第27話 翼の母親

「もしもし、ご無沙汰をしております」

「護さん? こちらこそご無沙汰です」


 護が手に持つスマホから音声が流れだしてびっくりした。スピーカーにしているらしい。


(これは……聞いちゃまずいやつ、だよね?)


 スピーカーにしたのか、してしまったのか。判断がつきかねないが、摩利は護に目くばせをし、出入り口を指さした。


「帰りますね」


 小声でそう言った途端、護に手首をつかまれてぎょっとする。護はぶんぶんと首を横に振り、摩利と同じぐらい小声で訴えた。


「ここにいてください」

「……は、あ」


 仕方なく首を縦に振ると、ほっとしたように護が手を離して顔からこわばりを解いた。


「あの、いきなり電話して申し訳なかったわね。電話番号、変わってなくてよかったわ」


 その間も、翼の母である鈴原は話し続けていた。


「ひょっとしたらだけど、そちらに生田さんと藤井さんという警察官が行くかもしれないから、と思って」

「ああ、それでしたらさっき」


「そう。連絡が遅れて申し訳なかったわね」

「いえ、あの。こちらこそ。このたびはなんといえばいいのか……」


 護が語尾を濁す。

 摩利も前職の時に利用者が亡くなり、何度かこういったやり取りをしたのを思い出す。


 本当に「なんといえばいいか」わからない。

 その別れが急であれば急であるほど、言葉を失う。


 人が死ぬ。

 高齢者であれば。そして病人であれば家族も知人も覚悟ができる。その間に心の準備ができる。お悔やみの言葉だってひょっとしたら用意しているかもしれない。


 だが事故や突然死は別だ。

 昨日まで普通に生きていた人がいきなりこの地球上から消えるのだ。


 言葉がない。

 本当にそうだ。


「本当に。私たちもまだなにがなんだか……。まだあの子は家に戻ってきていないの。明後日ぐらいだとか。そこから通夜の準備とか葬式の準備もまだあって」


 淡々と語る鈴原の声はどこかまだ娘の死を受け入れていないようで、それが更に摩利の心を絞めた。


「それでね、こうやってまたあなたにお電話させてもらったのは、お願いがあってのことなの」


 鈴原の声はかさついていて茫洋としている。

 だからだろうか。なんとなく摩利も護も身構えた。


 言っては何だが、もう別れた婚約者だ。護に何の要求があって電話してきたというのか。


「そちらに翼の作品って残っていないかしら」

「……作品?」


 どこか拍子抜けしたように護が問う。


「ほら。あの子、油絵を描いていたでしょう? いま第一候補にしている会館に、そういうものを飾るスペースがあるんですって。個展はのちのち開催しようとは思っているけど。今回は無料でみんなに見ていただこうかな、って思って。翼の作品を整理しているの」


