3章 くちなわ

ちはやぶる神代も聞かず立田川からくれなゐに水くくるとは

第30話 時系列

□□□□


 その2時間後。

 護と摩利は千谷川警察署内の会議室にいた。


「いやあ、どうもこう。やはりご縁がありますなぁ」


 いたって無個性の長机を挟み、生田と藤井がいる。

 生田はにこにことしているが、藤井はどことなくぎこちない。

 生田は護と摩利の真向かいに座っているが、藤井は完全に机の端っこだ。


「あ、どうぞ。冷めないうちに」


 さっき制服警官が置いて行ってくれたカップコーヒーを生田は勧めてくれた。


 生田の前には茶渋の残るマグカップがあり、個人のものだと知れる。藤井のほうをちらりと見たら、彼はなにも飲まないらしい。彼の前には大学ノートがあり、ペンを持っていた。


「今日はスマホじゃないんですね」


 余計な気遣いかもしれないが、なんだかびくびくしている彼を少しでも和ませようと思って、摩利が声をかけると、藤井は泣き出しそうな顔になった。


「あのときのメモを清書しようとしたらスマホが壊れて……」

「だから電子機器はやめろって言ったのに。タブレットも壊れたんだしさ。昔ながらのメモ。これにまさるもんはねぇんだよ」


 生田があきれたように言っている。やはりあのSDを再生したタブレットはあのあと故障したようだ。


「で。まあ、ご遺体の方ですが」


 生田は咳ばらいをした。

 摩利は隣に座る護をそっと見上げる。

 彼はカップを両手で包み込み、その漆黒の液体を凝視していた。


「司法解剖を待って、とのことになりますので。数日こちらでお預かりすることになります。できるだけすみやかにご帰宅させていただくよう、我々も努力いたしますので」


 ルイの、遺体のことだ。


「わかりました。よろしくお願いいたします」


 護が頭を下げる。声にも肩にも疲れがにじんでいる。

 本人も気づいているのだろう。そのあと、ブラックコーヒーを一気に喉に流し込んだ。


「それでこう……あれですよ。いま、いろんな人に事情聴取をしておりましてですね。わかったことについては時系列を追って順に説明させていただきたいですし、こちらも確認をしたいのです」


 生田はスーツのポケットから手のひらサイズのメモを取り出した。ついでに胸ポケットに差し込んでいた眼鏡も取り出し、かける。


 かさかさと音がしたと思ったら、藤井が新しいページを開いて一言一句書きとめる姿勢を見せていた。


「デイサービスで昼食が済み、食器を下げたときのこと。これがだいたい13:05から15分ごろだったといいます。介護職員の茨木さんが、ルイさんのおかず……えーっとひじきとおからの煮物ですね。これを残していたことに気づき、『おいしくなかったですか?』と尋ねたそうです」


「おから……」

 摩利はつぶやく。


 一度差し入れしてからというもの、ルイにねだられて何度か作ったことがある。

 なぜ残したのだ。


「ルイさん、好きでしたものね。喉の調子が悪かったんでしょうか。誤嚥を気にした、とか」


 ああいった系のおかずはとろみをもたせないと喉にひっかかり、しつこい咳を生む。結果的に誤嚥性肺炎になりかねないので、茨木は調子を確認するためにも問うたのだろう。


「そしたら、ルイさんは『書生が作るほうがおいしい』と言ったそうです。茨木さんと生活相談員さんに確認したら、この書生というのは雪山さんのことらしいですね?」


 生田に確認をされたが。

 摩利は返答できずにぽかんと口を開いたまま動けなかった。


『書生が作るほうがおいしい』


 急に目から涙がこぼれてきた。

 頬を伝い、顎を伝って落ち、拳を濡らしたことに気づいてようやく摩利は涙を止めようとしたのだが。


 口からもれたのは低い嗚咽で。

 涙は結局とめどなく頬を濡らした。


(ルイさん、私にはいつも辛口評価だったのに)


