が外れていることもあり道路は空いていた。山形県警本部には、訪問予定の30分前には着いたので駐車場で時間まで待つことにする。アポの5分前に、受付のような所で今回の要件と担当者の名前を言うと行く先を案内してくれた。そこからは、担当者から山形県内の死因が分からないケースの対応事例や発声件数について説明があった。こちらからは、契約先での対応の現状について説明し、県警と契約先とでどのように協力できるのか情報交換をしていく事で話をまとめた。死因究明では、事件性が無ければ遺体の解剖までは難しいのが現状になっている。営業で、こんな内容の警察からの相談は初めてだった。
警察絡みの訪問も終わり、天童-寒河江-上山と契約先を南に下りながら終着の米沢市に向かう。今回の昼食は時間が無いので、コンビニで牛乳とハンバーガーを求め車の中で食べる事にした。米沢駅が夕方6時過ぎの新幹線に乗ろうとしているため、夕食も含めて先を急ぎたかったこともある。山形県など新幹線利用の営業の場合は、飛行機利用の様に夕食を摂ってから乗車したりする事は少ない。Tレンタカー米沢駅前店は駅から見える位にかなり近かった。店舗に車を戻すと足早に米沢駅に向かった。売店で『牛肉どまん中』という米沢牛の弁当と軽い摘まみ、ビールなどを買い込み乗車の準備をした。その当時の値段で、2,000円を超える程度の出張夕食代の上限金額になる。『つばさ』到着の案内があるとホームに足を進めた。午後6時20分前後に出発する山形新幹線つばさ192号に乗る。この列車は、通常運行ならば東京へは夜8時半前には着く予定だ。東京への戻りには調度良い列車だった。
米沢から『つばさ』が走り始まると、早速、米沢駅で仕入れた夕食を広げた。窓側の席を取ったのだが、空いていて隣の通路側に人が座る気配はない。車窓の景色を見ながらの晩酌も悪くないものだ。米沢駅から福島駅までの在来線通過時間は40分ほどだが、福島駅に着くと『やまびこ』と連結されて走るようになる。お酒を味わいながら感じるあの車両が繋がる時の接続音と感触が溜まらない。別に鉄道マニアではないが、一時的に接続される振動が旅の余韻を高めてくれた。
それからは『やまびこ』と『つばさ』東京まで一緒に走るのだが、残りの行程も引き続き夕食を兼ねた晩酌タイムになる。まだ、少しでも明るさが残っている時間帯は車窓からの旅情が味わえる。何故か東北や山形新幹線の場合は、東海道新幹線の時の様にアイスクリームを買うような気持ちは起こらない。『牛肉どまん中』や美味しい食材で満たされているからかもしれない。旅情を感じながら、『つばさ』は修一と日本酒、柿の種を乗せて東京に向かい走った。大宮駅まで着くといよいよ旅も終わりの気分となる。東京駅に着きホームに立つと、山形2日間の出張旅を終え満足感と癒しが全身を満たしてくれた。
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数年後、あつみ温泉の院長先生が肺がんで他界し、システムの解約をしたいと連絡があった。この時、山形営業の機会があれば訪問して手を合せたいと思ったが、既に他の医療法人となる予定で、全く以前とは関連が無い施設と職員になるという。修一は、連絡を受け亡き院長を想うとオフィスの机に涙が零れ落ちた。全ての営業人生で涙を滲ませたのは、これが最初で最後……この一度だけだった。
(先生はもう居ないけど、いつかプライベートで『あつみ温泉』を訪れてみたい)
あつみ温泉には仕事ではもう行けないのかと思いながら、懐かしい山形『あつみ温泉』の訪問を回想していた。
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