僕と彼女の口唇遊戯
「先輩」
唐突に、背後から名前を呼ばれた。日常の音にまぎれてしまいそうな、けれど僕にとっては、どんな雑踏の中でも聞き逃すことのない声――鶴沢の声だ。
「やあ鶴沢。相変わらず唐突だね。心臓に悪い」
僕はといえば、いつもの調子でそう言ってやった。いつもの調子で、だ。これ重要。僕は、基本、誰に対してもこんな感じだ。別に愛想を振りまいているわけじゃない、素だ。誤解しないでほしい。
振り返ると、そこには案の定、鶴沢が立っていた。小柄な身体を少しだけ傾けて、まるで子犬みたいに僕を見上げている。
まったく、可愛い後輩だよ。
「先輩、暇ですか」
「暇、と言えば暇だし、暇じゃない、と言えば暇じゃない。禅問答か」
「ふふっ」
鶴沢は楽しそうに笑う。その笑顔は、向日葵みたいに明るくて、僕の心を、こう、むず痒くさせる。
「ちょっとだけ、お話しませんか」
「話?」
「はい、もし、私たちが同じ学年、同じクラスだったら、っていうお話です」
……はて。
僕は首を傾げた。鶴沢の思考回路は、時々、僕の理解の範疇を超える。まあ、そこが面白いんだけど。
「つまり、パラレルワールドの話?」
「まあ、そんな感じです。先輩は、そういうの、信じますか?」
「信じるも何も」
「さすが先輩、話が早い」
鶴沢は、僕の言葉に満足げに頷いた。それから、ふと真剣な表情になって、僕の目を覗き込んだ。
「もし、私たちが同じクラスだったら、先輩は、わたしと仲良くしてくれますか?」
「それは……どうだろうね」
僕は、わざとらしく腕組みをした。鶴沢は、じっと僕の答えを待っている。
「鶴沢は、きっとクラスでも人気者だろうから、僕みたいな根暗な人間とは、話す機会もないんじゃないかな」
「そんなことありません」
鶴沢は、即座に否定した。その声は、少しだけ強張っていた。
「わたしは、先輩と話します。たくさん、たくさん、話します」
「……」
「授業中も、休み時間も、放課後も、ずっと、先輩の隣にいます」
「鶴沢」
僕は、思わず彼女の名前を呼んでいた。その声は、自分でも驚くほど、優しかった。
「そりゃあ、嬉しいけど、ちょっと重いかな」
「重い、ですか」
「うん、ちょっとね」
「……そうですか」
鶴沢は、少しだけ俯いた。その表情は、少しだけ悲しそうだった。
だけど、すぐに顔を上げて、いつもの笑顔に戻った。
「でも、それがわたしですから」
「……ああ、知ってる」
僕は、そう言って笑った。
鶴沢は、そういう奴だ。一度決めたら、絶対に曲げない。
それが、鶴沢鶴という人間だ。
「先輩」と、もう一度、名前を呼ばれた。
「今度はなんだい」
「その……もし、私たちが同じクラスで、席が隣同士だったら、先輩は、わたしに消しゴム、貸してくれますか?」
「消しゴムくらい、自分で持っておけよ」
僕はそう言って、だけど、心の中で、小さく笑った。
消しゴムを貸す。
そんな些細な、けれど、とても大切な日常。
それが、僕と鶴沢の、二人だけの、始まりになるかもしれない。
……なんて、考えなくもないけれど。
「先輩、もし、わたしがテストで赤点取っちゃったら、勉強教えてくれますか?」
「赤点取るような奴の勉強を見るほど、僕は暇じゃない」
「じゃあ、もし、わたしが朝寝坊したら、モーニングコールしてくれますか?」
「自分で起きろ」
「もし、わたしがお弁当忘れたら、先輩のパン、半分こしてくれますか?」
「……半分は多いな。3分の1だ」
次々と繰り出される鶴沢の“もしも”攻撃に、僕は、いちいち、もっともらしい、けれど少しだけ優しい言葉を返してやった。
まったく、世話の焼ける後輩だよ。
だけど、その“もしも”が、もし、現実になったら――
「先輩」
不意に、鶴沢が僕の袖を引いた。
「なん、」
言いかけた言葉は、しかし、最後まで紡がれることはなかった。
鶴沢が、僕の袖を引いたまま、ぐい、と顔を近づけてきたからだ。
その距離、ゼロセンチ。
触れ合う、吐息。
見つめ合う、瞳。
「……っ」
僕は、息を呑んだ。
鶴沢の瞳は、まるで宝石みたいにキラキラと輝いていて、僕の姿を、余すところなく映し出している。
まるで、僕が、この世界の全て、みたいに。
「……鶴沢?」
やっとのことで、名前を呼ぶ。
すると、鶴沢は、ふわり、と笑った。
その笑顔は、いつもの向日葵みたいな笑顔じゃなくて、もっと、こう、大人びた、蠱惑的な、笑顔だった。
「先輩、これは、“もしも”の話じゃ、ありません」
「え……?」
「これは、現実です」
そう言って、鶴沢は、僕の唇に、そっと、自分の唇を重ねかけて、
やめた。
「……なんて、冗談です」
唇を離した鶴沢は、悪戯っぽく笑った。
そして、僕の耳元で、囁いた。
「先輩、いつか、全部、“もしも”じゃなくして、みせますから」
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