第5話 荒野で燃ゆる《龍の瞳》 ― 父の騎乗試練と片目の覚悟

 夜明け前の空には、まだ淡い紫の影がただよっている。


 俺は胸の奥で高まる鼓動を抑えつつ、長い回廊を一気に抜けた。


 右目を失ってからというもの、久しく遠ざかっていた馬術の稽古を、父が直々に見てくれるという。


 真っ暗だった行く先が、少しだけ光を帯びるような気がしてならない。


 背後から控えめな声が響く。


「シヴィカ様、テルミス様が騎乗訓練場でお待ちです」


 ベルが知らせに来たのだ。いつもはどこか飄々ひょうひょうとした彼も、今日はやけに神妙な面持ちをしている。


 俺は思わず唾を飲みこみ、足を速めた。


 片目を失った自分が、どこまでできるのか。怖さ半分だが、挑戦しなければ始まらない。


 外は朝焼けの薄紅色に染まりかけている。


 訓練場には父の近衛騎士が並び、馬を準備していた。父――テルミス・ナデアは馬上のまま鋭い視線を向けてくる。


 これこそが、かつて戦場を無数に駆け抜けた当主の姿。


 家庭で見せる温かみなど一切ない、厳格そのものだ。


「シヴィカ、今日からお前を荒野へ連れ出す。右目を失ったことを言い訳にしない覚悟があるならついてこい」


 容赦のない言葉。


 その奥に俺への期待が確かにある。俺は背筋を伸ばし、強い声で答えた。


「はい、父上。たとえ片目でも、まだ戦えます」


 すると父は近衛騎士に合図し、一頭の栗毛馬が俺の前へ引かれる。


 鞍にまたがると、見えない死角にひやりとするが、ここで臆したら何も変わらない。


 手綱を握ると、俺はぐっと息を整えた。


      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 あわただしく装備を整えた一行は、イルドラ城の門を出て荒野へと進む。


