【現代女性短編小説】「言葉になる前のわたし ~アスファルトの隙間から~」(約13,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1話:すれ違う言葉

 夕暮れ時の駅のホームは、帰路を急ぐ人々の足音で満ちていた。周防時雨は、スマートフォンの画面を見つめたまま、動かない。ホームの端に立ち、行き交う人々の波に背を向けるようにして、彼女は佇んでいた。


「時間、まだある……」


 つぶやいた声は、誰にも届かない。時雨は画面に表示された時刻を確認すると、ため息をついた。いつもなら既に乗っているはずの電車を、今日は見送っている。


 画面には未完成のメッセージが残されていた。宛先欄は空白。本文には「私は私でいいんだよね?」という言葉だけが、点滅するカーソルとともに佇んでいる。


 時雨の黒髪が、夕風に揺れた。


「周防さん、まだ帰らないの?」


 声をかけられて振り返ると、同じ会社の山村美咲が立っていた。いつも明るく社交的な彼女は、時雨とは正反対の性格だった。


「ああ、山村さん。ちょっと……考え事してて」


「そっか。でも、こんなところで考え事するなんて、周防さんらしいよね」


 山村は柔らかく微笑んだ。その表情には、からかいの色は微塵もない。純粋な親しみだけが、そこにはあった。


 時雨は少し戸惑いながら、画面を消した。「らしい」という言葉が、どこか引っかかる。


「私って……そんなに変わってるかな?」


「変わってるっていうか、なんていうのかな。いつも少し遠くを見てるような感じがするの。私にはできないなって、思うことあるよ」


 山村の言葉は、数日前に別れた恋人の言葉と重なった。


『君は何も考えていないように見える』


 その時の彼の声が、まだ耳の中で響いている。時雨は必死に考えていた。でも、それは相手には伝わっていなかった。考えているのに、考えていないように見える。その矛盾が、彼女の中でずっとくすぶっていた。


「私、帰るね」


 山村に軽く会釈をして、時雨は電車に乗り込んだ。座席に腰を下ろすと、窓に映る自分の顔が目に入る。そこには、どこにでもいるような27歳のOLの姿があった。


 スマートフォンを取り出すと、さっきまで開いていた画面が現れる。未送信のメッセージは、まだそこにあった。


 時雨は画面を消して、鞄の中にしまった。今日も、このメッセージを送ることはないだろう。宛先のない言葉は、彼女の中でゆっくりと沈んでいく。


 電車は闇の中を走り続けた。窓の外を流れる街灯の明かりが、時雨の横顔を優しく照らしている。彼女はぼんやりと、その光を眺めていた。


 マンションに帰り着いたのは、午後8時を過ぎていた。


「ただいま」


 返事のない部屋に、小さな声が響く。1DKの狭い空間は、時雨の存在で満たされる。彼女は靴を脱ぎ、バッグを置き、習慣的な動作で一日の終わりの準備を始めた。


 キッチンでお湯を沸かし、カップラーメンを用意する。贅沢とは言えない夕食だが、今日の時雨にはこれで十分だった。箸を持ちながら、彼女はスマートフォンを取り出した。


 SNSには、友人たちの楽しげな投稿が流れている。派手な料理の写真、休日のお出かけの様子、恋人との2ショット。時雨は無意識のうちに、画面をスクロールする速度を上げていた。


「何か楽しいことないの?」


 先週、親友の桜井麻衣にそう聞かれた時の自分の返事を思い出す。


「うん、まあ……普通かな」


 その時の麻衣の表情が、今でも心に引っかかっている。心配と同情が入り混じったような、そんな目で見られるのが嫌だった。でも、他にどんな答えができただろう。


 時雨は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夜景が広がっている。無数の明かりが、それぞれの物語を持っているように瞬いていた。


 ふと、スマートフォンが震えた。LINEの通知だ。心臓が少しだけ早くなる。元カレからかもしれない……。そんな期待と不安が交錯する。


 しかし、それは会社の同僚からの業務連絡だった。明日の会議資料について、確認したいことがあるという内容。時雨は小さくため息をついて、短く返信を書き、送信した。


「はい、承知いたしました」


 画面に映る自分の言葉が、どこか虚しく感じられた。いつも通りの、誰にでも通用する返事。それは安全で、問題のない対応だ。でも、本当にそれだけでいいのだろうか。


 時雨は再び未送信のメッセージを開いた。


「私は私でいいんだよね?」


 その言葉は、まるで彼女自身に問いかけているかのようだった。答えは見つからない。でも、その問いを持ち続けることに、何か意味があるような気がした。


 時雨はベッドに横たわり、天井を見上げた。明日もまた、同じような一日が始まる。それは決して悪いことではない。ただ、どこかで何かが変わればいいのに、そんな漠然とした願いを抱きながら、彼女は目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る