 ねだられて作るものの『あなたの料理は味が安定しないわね』と憎まれ口を叩かれた。

『料理は一期一会ですから』と応じていたが、護にいつも盛大に叱られていた。


「ああ、こりゃいかん。おい、藤井」

「ティッシュ。あの、これ、どうぞ」


 生田に促されて藤井がポケットティッシュを差し出したが、いったいもう何か月前に封をきったのだという感じのくたびれ感だった。


「藤井……」

「いや、これほら。数枚引き抜いたらきれいですから!」

「あの、雪山さん。これよかったら」


 護がそっとタオル生地のハンカチを膝の上に置いてくれた。


「あ、ありがとうございます」


 ぐず、と洟をすすり、摩利はそれを受け取って目頭に当てた。

 背中が不意に温かくなる。

 顔を起こすと、護が無言で撫でていてくれた。


「そのー……こりゃ、ちょっと踏み込んだことをお伺いするんですが」


 生田がマグカップのコーヒーをずずっと啜り、少しだけ前かがみになって摩利と護を交互に見た。


「おふたりは交際されている? 男女の仲、とか」

 今度は別の意味で絶句した。


「それは雪山さんに失礼でしょう、生田さん」 

 護が硬い声で否定した。


「雪山さんは母の介護をぼくがお願いしているんです。カフェについても見兼ねて手伝ってくださっているだけです」

「その……。護さんのおっしゃる通りで」


 摩利はなぜ中島和菓子店の住居スペースに住むようになったかの経緯をかいつまんで説明した。


「退職の経緯とか、役場の総務課に問い合わせていただいても構いませんよ。なんなら地域包括支援センターの課長とか」


 課長の『あいつなんかしたんですか』という下卑た笑いを想像して摩利はハンカチを握りしめた。


「ついでにパワハラとかについても相談したいぐらいですけど」

「ぼくの方も、あの里奈さん。……畳屋さんの若嫁さんですが、カフェの方を手伝ってもらっています。ぼくたちの様子を一番身近でみているので。尋ねてもらえば誤解だとわかると思いますが」


「いやいや。そこまでは大丈夫です。こりゃ失礼しました。ですが、ですね。このことが非常に重要でして」

「重要?」


 護が眉根を寄せた。


「ええ。というのもですね、おからを残したことを聞いた茨木さんが言ったそうなんですよ。ルイさんに」


 生田は眼鏡の位置を確認し、自分のメモ帳に視線を落とす。


「『一緒に住んでいるだけじゃなくて、ごはんまで作っているんですか。そのうち護さんのお嫁さんになったりして』と発言したそうなんです」

「……は?」


 摩利の口から失笑が漏れた。


「またあの人は……」

「生活相談員さんがおっしゃるには、この茨木さん、あなたにやけに攻撃的であったとか」


「……前職の関係で。その……現場の意見を取り入れてプランや提言をしているのですが、現場は現場の意見がありますから。そんなこともあってあまりいい印象はもたれていないという自覚はありました」


「そうなんですか⁉ そういう場合はぼくに言ってください、抗議しますから!」


 憤然と護は言うが、そんなことをしたらまた茨木が嫌味を言いそうだったし。

 なにより自分がどうこう言われることは聞き流せた。

 まさかそれがなんらかの実害を生むとは。


「『おしかけ女房かもしれませんよ、雪山さんって』と茨木さんが言うと、ルイさんは『そうなの? あれは書生じゃないの?』と言い出したそうです。それが非常にしつこく、茨木さんはそこで初めて」


 と思ったのだろう。


「茨木さんだけではなく、ほかの職員も『冗談ですよ、中島さん。茨木の冗談』となんとかなだめすかしたらしいのですが、『そうか。のか』と言ったっきり今度はむっつりと押し黙って椅子に座り込んでしまったそうで……」


 ぱらり、と。生田がメモ帳をめくる。


「14:00ごろ、デイサービスではいつもレクリエーションの準備を行うそうですね。担当職員はその準備に行き、ほかの職員はレクリエーションの前のトイレ誘導に入った。そして茨木さんはやはりルイさんの異変が気になり、生活相談員に相談すべく事務スペースに行った」


「その間に……母は、デイサービスを出てしまったんですか」


 護が誰にともなくつぶやく。

 時間的にはそうだろう。


「ルイさん不在に気づいたのはその10分後。生活相談員はすぐに警察に通報。これが通報履歴として残っています。14:12分ですね。そのあと」

「うちに……店に電話がありました」


「そうです。そのあとおふたりはどうされました?」

 生田が問う。護が答えた。


「雪山さんに相談すると、『足が悪いからバスを使うかも』ということで、ぼくはバス停へ。雪山さんはデイの送迎ルートを逆に辿って、どこかでデイサービス職員さんに会えば情報をとってくる、と」


 護の声に藤井がメモを取る音が重なる。


「バス停に向かっているぼくに、里奈さんから連絡が入りました。母は歩道橋から落ちて怪我をしている。救急車を待っているからそちらに移動してくれ、と」


「畳店さんのご主人にも確認を取りました。14:20前後に通行人が飛び込んできて『歩道橋の下で怪我をしている高齢者がいる。救急に連絡をしたのだけど、正確な住所を、と言われた。ここは何番地ですか』と。そこで畳店のご主人は番地と屋号を伝え、自分もタオルを持って歩道橋に向かうと、血まみれのルイさんが倒れていて仰天し、中島和菓子店で働いている嫁に連絡をした、と」


