観念エンカウンター

昼休み、屋上。

僕はいつものように、フェンスにもたれかかって文庫本を読んでいた。

視界の隅に、真っ白い上履きがちょこんと現れた。

見上げなくても分かる。この、ある種の侵略性すら感じる登場の仕方は、一人しかいない。


「先輩、今日こそ観念してください」


案の定、鶴沢鶴。

僕の一年後輩にして、良くも悪くも僕の日常をかき乱すトラブルメーカー。

いや、トラブルというよりは……なんだろう、天然記念物?

いや、それもしっくりこない。

まあ、とにかく、厄介な後輩だ。


「……何の、観念だよ」


僕は、読みかけのページにしおりを挟む。

どうせ、こうなってしまっては、もうハイネの苦悩に寄り添うことなんてできやしない。


「とぼけたって無駄です。わたし、知ってるんですから。先輩が、わたしのこと、本当は……」


鶴沢は、そこで言葉を切って、ふーっと、わざとらしく息を吐いた。

風に乗って、甘ったるいシャンプーの香りが、僕の鼻腔をダイレクトアタックしてくる。

勘弁してくれ。

心臓が、妙なビートを刻み始めるじゃないか。


「……本当は、どうなんだよ」


僕は、促す。

言いたいことがあるなら、さっさと言え。


「言いません。先輩の口から聞きたいんです」


鶴沢は、頑として口を開こうとしない。

全く、面倒くさいことを言う後輩だ。

まるで、言葉遊びの迷宮にでも誘い込もうとしているみたいじゃないか。


「言わねぇよ」


僕は、そう言って、再び文庫本を開こうとする。

まあ、開くだけで、読む気はもう失せているんだけど。


「そうですか。なら、力ずくで、言わせてみせます」


鶴沢は、そう言うや否や、僕の手から文庫本をひったくり、こともあろうに放り投げた。おいおい、マジかよ。


「おいっ!」


僕は、思わず叫ぶ。


「これで、邪魔者は消えました」


鶴沢は、満足げに笑う。

全てを見透かしたような、そんな笑顔だ。

そして僕の両肩に手を置き、ぐっと体重をかけてきた。

なんだ、この展開。


「……何するんだよ」


僕は、抵抗する。

だけど鶴沢は、見た目に反して、意外と力が強い。

というか、これ、完全に押し倒されるパターンじゃないか?


「先輩、わたし、今日、スカートの下に、スパッツ、履いてません」


鶴沢は、僕の耳元で、爆弾発言をかましてきた。


「……は?」


僕は、意味が分からず、オウム返しする。

いや、意味は分かる。

分かるけど、分からない。


「つまり、先輩が、わたしを押し倒したら、どうなるか、分かりますよね?」


鶴沢はさらに、耳元で、囁く。

その声は、甘く、熱く、そしてどこか、挑戦的だった。

おいおい、これは、洒落にならないぞ。


「……っ!」


僕は思わず、息を呑む。

背筋に、冷たい汗が伝うのを感じた。

これは、どう考えても、まずい状況だ。


「さぁ、先輩。どうしますか?」


鶴沢は、僕の顔を覗き込み、にやりと笑う。

その笑顔は、小悪魔。

いや、それ以上に、何かこう、底知れないものを秘めているように見えた。


「……お前、本気で言ってんのか?」


僕は、震える声で、尋ねる。

頼む、冗談だと言ってくれ。


「本気です。わたしは、いつだって、本気です」


鶴沢は真剣な眼差しで、僕を見つめる。

その瞳はまるでブラックホールのように、僕の思考を吸い込んでいくようだ。


「もし俺が、本当に、お前を押し倒したら、どうするんだよ」


僕は、覚悟を決めて、尋ねる。

もう、後戻りはできない。


「その時は、その時です」


鶴沢は、そう言って、目を閉じた。

その表情はまるで、全てを神に委ねる殉教者のようだった。


僕は、鶴沢の顔を見つめる。

長い睫毛。

形の良い鼻。

そして、薄く開かれた、唇。


僕は、無意識のうちに、鶴沢の唇に、自分の唇を近づけていた。

あと、数センチ。

いや、数ミリ。

まさにその時、


「……なんて、冗談ですよ」


鶴沢はそう言って、パッと、僕から離れたのだ。


「……は?」


僕は、完全に拍子抜けした。

え?

冗談?

今までの、

この、

心臓バクバクの展開は、


全部、冗談だったのか?


「先輩、真っ赤になってる。可愛い」


鶴沢は、クスクスと笑う。

おい、笑い事じゃないぞ。

こっちは、人生最大の決断を下そうとしていたんだからな。


「お前、ふざけんなよ!」


僕は思わず、声を荒げる。

だけどその声は、どこか、震えていた。


「ふざけてません。わたしはただ、先輩の本心を、知りたかっただけです」


鶴沢は真面目な表情で、そう言った。


本心?

僕の?


「……本心って」


僕は、言葉に詰まる。

そんなもの、自分でもよく分からない。


「先輩、わたし、もう時間です。行かなきゃ」


鶴沢はそう言って、僕に背を向けた。

え、

もう行くのか?


「……どこに行くんだよ」


僕は思わず、尋ねる。

別に、聞く必要なんてないのに。


「秘密です」


鶴沢はそう言って、振り返らずに屋上を後にした。

なんだ、その、思わせぶりな態度は。


僕は、一人、屋上に残された。

風が僕の髪を、そして僕の心をもてあそぶように、吹き抜けていく。

僕は、フェンスの向こうに目をやった。


そこには僕が落とした。いや、鶴沢が投げ捨てた文庫本が、地面に落ちていた。


僕は、その文庫本を拾い上げ、パラパラと、ページをめくる。

そして、あるページで、手が止まった。

そこには、こう書かれていた。


『―――恋とは、すなわち、狂気である』


僕は、その言葉を、何度も何度も、心の中で繰り返した。

まるで、呪文のように。

そして、小さく、呟いた。


「……ったく、本当に、面倒くさい後輩だよ」


だけど、その口元は、なぜか、ほんの少しだけ、笑っていた。

認めたくはないけれど、どうやら僕は、あの、とんでもない後輩に、まんまと一杯食わされたらしい。


さて、これから、どうしたものか。

僕は、ため息をつきながら、再び、文庫本のページをめくり始めた。

だけどもう、ハイネの苦悩は、僕の心には届かなかった。


僕の頭の中は、鶴沢鶴という名の、甘く、危険な、そして、とてつもなく魅力的な、嵐のような後輩のことで、いっぱいだった。


まったく、恋とは本当に、狂気以外の何物でもない。

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