 足場の悪い岩場や倒木が目立ち、右側の距離感が掴めない俺には想像以上に恐ろしい場所だ。


 だが、この荒涼たる地で鍛えることが、父の言う「近道などない」方法なのだろう。


「シヴィカ様、右に倒木があります!」


 並走するゼフィリオの声がなければ、危うく落馬していたかもしれない。


 情けなさと安堵が入り混じる中、先頭の父が手を挙げて部隊を止めた。


「獣の足跡だ。追い込み猟の要領で狩るぞ。シヴィカ、馬上での弓術を試せ」


 胸が波打った。右目を失ってから、真っ当に弓を放ったことがない。


 だが、ここで踏みとどまっては一生変われない。


 腰の弓を握り、父の言葉にうなずいた。


 騎士たちが散開して追い立てると、茂みからイノシシが飛び出す。


 思いきり矢を放つが、狙いは外れて空を切った。


 何度狙っても、的の位置が曖昧あいまいに感じられ、まともに当たらない。


 周囲では次々と獲物を仕留める声が上がる中、俺は一匹も仕留められぬまま悔しさをかみしめる。


「……シヴィカ、片目を理由にするな。狙いが定まらぬなら別の策を使え。仲間や馬の動きを頼りにするんだ」


 父の言葉は厳しく突き放すようだが、そこには見限る冷たさはない。


 それがわかるからこそ、俺は悔しくてたまらない。


 結局、その日の狩りは惨敗だった。


 火照る顔を伏せてみなが休息する中、父が馬を下りて俺の横に立つ。


「痛感しただろう。右目の死角を、そのままにしていては何も得られない。お前はもう子どもではない。策を練れ、そして使いこなせ」


「……はい」


 小さく答えると、左目の奥がじわりと熱を持った。


 失った右目を責めても仕方ない。泣き言を言っても現実は変わらない。


 ならば、残った左目とこの身体をどう動かすか――それこそが、俺の生きる道だ。


      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 狩りの後、一同は荒野の一角に野営を張る。


 冷たい風が肌を刺し、俺はかがり火の前で薄い毛布にくるまっていた。


 父が兵と話す声が聞こえ、ゼフィリオが薪をくべてくれる。


「シヴィカ様、あまり自分を追い詰めないでください。テルミス様の厳しさは、失った右目とは関係なくシヴィカ様を信じてるからこそですよ」


「わかってる。ありがとう、ゼフィリオ」


 火を見つめながら、俺は昔から抱いていた夢を思い出す。


 父のように堂々と馬を駆り、戦場を制する将軍になる。


 その道を絶たれたと感じていたが、父はまだ見捨てていない。だからこそ、ここで牙を折れない。


 夜明け前には再び馬を駆り、再度の追い込み猟に挑む。


 今度は、ゼフィリオに小声で合図を頼むと同時に、馬のリズムや風の向きにも集中する。


 見えない部分を補うべく、意識を研ぎ澄ませるのだ。


「シヴィカ様、正面やや右! 距離約10メートルほど!」


 ゼフィリオの声に合わせて弓を引くと、今回の矢はかろうじてイノシシの体を射止めた。


 昨日とはまるで違う反応に、思わず胸が高鳴る。


「よし……!」


 獲物が倒れるのを確認したとき、父が遠くからこちらを振り返った。


 鋭い目の奥にかすかな光が見えた気がする。


 さらに別の獲物も狙うが、完璧とはいかず外すことも多い。


 それでも、昨日より確実に何かが変わっていた。


 昼前、父は馬の速度を落として振り返り、俺に声をかける。


「昨日より動きがいいな。馬の揺れと仲間の報告を繋ぎ合わせて距離を測る、それでこそ活路が生まれる」


「ありがとうございます、父上。片目でも策を練ればやれると、少し自信が出てきました」


「甘えるな。だが……その意欲は買おう」


 ぼそりと言う父の一言が、胸に染み渡る。


「シヴィカ様、やりましたね」


 周囲の騎士も笑ってくれていて、冷たかった荒野の空気が少しだけ和らいだ。


      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 荒野を抜け、イルドラ城が見えてきたとき、父は馬を横に並べて言葉を落とす。


「シヴィカ、まだお前の道は始まったばかりだ。今後、弓や馬の稽古はさらに厳しくするが構わんな?」


「はい。ぜひお願いします」


 そう答えると、父は小さくうなずいた。


 その横顔は厳しくとも、どこか俺を認めてくれているようにも見える。


 紛れもなく、この荒野での訓練は俺に新たな覚悟を芽生えさせてくれた。


 城門に近づくと、侍女や兵士たちが出迎えてくれる。


 皆、荒野から戻った俺たちを見て安堵の色を浮かべていた。


 馬を降りると、全身が重く疲れているはずなのに、不思議と心は晴れやかだ。


「それから、《成人の儀》が近いな。礼法もおろそかにするなよ」


 父がさらりと言及する。


 片目のまま式に臨むことに不安がなかったわけではない。


 しかし、荒野を駆け抜けた成果が自分の中に小さく燃えていた。


「はい。……たとえ右目を失っていても、龍の瞳があるかぎり、僕は僕のやり方で前に進みます」


 父はそれ以上言葉を添えない。


 すべてを語る代わりに、厳然たるまなざしで俺を押し上げる――そんな気がした。


 このままでは終われない。


 《成人の儀》に向けた礼法の稽古、そして馬術や弓の更なる鍛錬。


 俺がナデア家の名に恥じぬ強さを得るためには、まだ多くの試練があるだろう。だが、その試練をこそ俺は求めている。


(右目の喪失も、荒野の恐怖も、悔しささえも糧に変えてみせる――)


 城内へ足を踏み入れたとき、左目の奥がかすかにうずき、まるで金色の光が閃いたような気がした。


 これは呪いではなく、俺を前へ進ませる力だと信じたい。


 風に吹かれた馬のたてがみがぱさりと揺れ、父が馬具を外すよう騎士たちに指示を飛ばす。


 俺もその背を追いかけて歩き出した。


 《成人の儀》の先に、きっと俺の真価を問う運命が待ち受けている。


 けれど、もう迷いはしない。


 父の厳しさと仲間の支え、そして自分の中に眠るこの《龍の瞳》の力を味方につけて、誰にも負けない未来を切り拓く。


 そう胸に誓いながら、俺は深く息をついた。


 荒野で生まれた痛みも恥も、すべては今日の糧だ。


 右目がなくても、俺は戦い続ける。


 父の背すら追い越す意志を抱えて――そして、成人の儀へと一歩を踏み出す。


 ここが俺にとっての本当の始まりだ。

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