 護は沈痛そうな顔で黙って聞いている。

 摩利もだんだんいたたまれなくなってきた。


 この母親はまだ娘の死が受け入れられないのではないだろうか。


 確かに現在、セレモニーホールの受け付け側で故人をしのぶものを展示している場合は多い。訪問客はそれを見て故人を思い、遺族と悲しみや別れの辛さを共有する。


 そう。

 それは故人をしのぶためにあるのだ。


 だが、この母は、いずれ開く翼の個展準備ぐらいにしか思っていない。

 今回は無料でみんなに見ていただこうかな、って。

 この発言もちぐはぐだ。


 あの子の特別な式に参加する人の特典。

 本来はお金をとってもいいぐらいのものを公開しているのよ、と。


 それは。

 葬儀の場ですることではない。


「あの子の直近の作品が見つからなくって」


 そこで鈴原は少し言葉を溜めた。

 その間に摩利は嫌悪感を覚えた。


 護がネコババしたのではないか。娘の価値ある作品を無断で所有しているのではないか。

 そんな探りをいれるために、電話をかけてきたのではないのか。


「一点あります。10号サイズの油彩画」


 静かに護が答えた。どきり、と摩利は心臓が鳴る。

 10号の油彩。 


 それは死の間際、翼が持参したあの縁起の悪い油彩画のことか。

 護と目が合う。彼は小さく頷いた。


「数日前に翼が『新築祝い』だと持ってきたものがあるんです」

「まあ、そう! やっぱり! 電話してよかったわ!」


 鈴原の喜色にあふれた声がスマホから流れてくる。


「明日にでもすぐ引き取りにうかがうわ!」

「では店の方に梱包して移動させておきますから。ぼくがいなくてもわかるようにしておきます」


「え? 勝手に持って行ってもいいのかしら。それとも中島のお母さまにお声を……でも、きっとわからないでしょうし……」

「いえ、店にはカフェを手伝ってくださっている女性がふたりいますので。どちらかに声をかけてください」


「あ……。そういえば有名になったんですってね、あの和菓子屋さん」

「おかげさまで」


「中島のお母さまはお元気?」

「ええ。ありがたいことにというかなんというか。いまでも全部覚えていますよ。会っていただいてもいいのですが、毎日デイサービスに通っているもので」


「それは……」


 どんどん態度を硬化させる護にようやく気付いたのだろう。

 鈴原ははじめて言葉に詰まった。


「その……厚かましいと、思っているでしょうね」

「いえ。翼があんなことになって動揺されているのでしょう」


 護が静かに答えるのを見て、摩利は心底尊敬する。

 摩利ならもう電話を切っている。いわばもう他人の関係なのだ。ここまで付き合ってやる義理はない。


「私が入院して、手術だ通院だって大変だったときは、あんなに世話になったのに。いざそちらさまのお母さまに手がかかることがわかったら、あなたに全部押し付けて……」


「確かに母は、病気が発覚したときには手を焼きましたが……。いまは専門家にも手助けしてもらって、ぼくと一緒に普通に暮らしています」


 淡々としているが、護は暗に示した。

 今となっては、何を想像してそんなに恐れおののいて逃げたのだ、と。


「……あの子が婚約を破棄したいと言った時、母親なら諫めるべきだったんでしょうけど。私はあの子に言ったのよ。『わざわざ自分から苦労を買って出ることなんてない』って」

「……」


「だってそうでしょう? あの子はまだ若くてきれいで。才能にだってあふれて、いろんな未来が待っていた。それなのに、古臭い和菓子屋に嫁いで、毎日お金の心配したり姑の世話なんかすることない。出会いなんていくらでもあるし、あの子ならもっといい男性と巡り合える。だから私、そう言って婚約破棄をする娘を応援して……」


 鈴原の声が徐々に震えていく。


「だけど、もしこんな未来を知っていたら違ってた。人並みに結婚させて、夫婦生活を送らせてやりたかった。お母さんのことだって施設にでも入ってもらうようにすればよかった。カフェがそんなに繁盛するんなら、あの子に任せてやりたかった。でも」


 スマホからは嗚咽が漏れる。


「でもあの子は死んでしまった。こんなことなら……こんなことなら。優しいあなたと結婚させておけばよかった」


 しばらくスマホからは泣き声が続いた。護はそれを黙って聞いている。

 摩利も黙って聞いていた。


 この母親の言葉。

 娘のことしか考えていない、と思いながら。


「ごめんなさいね、取り乱して」

 鼻をすする音が聞こえてきた。とりあえずは落ち着いたらしい。


「いえ。では明日、絵を準備しておきますので」

「ありがとう、本当に。なにからなにまで」


「とんでもない。これが最後ですから」

 護は静かにそう告げた。


「今後、こちらに連絡をしていただいても通話を取るつもりはありませんから」


 絶句したような。

 意表をつかれたような沈黙が漂ったが、鈴原が咳払いをして話しかけてきた。


「でも……その、せっかくだからお通夜や告別式や……そうそう個展にも来ていただきたいわ。翼もきっと……」

「婚約者ですって紹介されるのは迷惑ですから」


 ばしりと護が会話を一刀両断した。

 あ、と摩利は声を漏らした。


 ありえそうな話だ。

 通夜や告別式に参加した護を、この母親が「翼の婚約者で」と紹介する。


 実際は数年前に婚約破棄して元婚約者なのだが。

 死別しても元婚約者になる。


 この母親は。

 そうやって「娘は結婚を望まれた人がいて幸せに暮らしていたのだ。最後まで」と言いたいのかもしれない。そういう娘を演出したいのかもしれない。


「ぼくと別れて翼がどんな生活をしているのかは知りませんが。もうほんと、かかわりのないことなので」

「でも……」


「絵は用意しておきますので」

「この薄情者!」


 鈴原は大絶叫を残して一方的に通話を切ったようだ。

 唐突な悪意に摩利は金縛りにあったように身動きがとれない。

 だが護はと言うと、疲れてはいるようだが、摩利ほどのダメージはうけていないように見えた。


「あの絵……。悪意があるようですが、まさか実の母親に悪影響は及ぼさないでしょう」


 護はひとりごちる。


「絵の中に隠された意図にあの母親が気づくのであれば、それはそれで」


 いいのではないか。摩利もそう思う。

 なんにせよすでに鈴原家とは縁が切れているのだから。


「明日、もしぼくがいないときに鈴原のお母さんが絵を取りに来たら……」

「渡しておきます、渡しておきます。というか」


 摩利はがっしりと護の手を握った。


「護さんは会わない方がいい。私がしっかりと渡しておきますし、その様子はあの防犯カメラに残りますから。あとで『渡した、渡してない』ってことにはならないと思います」

「そう……ですか」


 護は少し迷っているようだから、摩利はわざとらしく握った手をぶんぶんと振って見せる。


「たまには頼ったほうがいいですよ! 私がしっかりやっておきます! なんなら里奈さんもいますしね!」

「……では、よろしくお願いします。でももしなにかあればすぐに呼んでくださいね」


「はい」

 摩利は笑顔で頷いた。



 そして次の日。

 絵画の引き渡しはあっけないほどあっさりと終わった。


 鈴原もさすがに体面が悪いと感じてはいたのだろう。

 絵を受け取ると、あいさつもそこそこにさっさと帰っていた。


 里奈と二人、鈴原母対策を練っていた身としては拍子抜けし、そのあと三人で大笑いした。


 そして。

 本当の大事件はそれから三日後に起きた。


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