「やはり母はタクシーを使ったんですか? 移転前の店舗に?」


「そのようです。タクシーからも裏がとれました。『自分は言われた番地に届けたのだが、おばあちゃんはだいぶん困った顔をしていた。そのおばあちゃんから歩道橋はどこだと尋ねられたから教えると、ほっとしたように代金を支払って下車した』とのことです」


 そして混乱したまま中島和菓子店をみつけ、足を踏み外して歩道橋から落ちたのだ。


「救急の通報も確認ができました。このとき管轄区の救急車がすべて出払っていたため、近隣区から至急回す。そのためできる限りの救命措置をとってほしいと伝えた、この内容が通報者と畳店のご主人の意見と合致します」


「私にも同様の連絡が来ました」


 ぽつりと摩利が言う。生田はにこりと笑った。


「素晴らしい。正確な伝言が続くのはいいことだ。で、畳店のご主人は持ってきたタオルで止血をしようとしたら」


 生田は摩利と護をゆっくりと見た。


「ルイさんはいきなり起き上がったんだそうです。むくり、と」

「起き……上がった」


 摩利が繰り返す。生田は頷いた。


「額の裂傷からは相当な血が流れ、骨のようなものも見えていたとか。左足首はこの時から少し様子がおかしかったそうです。なので畳店のご主人と通報者はルイさんに『動いてはいけない』と押しとどめようとしたのですが……」


 生田はメモに視線を落とした。


「ここからは聞き取ったことをそのまま読み上げます。『獣のような咆哮を上げ、歯をむき出して噛みつこうとするから近づけなかった。そのすきにすごい勢いで中島和菓子店のほうに走って行った』とのことです」


 抑揚なく話す生田。

 これは自分の発言ではなく、聴取の結果だと言い聞かせているようだった。


「そのあと中島和菓子店にルイさんは駆け込むのですが、畳店のお嫁さんである里奈さんが言うには『妖怪かなにかが飛び込んできたのかと思った』と。『とにかく怖くて摩利さんに電話した』。そうですね?」


「はい。それですぐに私が戻ったら、里奈さんが椅子の上に立って天井を指さし、『大奥さんが二階にいる』というので、私が確認しに行きました。本当はふたり一緒がよかったのでしょうが、里奈さんが」


 おびえてと護の前で言うのがいいのかどうか、摩利はためらう。


 ルイは非常に品の良い女性だった。

 和服を好み、髪がたに気を遣い、杖歩行をしていたとしても凛とした女性だった。


 そのルイが。

『獣のように咆哮』『歯を剥いて』『妖怪かと思った』。


 そんな風に言われ続けて護が傷ついていないはずがない。


「ええ、里奈さんからは『ほんとうは私も行かなきゃと思ったけど、怖くて。そしたら摩利さんがスト……なんとかが入るように机と椅子を動かしてと言われたので、悪いけどほっとしたんです』とおっしゃってます」


 助け舟を出すように生田が補足した。


「雪山さんは、透明性をぼくに示すために、LINE通話の……ビデオ通話で連絡をくださいました」


 護がかすれた声で続けた。さらさらとノートにボールペンが走る音が重なる。


「そこには血だらけで横たわる母がいて……。雪山さんは仰向けにして心肺蘇生を行おうとしていたのですが。母が壺を抱いていたので」

「ああ、あの壺」


 生田が相槌を入れる。


「雪山さんは壺を外そうとしたのですが、母が強く抱きすぎていて。壺を引っ張ったら母の上半身まで持ち上がってしまって。それで一度力を緩めて。母の背中が床についた途端」


 摩利の鼓膜に虎落笛のような呼吸音がよみがえる。

 摩利は耳をふさぎそうになって身体をこわばらせる。隣では護が首を横に振ってその時の音を振り払っているように見えた。


「なにがあったんですか?」

 生田が静かに問う。摩利が護の代わりに答えた。


「死後、肺にたまった空気が抜けて喉から出ることがあるです。ひとによってはげっぷのような音が出たり、深呼吸しているかのようにゆっくりと息をもらすこともあります。ルイさんの場合は……その、悲鳴のようにも聞こえて」


「ああ、なるほど」

 生田は若干興味がそがれた顔した。


「そのあと、救急隊員が現着しましたが、もう救命不可能ということで」

 摩利がちらりと生田を見る。生田は頷いた。


「我々がお邪魔した、ということですな。なるほど」


 ぱたり、とメモ帳を閉じた。藤井に視線を向けると、彼はサムズアップをしてみせる。


「ほかの方から聴取した内容と合致いたしますな。まあ……過失と言う点でいうならばこれはデイサービスの過失になると思われますので。そのことに関しては両者で話し合っていただくか、訴訟していただくことになります」


 護は黙っている。

 確かにそうなる事案ではある。

 事案ではあるが……。

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