第36話 本家からの指示
「熱、下がったんちゃう? 頭とか、もう痛くないやろ? 腫れはこれ、抗生物質のこともあるから明日になるかなぁ、腫れがひくの」
「……え?」
「言われてみれば、雪山さん」
護が額に手を当ててくれた。彼の手は大きく、摩利の額どころか目のあたりまですっぽり覆いかぶさりそうだ。しかも温かい。
(……ん? 温かさを感じる、ということは)
こちらの熱のほうが低いということだ。しかもあれほど悩まされていた頭痛と足の疼痛が消えた。
「……高熱、というほどではなさそうですよ、雪山さん。効いたんですかね」
「いやそれはさっきの解熱鎮痛剤が効いたんですよ!」
慌てて摩利は否定する。
時間的にはぴったりだ。
「でもあれやな。返しは成功したものの」
雄太はテーブルの端に腰かけ、人型の紙片を指でつまんだ。外見上はまったく変化がない。
「くちなわはどこにあるんかわからんし」
「え? いまので退治できたんじゃないんですか?」
上半身を起こしたままの摩利の肩に、護はショールをかけてくれた。彼が入院セットとして持参してくれたらしい。
「祓いはできたで? だけど俺が本家から引き受けた仕事は『憑き物』の回収やねん」
雄太はテーブルに腰かけたまま肩をすくめた。
「あのさ。ルイさんって壺とか箱を大事に持ってへんかった? あるいは
「壺……」
摩利と護は顔を見合わせた。
「壺を、最期まで。あの、なにか飲み物を買ってきます。落地さんに聞いてほしい話があるんですが」
代表する形で護が言うと、雄太は人懐っこく笑った。
「ええで。ってかさ。このゼリーとか食べてえん?」
「あ……、えっと」
口ごもるところを見ると、摩利に遠慮をしているのだろう。摩利は雄太にぐいと手を伸ばした。
「それは私へのお見舞いなの。ゼリーを一つ頂戴」
「どっち?」
カップを二つ持って雄太が尋ねる。
「青いほう。桃色のほうはあなたがどうぞ。護さん、それでもいいですか?」
味は同じなのだが、中に入っている寒天やフルーツが違うのだ。
「スプーンは使い捨てのものを持ってきてますから、ええ。落地さん、それです。あ、ごみ箱はここ」
甲斐甲斐しく動く護に対して、雄太はほとんどなにもしない。摩利の手にスプーンとゼリーカップを渡したぐらいだ。
「ちょっと。椅子に座ったら?」
またテーブルに腰かけようとする雄太を注意すると、歯でスプーンの包装を破りながら雄太が言う。
「だって椅子は中島さんが座るやろ?」
「護さんはベッドの端に座ってもらうわよ。それでいいですか?」
「雪山さんが構わないなら。えっと、お茶でいい?」
護が尋ねると、雄太は幼児のように首を縦に振ってゼリーカップの蓋を開けた。
「いただきまーす」
あいさつはできるのか、と冷ややかに見ている間に、ゼリーを食べてしまった。
食べるというより、カップに口をつけて飲んだ。
カフェに来る女の子たちはこのゼリーのそばにアクスタを立たせ、何度も写真を撮り直し、それからようやく味わいながら食べるというのに、この男は飲んだ。
「これもええ? 琥珀糖? 俺、めっちゃ好きー」
味わうということができないくせに琥珀糖は知っているのか。なんかもういろいろあきれていたら、護がペットボトルを抱えて戻ってきた。
「あ、もう食べ終わった⁉」
「うん。これ食べてええ?」
「あ、はい……。あ、よかった。雪山さんには間に合った。あの、どれがいいですか?」
三本だけ購入してきたのかと思ったのに、やたら種類豊富にそろえている。
「じゃあ、水を」
「ではこれを。落地君はお茶だったね」
「あざっす!」
嬉し気にペットボトルを受け取り、これまた一息にほぼ飲み切る。もうオロチではなくうわばみだ。
「朝3時に家を出て船乗ったり、高速バス乗ったりしてここまで来たんやけど、ほぼ飲まず食わずでさ。なんかこうタイミングがいいのかわるいのか、連結がめっちゃうまくいったから休む暇なくて」
「そうなんだ。あ、もう一本好きなのどうぞ」
「ありがとう!」
遠慮なく手を伸ばす雄太と、それをにこにこ眺めている護。
護は末っ子なのだがどうにも末っ子感がない。
いまも年の離れた弟を可愛がっているようにも見える。
「護さん。ここ座ってくださいね」
摩利が足をずらしてベッドわきのスペースを示す。
そのときも足は無理なく稼働した。いままでは皮膚全体がつっぱり、関節が曲がりにくく痛みが断続的にあったのだが。
「じゃあ、お邪魔して……」
雄太が琥珀糖とスポドリを持ってパイプ椅子に腰かけたのを見計らい、護は口を開いた。
「発端はたぶん、ぼくの元婚約者が持ってきた絵画だと思うんだよ」
「もと、婚約者。中島さんの」
ちょっと意外そうに目を見開いた。わかる、と摩利も内心うなずく。
この人にそんな言葉が似合わない、というか。
独身か。あるいはしっかりもののお嫁さんがいそうな感じなのだから。
「ふん。ほんで?」
騙されたんか、とはさすがに言わなかったが、雄太の顔にはそう書いてあった。
「雪山さんのお友達が言うには大変縁起の悪いモチーフでいっぱいだったそうで」
護はかいつまんでそれがどのような絵かを説明した。
「ぼくとしては処分したかったんですが、新築祝いと言われたこともあり、雪山さんが気を遣ってくださって……。雪山さんの居住区に飾ったんだけど、デイサービスから帰ってきた母が不穏になったんです。『すそが入り込んでいる』って箒で家中を掃除しはじめて」
「ふんふん」
「そんな子どもだましに負けるものか、みたいなことも言ってましたよね」
摩利が補足する。護は頷いた。
「その日、元婚約者が亡くなりまして……。そしたら母が落ち着きを取り戻して」
「ははーん。ほんで?」
二本目のペットボトルの封を切り、がぶがぶと流し込む。ついでに琥珀糖の入った袋の口を開けて、もぐもぐと咀嚼した。なんとなくソファに座ってドラマを楽しむ風情だ。
「そのあと、デイサービス職員さんが冗談で雪山さんのことを『おしかけ女房になるつもりだ』と言ったところ、癇に障ったのかデイサービスを飛び出して……」
護は眉根を寄せる。
「歩道橋から転落して骨折や裂傷を負ったんですが、そのまま自宅に戻って壺を抱えてなくなりました」
「それデイサービス大問題やん。訴訟すんの?」
目を丸くする雄太に、護は力なく首を横に振った。
「兄も同じようなことを言っていますが……。施設側は加入している事業保険で対応します、と。いまのところ真摯な対応をしてくださっていますし、茨木さんもだいぶん精神的に参っているようですので」
それはそうだろうと摩利は思う。
だが。
個人的感情や考えを利用者に吹き込むなど言語道断だ。
福祉業界はきつい。
理想や気持ちだけでは仕事ができない。目の前には次々と「現実」と「課題」が現れて対応を迫られる。
無理だと思ったら潔く辞める決断ができなければ、こうやって利用者に害を及ぼしてしまう。
「で、母のことなんですが。まず、すそというのは……」
「呪詛のことや。うちではすそって言う」
雄太は空になったペットボトルを手でこまねきながら言う。
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